浅根山城跡

所在地:京都府綾部市物部町岸田
別名:朝寝城、成田城、物部城
築城年:建久4年(1193年)
築城主:上原景正、成田石見守
廃城年:不明
主な城主:上原氏、成田氏
遺構:井戸、土塁、堀
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:浅根山公園駐車場

概要
浅根山城は、建久年間(1190~99年)に上原氏が築いたとされるが史実かどうかは不明です。ただ、この城跡の西側に上原氏が城主の物部城があり位置的に支城と思われる。口伝によれば成田石見守の居城であったともいわれる。本丸の規模は、東西8m南北12mで、中央部には4m四方の盛り土が残っている。背後には空堀がある。上原氏は、信濃国諏訪下社の神官の出で、諏訪郡上原村に居住したことから上原を名乗るようになった。鎌倉時代に地頭として何鹿郡に入部した。15世紀末頃には上原(内藤)賢家、元秀は、丹波守護細川氏の被官として勢力を振るった。しかし、賢家、元秀以降は勢力を減少していく。延徳元年(1489年)には、荻野氏、大槻氏と抗争するが、大きな痛手を負っている。元亀2年(1571年)には、上原大輔が丹波黒井城主赤井直正に攻め滅ぼされています。


浅根山公園駐車場

西郭にある展望台

堀切



土塁

主郭と土塁

腰郭にある水道施設

景観


浅根山城跡へのアクセス
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上林城跡

所在地:京都府綾部市八津合町石橋
別名:生貫山城,八津合城 、鍋山ヶ城、小雲城
築城年:天文年間(1532~55年)
築城主:上林下総守晴国
廃城年:不明
主な城主:上林氏、高田氏
遺構:井戸、土塁、曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:スペースあり

概要
上林氏は、清和源氏赤井氏の庶流で、室町幕府の被官として何鹿郡上林庄に入部していた。上林城は、天文年間(1532~55年)に、上林下総守晴国によって築城され、以後その居城となったとされる。晴国は、永禄3年(1560年)、織田信長方の高田豊後守治忠に敗れるが、間もなく返還を受けています。明智光秀没後、高田豊後守が天正15年(1587年)、上林一万石を知行地とするに至り上林氏はこの地を去ります。


主郭

天守台(本丸)と石垣

土塁

景観

上林城説明板

稲荷神社

井戸跡

北郭


上林城跡へのアクセス

藤懸陣屋跡

所在地:京都府綾部市八津合町石橋
別名:なし
築城年:慶長6年(1601年)
築城主:藤懸永勝
廃城年:明治
主な城主:藤懸氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:なし

概要
藤懸陣屋は、慶長6年(1601年)に藤懸永勝によって築かれた。永勝は、弘治3年(1557年)、織田氏の末流で、織田永継の子として誕生。藤懸善右衛門に養育されたことから藤懸姓を称した。父・永継も信長の家臣で、11歳の頃から信長に仕え『浅井三代記』には、天正元年(1573年)の小谷落城時はお市や浅井三姉妹を救出して岐阜城に帰参したとする。天正7年(1579年)、信長の四男・秀勝が羽柴秀吉に養子入りすると、信長の命によってその輔佐に任じられた。信長の死後、秀勝が丹波一国の国主に封ぜられると、6000石を与えられた。天正13年(1585年)、秀勝の病死に伴い、秀吉に召し抱えられた。この時に次男・永元に1000石を分知した。加増を重ねたようだが、『藤懸氏系図』には丹波氷上郡小雲に1万3000石とあり『桃山末分限帳』によれば慶長5年(1600年)丹波上林に1万5000石、『重修譜』では何鹿郡へは関ヶ原の役の後の慶長6年(1601年)の移封とする。関ヶ原の戦いで丹後田辺城攻めに参加したが、細川幽斎と親しく、攻撃は形だけであったという。戦後は六千石に減封され上林に入部して旧上林城跡の麓に、藤懸陣屋を構えた。『日本城郭大系11 他参照』









藤懸陣屋跡へのアクセス

日置谷城跡

所在地:京都府綾部市八津合町
別名:なし
築城年:不明
築城主:上林氏?
廃城年:不明
主な城主:上林氏?
遺構:曲輪、土塁、空堀など
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:上林禅寺駐車場

