お知らせ

当ブログをご覧の皆様 いつも有難うございます。
約8年間にわたり951か所の城跡をご紹介してきましたが、
ブログの容量が少なくなりましたので、ここでの更新は行わず
こちらなんとなく城跡巡り2として
新たな気持ちで更新していきたいと思います。
更新数がかなり減るかもしれませんが今後ともよろしくお願いいたします。




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高倉山城跡

所在地:兵庫県佐用郡上月町櫛田
別名:
築城年:建久年間(1190~99年)
築城主:宇野播磨守則景
廃城年:1567年(永禄10年)
主な城主:宇野則景他一族・赤松氏
遺構:本丸・郭跡・空堀
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月17日(土)晴
駐車場:高倉山無料駐車場

概要
高倉山城は、建久年間(1190~99年)が初めてこの山に城を築きました。そして、則景が佐用町横坂の高山城に移ったのちは弟の宇野新太夫則連をはじめ、代々宇野一族が在城していたが嘉吉の乱(1441年)に際し、美作方面から進攻してきた山名教清のため、落城し廃城となりました。しかし、その後赤松氏の復興と共にこの城へ赤松氏一族が入城していたらしく天正5年(1577年)羽柴秀吉が佐用郡へ攻め入ったとき赤松則尚の娘婿福原主膳助就が守っていたが、激戦のすえ敗れ助就は討死し、羽柴勢の手に渡った。以降この城は上月城攻略の拠点として羽柴秀長、荒木村重が守っていた。上月城落城後は山中鹿之助に委せて姫路に引き上げたが翌天正6年(1578年)再びここに城を築いて入城。これは、毛利軍に囲まれた上月城を援助する為だったが。結局尼子勢の守る上月城を見捨てて姫路に引き上げてしまいました。


駐車場

説明板

登城口

山頂直下の分岐店 左が古城跡 左は山城跡山頂 

先ずは古城跡に向かいます。

主郭

主郭からの景色

堀切







景色

主郭

高倉山城跡に向かいます



主郭

主郭

主郭






高倉山城跡へのアクセス

米田城跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町米田
別名:熊見城
築城年:文治年間(1185~90年)
築城主:山田伊豆守則景
廃城年:1567年(永禄10年)
主な城主:山田氏ー宇野氏ー赤松氏ー得平氏
遺構:曲輪、土塁
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月10日(土)晴
駐車場:頂上付近

この城は、山田伊豆守則景が築城したと言われていますが、『佐用郡誌』には、山田伊豆守則景の弟宇野新太夫将則(または為助)が、『赤松家播備作城記』には佐用三郎左衛門範家が初めて築き、建武年間(1334-38年)この城に居たとある。一方得平謙三氏は『熊見城址』で、山田伊豆守則景が初めて築城したが、高倉山城を築いて移った為宇野為助がこれを完成させたと述べています。いずれにせよこの城は、宇野一族によって引き継がれたようです。嘉吉の乱の時山名教清によって落城し、その後赤松氏再興によって赤松一族の居城になったが文明6年((1474年)山名政豊に攻略されその後、得平源三が居城したが、赤松義村と争って落城した。また、天文7年(1538年)能登守祐清が城主の時、尼子晴久に敗れて尼子氏に従属した。永禄10年(1567年)尼子氏の上月城が毛利氏に攻められ落城したため祐清は米田城を放棄して宍粟市の篠の丸城へ逃げ廃城になった。


郭跡にある施設

土塁







削平地


米田城へのアクセス

櫛田城跡

所在地:兵庫県佐用郡上月町櫛田
別名:宮山城
築城年:建長年間(1249~55年)
築城主:櫛田八郎有景
廃城年:不明
主な城主:櫛田氏
遺構:本丸、曲輪、空堀
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月10日(土)晴
駐車場:櫛田公民館

櫛田城は、標高130mにあり三町の一部を整地して八幡神社が建立されています。この八幡神社にちなんで「宮山城」の別名が生まれました。城は、建長年間(1249~55年)、永田山城主得平三郎頼景の次男有景(一説には頼景の子源太兼則の三男有景とある。)により築かれ、地名の櫛田をとって、櫛田八郎有景と名乗りました。以降相続されましたが、7代目の有兼の時、嘉吉の乱に遭い、山名氏に滅ぼされました。寛正6年(1465年)再び櫛田氏の子孫がこの城に入りましたが、天正5年(1577年)城主は、櫛田佐馬助頼久(景則)であったが、羽柴秀吉軍が柏原城(徳久城)攻撃の際、救援に向かう途中戦死しています。
『日本城郭大系12より抜粋』

