所在地:京都府綾部市物部町下市
別名:高屋城
築城年:建久4年(1193年)
築城主:上原景正(九郎成正とも)
廃城年:元亀2年(1571年)
主な城主:上原氏
遺構:井戸、土塁、竪堀、曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:物部公民館駐車場
概要
物部城は、犀川流域の比高35m程の独立丘陵に築かれている。本丸は東西20m×南北9m、高さ1mの長方形をなし、北半分ほど低くなっている。本丸の東の隅には物見台があり西の隅には櫓台があって帯郭が設けられていた。本丸西側に三の丸、東側にある二の丸入り口手前には番所と思われる広場があり竪堀は馬蹄形に作られている。城主は、上原成政で源頼朝の命により丹波何鹿部六万石の領地を与えられ、建久4年(1193年)物部の地に入った。当初は、高屋山を居城と定め、密蔵院高屋寺の裏山一帯を陣屋としますが、後の文明年間(1469~84年)に、この地の城山に移され、文明16年(1484年)には、物部(上原)賢家が丹波守護代(それ以前の文明14年に元秀が内藤元貞に替って守護代となり、父の賢家は元秀の後見をしていたともいわれる。)に任ぜられ急速に成長するが、延徳元年(1489年)反上原の丹波衆は『位田の乱』を起こします。長期化しますが明応元年(1493年)終結します。賢家が再び守護代になったようですが、賢家の後秀家が跡を継いだようですが守護代職を罷免され次第に没落し、元亀二年(1571)上原右エ門小輔(秀家)の時、黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。
諏訪神社由緒
源頼朝は平氏を滅ぼすや国々に守護地頭を任じて幕府の支配下に置いたが、建久四年(1193)物部郷の地頭として頼朝の家来信濃諏訪神党の上原成政(上原氏由緒書では右エ門丞景正)が来て、初め高屋山に城を築いたが後に、ここに築城し、鎌倉時代以来の在地豪族として、戦国時代丹波の守護代となって威を振るった。
元亀二年(1571)上原右エ門小輔の時、元亀二年(1571)上原右エ門小輔の時、氷上郡黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。城山の南麓の諏訪神社は上原氏が故郷諏訪から勧請した氏神である。
諏訪神社
諏訪神社


諏訪神社由来

この竪堀から登城します。




土塁

南郭

三の丸

櫓台

主郭

東郭

二の丸

井戸跡

物部城跡へのアクセス