嶽山城跡

所在地:大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
別名:龍泉寺城、岳山城、東条城
築城年:元弘2年(1332年)
築城主:楠木正成
廃城年:永正5年(1508年)
主な城主:楠木氏、畠山氏
遺構:曲輪、空堀
指定文化財:
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:

概要
嶽山城は、南北朝時代では南朝方の佐備氏が守将となって防衛に当たっていたが、延元2年/建武4年(1337年)、北朝方の細川顕氏の攻撃により激戦の末陥落した。その後、南朝方が奪還して楠木正儀・和田正武の軍が千人ほどいたが、正平15年/延文5年(1360年)に北朝方の細川清氏、赤松範実によって落とされた。以後は河内守護畠山氏の支城となる。
室町時代中期になると畠山氏にお家騒動が発生、畠山政長に家督や河内・紀伊・越中・山城の守護職を奪われた上に治伐の綸旨まで出され、朝敵にされた畠山義就が長禄4年(1460年)12月、籠城を開始する。ここに応仁の乱の前哨戦とも言える嶽山城の戦いが開始され、2年以上も細川勝元や政長を中心とする幕府軍を散々悩ませたが、寛正4年(1463年)4月15日、成身院光宣の計略によって嶽山城は陥落した。義就はひとまず高野山に逃れ、紀伊を経て最終的に吉野に落ち延びた。
永正5年(1508年)には義就の孫の義英は細川勝元の孫の澄元と合戦となり、嶽山城に立て籠もった。しかし、澄元の家臣である赤沢長経に攻め落とされて落城。義英は城を捨てて逃亡した。 城はこの後の畠山氏の没落と共に廃城になった。


かんぽの宿 富田林



テニスコートの脇を奥に向かって入ります

本丸


嶽山城址は南北朝時代、元弘2(1332)年、楠木正成によって築かれた城です。
「太平記」34巻(龍泉寺軍の事)によると、楠木正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせて守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。この時、木の梢などに旗を結わせ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山にいた奇手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒らに150日余りを過ごした。ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶や林に帰る烏が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360)年細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされました。その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場となり、永正5(1508)年に落城したといわれています。
「現地説明板より」

説明板と城跡碑

土塁かな?


嶽山城跡へのアクセス
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千早城跡

所在地:大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
別名:楠木詰城、金剛山城、千早の詰め城、千早のかくれ城
築城年:元弘2年/正慶元年(1332年)
築城主:楠木正成
廃城年:明徳3年(1392年)
主な城主:楠木氏
遺構:曲輪、空堀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:金剛登山口周辺に有料駐車場有り
名城スタンプ設置場所:金剛山麓 まつまさ

概要
千早城は、楠木正成が討幕再挙のため、楠木城とともに築城した山城。建武中興前後の歴史を語り伝える遺跡として重要であることから、1934年(昭和9年)の建武中興600年を機に、上・下赤阪城跡、金剛寺境内、観心寺境内などとともに国の史跡に指定された。1132年(元弘2年)に楠木正成が再起すべく築城した周囲4kmにも足らぬ小城であるが、翌年にはわずか1000人の小勢で鎌倉北条氏の大軍を引き受け、奇策を用い大いに敵を悩ませた。四方が千早川の深い谷に囲まれ、城の背後の小径によって金剛山頂につながる天然の要害の地に立地する。尾根筋を地形に合わせて5つの郭(くるわ)に分け、空堀や堀切りも設けられていた。頂上には千早城跡の銅標が建てられ、西南北の傾斜がきつい所に千早神社の社殿、東方に楠木正儀(まさのり)の墓といわれる五輪塔がある。


千早城跡登城口





石碑 「楠公之功與此山倶高」と書いてあります

四の丸

四の丸

四の丸

三の丸に続く道

三の丸

三の丸に建つ城跡碑

三の丸

二の丸にある千早神社

千早神社本殿の裏の丘の上が本丸跡になりますが、立ち入り禁止となっています。

千早城跡へのアクセス

赤坂城跡

所在地:大阪府南河内郡千早赤阪村森屋
別名:下赤坂城
築城年:鎌倉時代末期
築城主:楠木正成
廃城年:延文5年/正平15年(1360年)
主な城主:楠木氏
遺構:なし
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:富田林市消防署 千早赤阪分署の隣にあります。

概要
鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。標高185.7メートル、比高61.4メートル。遺構はほとんど残っていない。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったとされる。千早赤阪中学校の裏手に石碑が残り、日本の棚田百選にも選ばれた美しい棚田の風景が広がる。



中学校の裏手に城跡碑がありますが道わからず断念!


