所在地:大阪市城東区今福西(推定地)
別名:今福柵、今福堤
築城年:不明
築城主:豊臣氏
主な城主:矢野正倫、飯田家貞
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2013年10月2日
今福砦は、大坂の役の際。豊臣が他の守備の為に築かれた砦で、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣で今福の戦いが発生した。
今福の戦い大坂城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。豊臣方は今福村に三カ所の堀切と四重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞 にそれぞれ兵300で守備させていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じた。今福へは佐竹義宣指揮下の兵1,500を送った。
11月26日夜明け、佐竹勢が今福を攻撃、佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第四柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤基次に救援を命じた。後藤が駆けつけ木村を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。渋江政光は第一柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。それを受けた上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退した。
この戦いにおいて、将軍徳川秀忠から、佐竹家中の5名に感状と褒美が与えられている。
また、若宮八幡大神宮(大阪市城東区蒲生4丁目3番16号)には徳川軍である佐竹義宣の本陣跡があります。
今福砦跡付近

若宮八幡大神宮(大阪府大阪市城東区蒲生4-3-16)

本陣跡石碑

石碑には大きく大坂夏の陣ってあるのですが、今福、鴨野の戦いは、慶長19年11月26日の大坂冬の陣で行われており、佐竹義宣が1500の兵を送っています。ですので夏の陣での本陣跡というのは、たぶんですが、誤りではないかと思われます。
石碑裏側の由来

若宮八幡大神宮は当地域の土地柄が寝屋川(古くは大和川)鯰江川の二川、また古街道東西に貫通し、低地であり地味砂土に富み、農耕 に適し、水運に於ける庶民生業の中心地として繁栄して参りました。その関係上浪速に都を定められ、御製「高殿にのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎはいにけり」に示された、仁徳天皇の御遺徳をしのび、村民こぞって神祠を勧請創建せしに始まると伝えられて居ります。「摂津名所図会」によれば、蒲生とは名産に蒲穂あり、色美しく、尺長く、良質のものが出来たと記されて居ります。蒲生の地名もここから出たものでしょう。「応仁記」によれば人皇103代後土御門天皇の御宇、文明十四年八月(1482)畠山正長、畠山義就を河内守口城に攻めたる時、村民の崇敬篤く、神域広大なりし当地の神祠に、武運成就を祈願したと伝えられ「難波戦機」に依れば、大坂夏の陣(鴫野、京橋口の戦い)に於いて、佐竹義宣、当地境内に本陣を構え、戦勝を祈願したとあり・・・。その時「心なき軍兵共の為、神木たる楠の大樹は地上より伐り倒され篝火の料に用いられぬ惜むべき事なり、戦後佐竹家より矢を献納して贖罪の祈願をなす、其の矢は伝わりて、明治に至りしも十八年の洪水に社と共に流失せり、楠の根幹は其の後芽を吹き出し三百年間三本の大樹と生長し明治まで繁茂して樹下は村童の遊び場なりしが二十年頃樹勢頓に衰え三本共終に枯死せるを以って其の後に絵馬堂を建設せり、根幹は其の絵馬堂一面の大きさなりと云えば戦時伐木せし楠の如何に大なるものなりしかを知るべし、従って樹齢も他の例に推算せば、一千数百年前のものなることを認むべし」昭和十年の記録・・・。以上の如く蒲生郷一帯の守護神として、(勝運、商売繁盛、五穀豊穣、安産、家内安全、厄除を祈願し)世に蒲生の西向き八幡さまと、絶大なる信仰をあつめて参りましたことを散見されてあります。昭和十年社殿修営の大事業、並びに昭和四十五年御鎮座一五〇〇年記念参集殿御造営事業も竣工せしにより、佐竹義宣の本陣跡を表記として碑を立つるものなり。
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