ここから登城します



登城口にある鉄格子





郭跡にある八幡神社

こちら側から本丸跡に向かいます

二の丸

堀切

土塁

本丸跡

本丸跡

堀切


櫛田城跡へのアクセス
左側の坂を登ります

丸山城跡

所在地:京都府綾部市大畠町丸山
別名:なし
築城年:永禄年間(1558年~70)初年頃
築城主:大槻山城守逐重
廃城年:元亀2年(1571年)
主な城主:大槻氏
遺構:土塁、堀切、曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:なし

概要
本丸の規模は東西30m×南北60mでやや丸みを持ち山手側には土塁が、その外には堀が設けている。この城の城主は、永禄年間初年頃、近くにある栗城城主の弟大槻山城守逐重であった。元亀2年(1571年)織田信長方によって落城し、民に降り大畠の荘官に任ぜられた。




登城口

削平地

堀切

堀切



土塁





主郭


丸山城跡へのアクセス

物部城跡

所在地:京都府綾部市物部町下市
別名:高屋城
築城年:建久4年(1193年)
築城主:上原景正(九郎成正とも)
廃城年:元亀2年(1571年)
主な城主:上原氏
遺構:井戸、土塁、竪堀、曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:物部公民館駐車場

概要
物部城は、犀川流域の比高35m程の独立丘陵に築かれている。本丸は東西20m×南北9m、高さ1mの長方形をなし、北半分ほど低くなっている。本丸の東の隅には物見台があり西の隅には櫓台があって帯郭が設けられていた。本丸西側に三の丸、東側にある二の丸入り口手前には番所と思われる広場があり竪堀は馬蹄形に作られている。城主は、上原成政で源頼朝の命により丹波何鹿部六万石の領地を与えられ、建久4年(1193年)物部の地に入った。当初は、高屋山を居城と定め、密蔵院高屋寺の裏山一帯を陣屋としますが、後の文明年間(1469~84年)に、この地の城山に移され、文明16年(1484年)には、物部(上原)賢家が丹波守護代(それ以前の文明14年に元秀が内藤元貞に替って守護代となり、父の賢家は元秀の後見をしていたともいわれる。)に任ぜられ急速に成長するが、延徳元年(1489年)反上原の丹波衆は『位田の乱』を起こします。長期化しますが明応元年(1493年)終結します。賢家が再び守護代になったようですが、賢家の後秀家が跡を継いだようですが守護代職を罷免され次第に没落し、元亀二年(1571)上原右エ門小輔(秀家)の時、黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。

諏訪神社由緒
源頼朝は平氏を滅ぼすや国々に守護地頭を任じて幕府の支配下に置いたが、建久四年(1193)物部郷の地頭として頼朝の家来信濃諏訪神党の上原成政(上原氏由緒書では右エ門丞景正)が来て、初め高屋山に城を築いたが後に、ここに築城し、鎌倉時代以来の在地豪族として、戦国時代丹波の守護代となって威を振るった。
元亀二年(1571)上原右エ門小輔の時、元亀二年(1571)上原右エ門小輔の時、氷上郡黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。城山の南麓の諏訪神社は上原氏が故郷諏訪から勧請した氏神である。
諏訪神社


諏訪神社



諏訪神社由来

この竪堀から登城します。







土塁

南郭

三の丸

櫓台

主郭

東郭

二の丸

井戸跡


物部城跡へのアクセス

浅根山城跡

所在地:京都府綾部市物部町岸田
別名:朝寝城、成田城、物部城
築城年:建久4年(1193年)
築城主:上原景正、成田石見守
廃城年:不明
主な城主:上原氏、成田氏
遺構:井戸、土塁、堀
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:浅根山公園駐車場

概要
浅根山城は、建久年間(1190~99年)に上原氏が築いたとされるが史実かどうかは不明です。ただ、この城跡の西側に上原氏が城主の物部城があり位置的に支城と思われる。口伝によれば成田石見守の居城であったともいわれる。本丸の規模は、東西8m南北12mで、中央部には4m四方の盛り土が残っている。背後には空堀がある。上原氏は、信濃国諏訪下社の神官の出で、諏訪郡上原村に居住したことから上原を名乗るようになった。鎌倉時代に地頭として何鹿郡に入部した。15世紀末頃には上原(内藤)賢家、元秀は、丹波守護細川氏の被官として勢力を振るった。しかし、賢家、元秀以降は勢力を減少していく。延徳元年(1489年)には、荻野氏、大槻氏と抗争するが、大きな痛手を負っている。元亀2年(1571年)には、上原大輔が丹波黒井城主赤井直正に攻め滅ぼされています。