赤坂城跡へのアクセス
富田林市消防署 千早赤阪分署の隣にある駐車場から徒歩10分

上赤坂城跡

所在地:大阪府南河内郡千早赤阪村大字桐山
別名:楠木城、小根田城、桐山城
築城年:鎌倉時代末期:元弘2年(1332年)もしくは元弘3年(1333年)
築城主:楠木正成
廃城年:延文5年/正平15年(1360年)
主な城主:楠木氏、平野氏
遺構:横堀、曲輪
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:登城口にスペースあり

概要
この山城は、西側の主郭(本丸)、東側の第2郭(2の丸)から形成されており、主郭(本丸)の周囲や、第2郭(2の丸)から北西方向に多くの曲輪(くるわ)と呼ばれる平坦地を連ねています。

元弘の乱の主要な舞台となった。元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、新たに築いた当城が楠木氏の城の一つとなり、幕府軍に対抗した。元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)に発生した上赤坂城の戦いでは、平野将監入道と楠木正季(楠木正成の弟)が、鎌倉幕府の阿蘇治時・長崎高貞・結城親光らと戦った。閏2月1日(3月17日)に上赤坂城は落城したものの、幕府軍を苦しめ、千早城で発生した千早城の戦いと合わせて、元弘の乱での後醍醐天皇勝利に大きく貢献した。
周辺の金剛山の尾根上には下赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。この城塞群は南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年/正平15年(1360年)に北朝方の手に落ちた。


登城道







一ノ木戸跡

案内板

一ノ木戸跡

二の木戸跡

二の木戸跡説明板

三の木戸跡

三の木戸跡説明板

そろばん橋

茶碗原

茶碗原



主郭

主郭

主郭

主郭

景観

城跡碑と景観


上赤坂城跡(楠木城)へのアクセス
国道309号線から南河内グリーンロードに入り、道なりに進むと右手に給食センターあります。そこを左に曲がります。

赤土山城跡

所在地:大阪府南河内郡千早赤阪村水分27
別名:赤土山砦
築城年:元弘二年(1332年)
築城主:神宮寺氏
廃城年:不明
主な城主:神宮寺正師
遺構:曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
赤土山城は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、楠木正成の本城上赤坂城の支城砦群のひとつで、1332年に築か
れ楠木氏の家臣神宮寺正師が守備しました。


主郭




赤土山城跡へのアクセス

持尾城跡

所在地:大阪府南河内郡河南町持尾
別名:平岩城
築城年:南北朝時代
築城主:平岩氏
廃城年:不明
主な城主:平岩氏
遺構:曲輪、石碑、説明板
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
持尾城は、元弘二年(1332年)楠木正成が築いた支城の一つとして、共に戦った平岩氏が平石城とともに築いた山城です。大和から河内へ侵入する関東軍の様子がよく見えるため、のろし台の役目をしていたと思われます。平石峠を越えてくる敵軍の守備にあたったと伝えられています。中世の砦の形がよく残っていて尾根のところどころを削り取って平らにした形などがあり、また展望がすばらしく、晴れた日には淡路島まで見渡すことができます。