概要
日置谷城の城史は詳細不明です。遺構は、主郭は逆L字型になっており周囲をはぼ土塁で巡らされているが西側と南側の土塁は幅が広い。主郭の西と北側に堀切があり北側は二重堀切になっている。この西と北側の斜面には8本の竪堀が連続する。城郭談話会の福島克彦氏によると、枡形状虎口や折れのある土塁などから織豊系の陣城と指摘している。こちらの地名が本城ということや、上林氏が明智光秀に従っていたことが文献から明らかに出来ることから、日置谷城は上林氏の本城と考えた。


上林禅寺

上林禅寺由緒

登城口にある観音堂

東郭

土塁

堀切

主郭の方に向かいます

竪堀





畝状竪堀

畝状竪堀







曲輪

竪堀



竪堀

二の丸



二の丸

主郭



空堀



土塁





土塁

土塁

土塁

主郭

山内城跡

所在地:京都府綾部市睦寄町迫ノ元
別名:
築城年:天正10年(1582年)
築城主:高田豊後守治忠
廃城年:不明
主な城主:高田豊後守治忠
遺構:曲輪、堀切
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:二王公園駐車場

概要
永禄3年(1560年)高田豊後守治忠が織田信長の家臣として生貫山城の上林氏を下し、さらに若狭高浜城主逸見駿河守とともに位田城、栗城を攻めたと伝わります。天正10年(1582年)高田豊後守治忠は、明智光秀の支配下を離れた上林谷において1万石を領地し山内城を築いて生貫山城を上林晴国に譲ったとされます。遺構は6m四方の主郭を中心に北側に一つ南側に主郭より少し広い郭が2つあります。主郭と北側の曲輪の西に細い曲輪があり南側の曲輪と接続しています。北側に堀切を有し西側斜面に竪堀があります。

登城口



かなり急斜面なので気を付けてください。

主郭

郭1

帯郭


山内城跡へのアクセス
二王公園を目指しで下さい

甲ヶ峰城跡

所在地:京都府綾部市広瀬町上ノ町
別名:山家城、左衛門屋敷
築城年:永禄6年(1563年)
築城主:和久義国
廃城年:天正7年(1579年)
主な城主:和久義国
遺構:曲輪、堀切
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:駐車スペースあり

概要
山家陣屋があった尹也神社から岩山を上ると山家城のある甲ヶ峯がある。城跡西側の堀切に設けられた土橋を超えると井戸跡がある削平地がある。この削平地より3メートルほど高くなっている本丸は東西80m×南北15mの長方形をなしており、東西側には若干の段差を持たせている。本丸には腰郭があり、本丸の東には堀切を隔てて三角形の郭が設けられている。和久氏は、丹波・横山城主である塩見頼勝の4男で、通称は和久左衛門佐と伝わっています。永禄六年(1563年)丹波八木城の内藤氏との和藤合戦が伝えられます。永禄8年(1565年)には黒井城主の赤井直正に攻め込めれ、父・塩見頼勝が討死してしまいます。この時、内藤宗勝が討死したともされます。その後、天正7年(1579年)明智光秀の丹波攻めの際に山家城の廃却命令に従わなかったため攻め込まれて落城し、帰農したという。


登城口

伊也神社由緒



伊也神社

堀切

堀切

土橋

曲輪

虎口

二の丸

二の丸

本丸

本丸



土塁

堀切

虎口



土塁

説明板

照福寺跡

帯曲輪




山家城跡へのアクセス

山家藩陣屋跡

所在地:京都府綾部市広瀬町上ノ町
別名:なし
築城年:天正10年(1582年)
築城主:谷衛友
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:谷氏
遺構:模擬門、曲輪、堀切、井戸
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:駐車スペースあり

概要
天正10年(1582年) 播磨、備前の軍功により秀吉から丹波国何鹿郡1万6千石を与えられ美濃国から移住。谷衛友の父である谷衛好は美濃の斎藤道三、龍興に仕え、美濃斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えました。天正7年(1579年)秀吉の三木城攻めの際、子の衛友とともに三木城に対する付城を守っているところを別所勢に攻撃され父の谷衛好は討ち死、子の衛友は、その屍を奪い返し仇を討ち取る。このときの勇戦の感状を、秀吉から受けている。また、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、石田三成勢として福知山城主小野木重勝とともに田辺城(舞鶴市)に籠城した細川幽斎を攻めた。幽斎は多くの武将に慕われ、細川方と通じていた谷も空砲を放って積極的に攻撃しなかったとされ、「谷の空鉄砲」の逸話が残る。戦後は徳川家康から所領を安堵されている。 山家藩は、明治時代まで谷氏13代の支配が続いた。


