葱生城

所在地:大阪府大阪市旭区生江3丁目27(常宣寺)
別名:荒生城・薙生城
築城年:16世紀後期
築城主:本願寺顕如
廃城年:不明
主な城主:本願寺衆
遺構:曲輪・堀切・竪堀
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:無料駐車場

【歴史】
『信長公記』によると、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までおよそ10年間をかけて行われた石山本願寺と織田信長との「石山合戦」で、本願寺方が石山本願寺を中心に51に及ぶ出城を構築したとされ、葱生城もその中の1つであるという。

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説明板
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葱生城跡へのアクセス
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新庄城跡

所在地:大阪府大阪市東淀川区下新庄5丁目19ー12(明教寺)
別名:なし
築城年:天正八年(1580)
築城主:中川清秀
主な城主:中川清秀
廃城年:不明
遺構:城跡碑、由緒
訪城日:2015年2月17日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

新庄城は、茨木城主であった中川清秀が茨木城の支城として築いた城である。
跡地は現在、明教寺となっており特に遺構などは残っていないが、寺の境内に城の由来をあらわした石碑がある。

明教寺本殿


明教寺由緒
文明九年(一四七七年)蓮如上人五十六才の砌釋教誓が上人の教化を受け、直弟子となり明教寺の開基となる。明教寺は山号を「城地山」と号し、天正年間に豊臣秀吉の臣であった中川精兵衛清秀がこの地に本丸を有した城を築いたことが「新庄村明細帳」「明教寺就御尋奉書上由緒」等に記されている。この地に新しい城を築いたことから{新城}と称するようになり、のち{新庄}という地名に転じたものである。宝永四年(一七○七年)火災の類焼に遭い翌年本堂再建、かくして更に現存の元となる本堂は、安永九年(一七八○年)に再建された。その後、親鸞聖人大遠忌をご縁として修復が重ねられ、昭和五十六年本堂大屋根、老朽の木工御内陣の修復がなされ、平成四年、本堂修復落成住職継職奉告慶讃法要を本願寺第二十三代御門主、勝如上人御親修のもと厳修された。院内には「親鸞聖人石枕御木造」を安置し、また第十三世善亮法師の「顕彰碑」があり、五百余年の歴史を伝える寺院である。
平成六年一月 施主 倉田盛弘(筍太郎) 盛徳院釋弘教


新庄城跡へのアクセス

古河藩陣屋跡

所在地:大阪府大阪市平野区平野宮町1丁目(平野小学校)
別名:平野陣屋
築城年:天明年間(1781年~1789年)
築城主:土井利厚
城主:土井氏
遺構:説明板、大念佛寺に陣屋門
廃城年:明治2年
訪城日:2014年9月4日

下総古河8万石を領した土井氏は、12,600石を摂津・播磨に飛地領があり、これを統治する采地陣屋を平野郷に設け、明治時代まで領した。

古河藩陣屋跡説明石碑


寄ってはしませんが、近くにある大念佛寺に移築された陣屋門があります。近くに行く機会がありましたら撮影したいと思います。

古河藩陣屋跡へのアクセス

堀城跡

所在地:大阪府大阪市淀川区十三本町1丁目(十三公園)
別名:中嶋城
築城年:1566年(永禄9)
築城主:細川藤賢
城主:細川藤賢、細川信良
遺構:なし
廃城年:天正元年(1573年)
訪城日:2014年9月4日