こちらから徒歩で向かいました



磐船神社

説明板

二の丸にある磐船神社

ここを登ると主郭

主郭にあるあずまや

主郭にある城跡石碑と説明版

主郭からの景観


持尾城跡へのアクセス
駐車場の確保が困難です。近隣に迷惑をかけないように心がけて下さい。

平石城跡

所在地:大阪府南河内郡河南町平石
別名:平岩城
築城年:南北朝時代
築城主:平岩茂直
廃城年:不明
主な城主:平岩氏
遺構:曲輪、石碑、説明板
指定文化財:府指定史跡(平石城跡)
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
平岩城は、この地の豪族平岩茂直が、楠氏の赤阪挙兵に応じて築いた城である。元弘元年(1331年)赤阪城攻略にむかい関東軍は、平岩峠を越えて大和から河内に進入したが、茂直はこの城によって防戦した。その後正平14年(1359年)、足利勢が河内に攻め入った時、楠木正儀は17の城を整備してこれを防ぎ、この城も17支城の一つとして修築して茂直の子茂幸が防戦した。頂上が本丸跡で、本丸の入口両方から谷がせまって首のように細くなっている所が木戸跡である。周囲の山で平になっている所が出丸の跡である。   
『河南町教育委員会説明板』より


登城口

堀道

堀切・虎口





主郭

城跡碑と説明板



主郭

堀切


平石城跡へのアクセス
駐車スペースの確保が困難です。近隣に迷惑をかけないように心がけて下さい。

白木陣屋跡

所在地:大阪府南河内郡河南町白木
別名:采地陣屋
築城年:寛文元年(1661年)
築城主:石川総長
廃城年:慶応4年(1868年)頃
主な城主:石川氏
遺構:石垣、移築門
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
白木陣屋は、寛文元年(1661年)石川総長によって築かれた。石川総長は、膳所藩7万石の藩主石川忠総の3男として生まれ忠総の死後7万石の内1万石分として伊勢国神戸藩を授けられました。万治3年(1660年)に大阪城番に任命され、神戸藩に加えて河内国石川郡内に1万石を与えられました。建物は、明治の初めに売り払われ、周囲の石垣と千早赤阪村吉年に移築された門に当時の面影を残すだけになりました。


陣屋跡にある民家

白木陣屋跡説明版

かなり分かりにくいですが石垣跡です






白木陣屋跡へのアクセス

山王山城跡

所在地:岡山県美作市古町
別名:小原城、小原山王城
築城年:建武2年(1335年)
築城主:小原孫次郎入道信明
廃城年:明応2年(1493年)
主な城主:小原氏、宇野氏、新免氏
遺構:曲輪、堀切
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:神社駐車場

概要
山王山城跡は、約標高355mの山頂にあり建武2年(1335年)小原孫次郎入道信明が築城しました。康安元年(1361年)山名氏が攻め入り落城したといいます。康正二年(1456年)に宇野中務大輔家貞が再興して小原城と称し、新免長重に嫁した妹の子を養子とします。これが宇野貞重で、後に新免伊賀守貞重と改めます。貞重は、明応二年(1493年)まで居城していましたが、貞重が明応2年(1493年)竹山城に移り、この城は廃城となりました。(『美作国の山城』参考)

城域は北東側の主郭部と南西側の別郭に分かれ、両区域の間は三重の堀切で仕切られている。主郭部と別郭はそれぞれ外郭部に土塁と横堀・畝状空堀群を組み合わせた複雑かつ技巧的な防塁型ラインを築き、強固な防禦線を形成する。


大原神社

大原神社社殿

神社裏手左側のこちらより登城します。

登城道

横堀

堀切

堀切

曲輪

土塁

曲輪(二郭)

曲輪



曲輪

堀切①

堀切②

堀切③

主郭

主郭

高射砲台の跡

主郭


山王山城跡へのアクセス

平福御殿屋敷跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町平福
別名:
築城年:1349年(貞和5年、正平4年)
築城主:別所敦範
廃城年:1631年(寛永8年)
主な城主:別所氏、宇喜多氏、池田氏
遺構:石垣、曲輪、空堀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし

概要
平福御殿屋敷跡は慶長5~10年(1600~1605)にかけて築城された利神城の山麓居館であると考えら れる。利神城は播磨国主となった池田輝政の支城として、甥の池田由之が築いた。麓の御殿屋敷は南北 を石垣で区切り、西側は佐用川の河川を堀に見立て、護岸に石垣を築いて防御したといわれる。利神城 は寛永8年(1631年)頃に廃城になったといわれ、御殿屋敷はその直後から畠などの開墾が始まったとみられる。










平福御殿跡へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
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○掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。

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撮影機種

2017年3月よりEOS M5で撮影しています。