模擬城門

山家城石碑

山家陣屋説明板

模擬城門



藩主谷氏を祀った谷霊神社



陣屋跡

陣屋跡

井戸跡

井戸跡

土塁

石垣

石垣

空堀

石垣

陣屋跡

谷霊神社



空堀

空堀

石垣

空堀

空堀底から見上げる

空堀

土塁


山家藩陣屋跡へのアクセス

丹南藩陣屋跡

所在地:大阪府松原市丹南3丁目4-10(来迎寺)
別名:なし
築城年:元和9年(1623年)
築城主:高木正次
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:高木氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:来迎寺

概要
初代藩主高木正次は関東、及び近江国に9千石を領する旗本であったが、元和9年(1623年)大坂城定番となる。この時、1千石の加増を受け、河内国丹南郡に1万石を与えられ、陣屋を築いた。 6代正陳の時、江戸定府となった。元禄12年(1699年)所領の一部を下野国足利郡に移された。 13代正善の時、明治維新を迎えた。
なお、陣屋の御殿の客殿の一部が来迎寺の奥座敷として明治維新後に移築現存されていたが、取り壊されてしまい、現存しない。(非公開となっている)。 陣屋の隣にある高木氏の菩提寺である来迎寺山門前に陣屋の碑と説明版がある。陣屋跡は現在工場敷地や民家となっていて、陣屋の遺構を見る事は出来ない。









丹南藩陣屋跡へのアクセス

丹下城跡

所在地:大阪府羽曳野市南恵我之荘7丁目・大阪府松原市西大塚1丁目
別名:なし
築城年:鎌倉時代初期
築城主:丹下氏
廃城年:天正3年(1575年)
主な城主:丹下氏
遺構:曲輪、堀(周壕)
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
丹下城の創築年代は明確でないが、鎌倉時代初期、この地方に鎌倉より下向し土着した佐々木高綱の子孫の丹下氏が築造したものである。南北朝時代初年には、丹下氏は楠木方に属したが、建武四年(1337年)には北朝方に属し、南朝方の攻撃を受けている。また、翌年も南朝方の和田氏の攻撃えお受け、数日間の攻撃に耐えている。当時の城主は丹下八郎太郎といったようで、丹下氏は松原荘にも城郭を構え(支城か)、そこを攻められ息子が討たれている。
以後、戦国時代末期に至る間、丹下氏の動向は不明だが、天正三年(1575)の織田信長の河内国城郭破却令によって丹下氏は退城し、丹下城は破却された。この時丹下氏は島原の開墾を命ぜられ、帰農してその地に居住し、姓を吉村と名乗った。丹下城は大塚山古墳を利用したものだが、大塚山古墳そのものは、北面する三段造りの五世紀後半から末期にかけての大型前方後円墳である。一般の立入が禁じられているため、踏査はできないが、古墳そのものの墳丘・周濠が城に利用されているから、城郭らしい遺構はないと思われる。『日本城郭大系第12巻より』









丹下城跡へのアクセス

一津屋城跡

所在地:大阪府松原市一津屋5-8-19(厳島神社)
別名:なし
築城年:南北朝時代
築城主:和田氏
廃城年:天正3年(1575年)頃か?
主な城主:和田氏・三好氏
遺構:曲輪、堀(周壕)
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
一津屋城は、前方後円墳を利用した砦跡であり、南北朝時代には、楠氏の一族である和田氏が砦として守り、一津屋城と名づく。河内誌に一津屋城は戦国時代に三好駿河守の所有とある。伝説によると当時、村の西方にある「城の本」(現在の松原第七中学校あたり)に本城があり、その出城であった。急変があると、鐘を撞き、城内に知らせたことからその地名が残ったとの伝承がある。また、戦国時代に、三好駿河守がこの城に拠ったと伝えているが、駿河守とはだれかなど不確かである。廃城時期は、信長が河内国の諸城の破却を行わせた天正3年(1575年)の可能性が強いが正確なことは不明です。本丸と伝えられている所には、厳島神社が祀られており、現在、北側および東側に堀が残っている。







堀跡

堀跡




一津屋城跡へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
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撮影機種

2017年3月よりEOS M5で撮影しています。