堀城もしくは中嶋城は古文献に多く記述されているが、日本城郭大系』によると、「永禄9年(1566年)に細川藤賢が築城」との記載が見受けられるが、深井の合戦(永正8年(1511年))や桂川原の戦い(大永7年(1527年))が記載されている『細川両家記』等には既に堀城、中嶋城と記述されており、砦のような城が築城されていたと思われ、その後細川藤賢が本格的な城郭を築いたのではないかと考えられている。
築城に関しては不明な点が多いが細川氏(細川藤賢の父細川尹賢ではないかという説もある)の誰かが築城したと考えられている。
天文4年(1535年)、享禄・天文の乱で戦っていた石山本願寺法主証如と細川晴元の間で和睦が成立したが、翌天文5年(1536年)に中嶋城に籠もった一部の一揆衆が細川軍と戦った(かつて本願寺の坊官だった下間頼盛も参加していた)。晴元の部将木沢長政に攻められて一揆衆は敗走、下間頼盛は後に暗殺された。近郊の大和田城もこの時築城されたと推定される。天文18年(1549年)の江口の戦いでは三好長慶が同族の三好政勝が籠城する榎並城に対する前線基地として活用していた。
石山合戦で城主細川信良は三好三人衆が擁する野田城及び福島城の対抗基地として織田信長方につき(野田城・福島城の戦い)、元亀元年(1570年)9月3日に将軍足利義昭が中嶋城に着陣するとの記載が見受けられる。3年後の天正元年(1573年)、今度は義昭が信長と対立、義昭についた堀城は織田軍と戦い(高屋城の戦い)、敗北し開城した。おそらくこの時に廃城になったものと思われている。




堀城跡へのアクセス



三津屋城跡

所在地:大阪府大阪市淀川区三津屋中1(光専寺)
別名:中島城
築城年:貞和元年(1345)
築城主:楠木正行
城主:楠木正行、細川晴賢、三好長慶
廃城年:元亀年間(1570~1573年)
遺構:山門、説明板
訪城日:2014年9月6日

三津屋城は、南北朝時代の武将である楠木正行(まさつら)が築いた城である。三津屋城跡を、子孫の末広治郎左衛門が、文明5(1473)年本願寺蓮如(れんにょ)に帰依して正顕と改め、寺院に改築したと伝える。また一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の母は楠木正澄の三女で、後小松(ごこまつ)天皇の侍女となり一休を産んだという。

三津屋城伝承地説明板


光専寺縁起

本堂

保育園がある為、寺内には入れませんでした。

三津屋城跡へのアクセス

江口城跡

所在地:大阪市東淀川区大桐4-5-27
築城年:不明
築城主:三好政長
主な城主:三好政長・三好長慶・中川重清
廃城年:不明
城郭構造;平城
訪城日:2014年3月9日

江口の戦いで有名な江口城であるが、沿革、城郭や正確な場所については不明な点が多い。東淀川区史によると築城主は三好政長で、江口の戦い以前も築城されていたのかは不明である。この戦いが終わった後に三好長慶の手に渡り、その後中川重清(中川清秀の父)が城主となったようである。明治時代初期に執筆されたと思れる『東摂城址図誌』によると、安永5年(1776年)の正月に江口村が火災にあい記録が消滅してしまったと記載され、詳しい資料はほとんど残っていない。廃城に関しては不明である。
城郭に関しては、東淀川区史によると旧厳島神社(厳島神社は明治42年(1909年)6月大隅神社に合祀されている)周辺もしくは旧田中邸が想定されるとしている。また『東摂城址図誌』では広域に江口村を想定している。この地域は明治時代迄に江口村という集落があったが、今の地形とは大きく異なる。これは明治22年(1889年)の近代の淀川改修事業で淀川の流域が大きく変化したためである。北側を流れる神崎川は現在よりも川幅が広く、東南を流れる淀川は逆に狭かったと思われる。江口村はこの三方向を川に挟まれるデルタ地帯で、『東摂城址図誌』の絵図によると、この神崎川の南一帯に江口村があり村の中には堀もしくは川の支流のようものが記載されている。しかしこの絵図にも同地域の大部分はすでに宅地、耕地化されており当時よりすでに城跡をしのばせるものは少なかったと思われている。
唯一、城内にあったと伝承されている「江口」と記載された狛犬が大隅神社に移築されている。
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大隈神社社殿
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江口と記載された狛犬
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大隈神社内にある 乳牛山大道寺跡
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説明板
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江口城跡へのアクセス
駐車場:なし

