石野氏館跡

所在地:兵庫県三木市別所町石野
別名:石野城
築城年:不明
築城主:石野氏貞?
城主:石野氏貞・氏満・
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年9月18日

城史については詳細は不明

赤松 氏満(あかまつ うじみつ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。赤松氏の庶流の一族で、赤松則村の長男範資の後裔。父氏貞が石野城に拠ったことから石野氏を名乗った。天正6年(1578年)、羽柴秀吉が三木城を攻めた際(三木合戦)には別所長治の部将として三木城に籠城。羽柴方の古田重則を射殺するなど功績を挙げた。
三木城落城後は秀吉に仕え、ついで前田利家に属した。前田家に従って小田原征伐に従軍し、八王子城攻めでは先登して首級2を挙げている。その他数度の戦功があり、3千石余を得た。慶長11年(1606年)、加賀国で死去、享年54。



井戸跡?


石野氏館跡へのアクセス
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荒川城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町上荒川168(西光寺)
築城年:不明
築城主:不明
城主:藤田氏
訪城日:2014年5月22日



堀切


荒川城跡へのアクセス

南畑城跡

所在地: 兵庫県三木市口吉川町南畑字殿ヶ市
別名:松岡城
築城年:不明
築城主:不明
城主:松岡氏?
訪城日:2014年5月22日

詳細は不明です。字限図などから館城があった事が伺われる。




南畑城跡へのアクセス

西畑城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町西奥
築城年:永禄初年
築城主:中西兵助正常
城主:中西兵助正常
訪城日:2014年5月4日

1563年、三木城主別所長勝が箱木家氏を攻撃した際、箱木方に味方して別所長勝勢を撃退した。和睦の際、別所長勝に謀られて中西正常は居館を焼失。以後、中西正常は別所長勝に従属した。所領問題でもめて再び西畑城に戻った。

主郭

主郭にある石塔


西畑城跡へのアクセス

市野瀬城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町市野瀬
別名:一之瀬城
築城年:鎌倉時代
築城主:一之瀬氏
城主:藤田玄門
訪城日:2014年5月4日

この地方の豪族一之瀬氏が鎌倉時代に砦を築いたのが始まりで、『石峯寺文書』によれば「小野真行、嘉元2年、通称一之瀬左衛門三郎」とあり、この一之瀬氏が居たものであろう。天文15年(1546年)、藤田玄門が居城しているが、一之瀬氏の流れであるかは不明。


櫓台にある城主碑


市野瀬城跡へのアクセス

毘沙門城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町毘沙門
別名:亀伏城
築城年:鎌倉時代末期
築城主:赤松備後守
城主:藤田河内守広興(別名幸綱)
訪城日:2014年5月4日

毘沙門城が築城されたのは鎌倉時代末期、赤松備後守によるものとされています。室町時代には、別所氏方の国人領主藤田紀伊守が、赤松山を城郭化して居城したようです。その後、藤田河内守広興が居館を築いた。構えの大きさは不明。1578年、別所長治と羽柴秀吉勢との戦いが始まると、藤田広興は嫡男藤田右近と共に別所長治に属して三木城に籠城して、羽柴秀吉勢と戦った。1580年、三木城が落城すると、別所長治は領民や残る将兵の為、自刃した。藤田広興と藤田右近は自城に戻り自刃した。

歓喜院本堂

歓喜院由来


赤松街道・赤松峠


赤松街道説明板
赤松街道は、現在の吉川町毘沙門から神戸市北区長尾町上津に通じ、中世より播磨最東端の吉川から大阪、西国街道を経て京都へと続く主街道であり、摂津との国境にあるのが赤松峠(現在地より東へ1.5km)である。
赤松の呼び名の由来は、当時の赤松林から名付けられたと思われる。
毘沙門には、国人藤田氏の居城であった毘沙門城跡、常楽寺(廃寺)の子院赤松山歓喜院の聖天堂(応永18年、1411年建立 国指定重要文化財)、毘沙門堂には常楽寺の本尊であったと伝わる毘沙門天像(仏高 159cm)が安置され、境内には文和3年(1354年)銘の宝篋印塔が残されている。
また嘉吉の乱後、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教の首級を京都から赤松峠を通り、東条谷の播磨安国寺に運ぶ際に首級を洗ったと伝えられている井戸もある。以下省略します。 (現地案内板より)


毘沙門城跡へのアクセス

金会城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町金会
築城年:不明
築城主:不明
城主:井藤太郎左衛門宗春
訪城日:2014年5月4日

戦国時代の城館で、当時の城主は井藤太郎左衛門といわれている。『美嚢郡誌』によると祇園神社の後の高地、別所の役に別所氏の一味の籠もりし址ならん」とあるがいまはその城跡を知ることが出来ない。(日本城郭大系12より)


茂みの中にある祠

ここから北西行くと蓮光院がありますが、そこは、井藤太郎左衛門宗春の桃尾居館があった所で宗春を開基とすると伝えられています。

金会城跡へのアクセス

稲田城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町稲田
別名:宮脇城・稲田城居館
築城年:室町時代
築城主:藤田氏
訪城日:2014年5月4日

藤田河内守広興の居館であったが、その後、毘沙門城に移り、廃城となっています。

御旅所説明板




稲田城跡へのアクセス

渡瀬城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町渡瀬(吉川高校)
築城年:室町時代
築城主:佐々木源十郎義範
城主:佐々木源十郎義範など
訪城日:2014年5月4日

渡瀬城は佐々木源氏の祖秀義の末男に生まれた佐々木源十郎義範が守護職として文治元年(1185)十一月にこの地に移り住んだのが始まりといわれています。その後、明徳二年(1391)に起った明徳の乱に渡瀬右衛門綱光が活躍、戦後、将軍義満から摂津・播磨の境に二万石の領地を賜り、 渡瀬城を築いてみずからの本拠とした。その後、渡瀬小治郎好光の時に三木合戦が起こり、好光は別所氏から妻を迎えていたこともあって別所長治に味方して秀吉と戦い、防ぎきれずに自ら城に火を放って縁戚である荒木村重の下に逃れた。


登城口(354号線から法光寺に向かう道に入ったほんの20mぐらい先にあります。)

頂上部

渡瀬左馬介好勝の墓(城主好光の兄弟かな)

石田治重は、渡瀬城主の家老でした。渡瀬城落城を契機に帰農し城下の渡瀬に居を構え、地域の発展と一族の繁栄に意を注ぎました。


渡瀬城跡へのアクセス

有安城跡

所在地:兵庫県三木市吉川町有安字平須
築城年:不明
築城主:不明
城主:渡瀬氏
訪城日:2014年5月4日

戸田采女頭が近くの二、三の邑を領し、館を構えていた中世の城館。『播磨鑑』に「本丸、長30間、横10間、二の丸 長32間、横10間」とあるが今は何も無い。現在は、その居館跡に大歳神社があります。(日本城郭大系12巻)

途中で断念しました。機会あれば再訪します。


有安城跡へのアクセス


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