浅根山公園駐車場

西郭にある展望台

堀切



土塁

主郭と土塁

腰郭にある水道施設

景観


浅根山城跡へのアクセス

上林城跡

所在地:京都府綾部市八津合町石橋
別名:生貫山城,八津合城 、鍋山ヶ城、小雲城
築城年:天文年間(1532~55年)
築城主:上林下総守晴国
廃城年:不明
主な城主:上林氏、高田氏
遺構:井戸、土塁、曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:スペースあり

概要
上林氏は、清和源氏赤井氏の庶流で、室町幕府の被官として何鹿郡上林庄に入部していた。上林城は、天文年間(1532~55年)に、上林下総守晴国によって築城され、以後その居城となったとされる。晴国は、永禄3年(1560年)、織田信長方の高田豊後守治忠に敗れるが、間もなく返還を受けています。明智光秀没後、高田豊後守が天正15年(1587年)、上林一万石を知行地とするに至り上林氏はこの地を去ります。


主郭

天守台(本丸)と石垣

土塁

景観

上林城説明板

稲荷神社

井戸跡

北郭


上林城跡へのアクセス

藤懸陣屋跡

所在地:京都府綾部市八津合町石橋
別名:なし
築城年:慶長6年(1601年)
築城主:藤懸永勝
廃城年:明治
主な城主:藤懸氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:なし

概要
藤懸陣屋は、慶長6年(1601年)に藤懸永勝によって築かれた。永勝は、弘治3年(1557年)、織田氏の末流で、織田永継の子として誕生。藤懸善右衛門に養育されたことから藤懸姓を称した。父・永継も信長の家臣で、11歳の頃から信長に仕え『浅井三代記』には、天正元年(1573年)の小谷落城時はお市や浅井三姉妹を救出して岐阜城に帰参したとする。天正7年(1579年)、信長の四男・秀勝が羽柴秀吉に養子入りすると、信長の命によってその輔佐に任じられた。信長の死後、秀勝が丹波一国の国主に封ぜられると、6000石を与えられた。天正13年(1585年)、秀勝の病死に伴い、秀吉に召し抱えられた。この時に次男・永元に1000石を分知した。加増を重ねたようだが、『藤懸氏系図』には丹波氷上郡小雲に1万3000石とあり『桃山末分限帳』によれば慶長5年(1600年)丹波上林に1万5000石、『重修譜』では何鹿郡へは関ヶ原の役の後の慶長6年(1601年)の移封とする。関ヶ原の戦いで丹後田辺城攻めに参加したが、細川幽斎と親しく、攻撃は形だけであったという。戦後は六千石に減封され上林に入部して旧上林城跡の麓に、藤懸陣屋を構えた。『日本城郭大系11 他参照』









藤懸陣屋跡へのアクセス

日置谷城跡

所在地:京都府綾部市八津合町
別名:なし
築城年:不明
築城主:上林氏?
廃城年:不明
主な城主:上林氏?
遺構:曲輪、土塁、空堀など
指定文化財:なし
訪城日:2019年11月23日(土)晴
駐車場:上林禅寺駐車場

概要
日置谷城の城史は詳細不明です。遺構は、主郭は逆L字型になっており周囲をはぼ土塁で巡らされているが西側と南側の土塁は幅が広い。主郭の西と北側に堀切があり北側は二重堀切になっている。この西と北側の斜面には8本の竪堀が連続する。城郭談話会の福島克彦氏によると、枡形状虎口や折れのある土塁などから織豊系の陣城と指摘している。こちらの地名が本城ということや、上林氏が明智光秀に従っていたことが文献から明らかに出来ることから、日置谷城は上林氏の本城と考えた。


上林禅寺

上林禅寺由緒

登城口にある観音堂

東郭

土塁

堀切

主郭の方に向かいます

竪堀





畝状竪堀

畝状竪堀







曲輪

竪堀



竪堀

二の丸



二の丸

主郭



空堀



土塁





土塁

土塁

土塁

主郭

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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。