毛馬城跡

所在地:大阪市都島区毛馬町4丁目
築城年:天正4年(1576年)
築城主:本願寺顕如光佐
訪城日:2014年3月9日

元亀元年(1570)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、大阪の地を舞台に、一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返した。織田信長は石山本願寺の周辺十箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51か所にも及ぶ出城を構えた。
毛馬城は、この石山方の出城の1つで、飯満(けま)、すなわち「毛馬」のことであろう。これが毛馬城の起源であるが、守将名や規模などはわからない。毛馬城は、半ば幻の城なのである。
天正六年(1578)、信長に対して叛旗を翻した伊丹城の荒木村重を攻撃するため、織田方が塚口郷・毛馬村・倉橋郷・原田郡などに付城を築城した(「信長公記」)とされるも、この毛馬ではなく尼崎市内の食満(けま)のほうであろうという見方もある。
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遺跡ウォーカーの位置的にはこのあたりになり、宅地化されていて遺構などは全くないです。

毛馬城跡へのアクセス

柴島城跡

所在地:大阪府大阪市東淀川区柴島2-19-5
築城年:天文18年(1549年)以前
築城主:十河一存
主な城主:十河一存、細川晴賢、稲葉紀通
廃城年:不明
訪城日:2014年3月9日

柴島の地は、淀川と旧中津川に囲まれた中州にあり、若干の高地(芝ガ洲)にあったと思われている。この地は近代の淀川改修事業で一部は淀川の河川敷になり、中津川も廃川となってしまい現在その地形は失われている。明治時代初旬に作成されたと思われる『東摂城址図誌』(東城兎幾雄編)に柴島城も記載されており、それによると城跡の大きさは二町四方で、周囲より四尺ほど高い畑地があったとしているが、その畑地は現在大阪市立柴島中学校となっている。「数値地図5mメッシュ(標高)京都及大阪」(国土地理院発行)を使って柴島付近を縮尺2500分の1の地図にし、『東摂城趾図誌』(東城兎幾雄編)の柴島城の地図と比べてみると、170m×200mの長方形の微高地(標高4m)がほぼ一致した。
『東摂城址図誌』には城跡の東側に柴島神社(字白妙)が建っていたが、先の淀川改修事業で約600m北側の字調布に移築された。また柴島中学校の周辺で「本丸」「城道」「屋敷」「西屋敷」等の字名が残っていることにより城跡であったこと伺えるが、遺構などは全く残っていない。昭和3年(1928年)に建てられた大阪市の石碑は柴島神社との関係から場所を決定したようで、北に約150mずれている。柴島神社は現在の場所字調布ではなく、明治以前は外島(字白妙)にあった。
対岸には榎並城があり、近隣には堀城があり、これらの城同様、西国からの京への拠点で重要視されていた。
柴島城は十河一存が築いたのではないかと思われている。この城が史上に現れるのは大きく分けて2つあり、江口の戦いの時と大坂夏の陣の時である。江口の戦いでは三好政長派の細川晴賢がいる柴島城を三好長慶軍が大軍をもって攻め落城させている。その後稲葉紀通が江口村、大道村、柴嶋村等の中島藩を領土とし、この柴島城も稲葉紀通の居城となり大坂夏の陣では大和方面軍に組み入れられたようであるが、紀通も福知山藩に移封され、いつごろから廃城になったのかは不明である。(Wikiより抜粋)

宅地化している推定柴島城跡
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柴島城跡石碑
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柴島城跡へのアクセス
駐車場:なし

鴫野砦跡

所在地:大阪市城東区今福西(推定地)
別名:今福柵、今福堤
築城年:不明
築城主:豊臣氏
主な城主:矢野正倫、飯田家貞
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2013年10月2日

今福砦は、大坂の役の際。豊臣が他の守備の為に築かれた砦で、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣で今福の戦いが発生した。

