樺崎砲台跡 
2018/04/01 Sun. 13:12 [edit]
所在地:宇和島市住吉町2丁目
別名:
築城年:安政二年(1855)
築城主:宇和島藩
廃城年:
主な城主:
遺構:案内板
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし
幕末、宇和島藩は攘夷態勢を固めるため、七代藩主伊達宗紀(むねただ)は藩士板倉志摩之助らを江戸の砲術家下曽根金三郎信敦に入門させた。下曽根は高島秋帆の高弟である。この高島流砲術が藩内では威遠流と称された。八代藩主宗城(むねなり)はこれを重用し、板倉は砲術師範として門弟を養成し、オランダ流砲術を藩内に定着させた。宇和島藩は、嘉永三年(1850)に高野長英の設計に成る御荘久良砲台(みしょうひさよし)を板倉らが完成させていた。ついで、宇和島湾内にも砲台を築造しようとしたが、安政元年(1854)の大地震による領内の被害が大きかったため、計画は一時中止された。この時、二宮長兵衛在明が樺崎御揚り場(おあがりば)拡張とその横に砲台築造の計画があることを知り、その工費の献納を藩に出願した。藩は家老桜田佐渡を頭取、宇都宮九太夫綱敏・松田源五左衛門常愛(つねちか)を用掛りとして、翌安政二年(1855)三月、砲台築造に着手し、同年十二月にこれを完成させた。海を埋め立てて台場を築く難工事であった。総面積513坪、器械蔵22坪であった。胸墻・砲眼・肩墻・隔墻・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門は藩の手で作られた。安政三年、藩学教授金子孝太郎撰文の記念碑が建てられた。さらに元治元年(1864)、湾の対岸に戎山砲台が築かれた。慶応二年(1866)六月、英行使パークスの来訪に際し、樺崎砲台は礼砲を打っている。この洋式砲台は宇和島藩が西洋に眼を開いた遺跡として甚だ貴重である。『現地案内板より』
砲台跡

案内板


樺崎砲台跡へのアクセス
別名:
築城年:安政二年(1855)
築城主:宇和島藩
廃城年:
主な城主:
遺構:案内板
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし
幕末、宇和島藩は攘夷態勢を固めるため、七代藩主伊達宗紀(むねただ)は藩士板倉志摩之助らを江戸の砲術家下曽根金三郎信敦に入門させた。下曽根は高島秋帆の高弟である。この高島流砲術が藩内では威遠流と称された。八代藩主宗城(むねなり)はこれを重用し、板倉は砲術師範として門弟を養成し、オランダ流砲術を藩内に定着させた。宇和島藩は、嘉永三年(1850)に高野長英の設計に成る御荘久良砲台(みしょうひさよし)を板倉らが完成させていた。ついで、宇和島湾内にも砲台を築造しようとしたが、安政元年(1854)の大地震による領内の被害が大きかったため、計画は一時中止された。この時、二宮長兵衛在明が樺崎御揚り場(おあがりば)拡張とその横に砲台築造の計画があることを知り、その工費の献納を藩に出願した。藩は家老桜田佐渡を頭取、宇都宮九太夫綱敏・松田源五左衛門常愛(つねちか)を用掛りとして、翌安政二年(1855)三月、砲台築造に着手し、同年十二月にこれを完成させた。海を埋め立てて台場を築く難工事であった。総面積513坪、器械蔵22坪であった。胸墻・砲眼・肩墻・隔墻・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門は藩の手で作られた。安政三年、藩学教授金子孝太郎撰文の記念碑が建てられた。さらに元治元年(1864)、湾の対岸に戎山砲台が築かれた。慶応二年(1866)六月、英行使パークスの来訪に際し、樺崎砲台は礼砲を打っている。この洋式砲台は宇和島藩が西洋に眼を開いた遺跡として甚だ貴重である。『現地案内板より』
砲台跡

案内板


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category: 愛媛県
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