今福の戦い
大坂城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ、まわりは田圃という地形だった。豊臣方は今福村に三カ所の堀切と四重の柵を設置し、矢野正倫および飯田家貞 にそれぞれ兵300で守備させていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じた。今福へは佐竹義宣指揮下の兵1,500を送った。
11月26日夜明け、佐竹勢が今福を攻撃、佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第四柵まで占拠され、矢野と飯田は討死した。豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退したがその後膠着状態になった。その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤基次に救援を命じた。後藤が駆けつけ木村を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻した。渋江政光は第一柵で防戦していたが、木村重成の指示で狙撃され討死したため佐竹勢先鋒隊が潰走、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。それを受けた上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退した。
この戦いにおいて、将軍徳川秀忠から、佐竹家中の5名に感状と褒美が与えられている。
また、若宮八幡大神宮(大阪市城東区蒲生4丁目3番16号)には徳川軍である佐竹義宣の本陣跡があります。

今福砦跡付近
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若宮八幡大神宮(大阪府大阪市城東区蒲生4-3-16)
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本陣跡石碑
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石碑には大きく大坂夏の陣ってあるのですが、今福、鴨野の戦いは、慶長19年11月26日の大坂冬の陣で行われており、佐竹義宣が1500の兵を送っています。ですので夏の陣での本陣跡というのは、たぶんですが、誤りではないかと思われます。

石碑裏側の由来
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若宮八幡大神宮は当地域の土地柄が寝屋川(古くは大和川)鯰江川の二川、また古街道東西に貫通し、低地であり地味砂土に富み、農耕 に適し、水運に於ける庶民生業の中心地として繁栄して参りました。その関係上浪速に都を定められ、御製「高殿にのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎはいにけり」に示された、仁徳天皇の御遺徳をしのび、村民こぞって神祠を勧請創建せしに始まると伝えられて居ります。「摂津名所図会」によれば、蒲生とは名産に蒲穂あり、色美しく、尺長く、良質のものが出来たと記されて居ります。蒲生の地名もここから出たものでしょう。「応仁記」によれば人皇103代後土御門天皇の御宇、文明十四年八月(1482)畠山正長、畠山義就を河内守口城に攻めたる時、村民の崇敬篤く、神域広大なりし当地の神祠に、武運成就を祈願したと伝えられ「難波戦機」に依れば、大坂夏の陣(鴫野、京橋口の戦い)に於いて、佐竹義宣、当地境内に本陣を構え、戦勝を祈願したとあり・・・。その時「心なき軍兵共の為、神木たる楠の大樹は地上より伐り倒され篝火の料に用いられぬ惜むべき事なり、戦後佐竹家より矢を献納して贖罪の祈願をなす、其の矢は伝わりて、明治に至りしも十八年の洪水に社と共に流失せり、楠の根幹は其の後芽を吹き出し三百年間三本の大樹と生長し明治まで繁茂して樹下は村童の遊び場なりしが二十年頃樹勢頓に衰え三本共終に枯死せるを以って其の後に絵馬堂を建設せり、根幹は其の絵馬堂一面の大きさなりと云えば戦時伐木せし楠の如何に大なるものなりしかを知るべし、従って樹齢も他の例に推算せば、一千数百年前のものなることを認むべし」昭和十年の記録・・・。以上の如く蒲生郷一帯の守護神として、(勝運、商売繁盛、五穀豊穣、安産、家内安全、厄除を祈願し)世に蒲生の西向き八幡さまと、絶大なる信仰をあつめて参りましたことを散見されてあります。昭和十年社殿修営の大事業、並びに昭和四十五年御鎮座一五〇〇年記念参集殿御造営事業も竣工せしにより、佐竹義宣の本陣跡を表記として碑を立つるものなり。

鴫野砦へのアクセス

寺岡砦跡

所在地:大阪市住吉区長居西2丁目
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
遺構:なし
訪城日:2013年10月2日

寺岡砦は寺岡城とも呼ばれ、環濠集落から発展した砦と考えられるが詳細は分かっていない。
戦国時代、畠山、三好、細川、桃井各氏らの抗争が続く中で、寺岡付近でもたびたび合戦が行われ、その戦場となった。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣では徳川方がここに陣を構えたとされる。
また、夏の陣ののち、大阪城の多くの浪人が寺岡に集まり土民となったという伝承もある。現在、跡地は神須牟地(かみすむち)神社となっており、特に遺構などを確認する事は出来ない。
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神須牟地神社由緒
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神須牟地神社社殿
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寺岡砦跡へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。