真上城跡

所在地::大阪府高槻市西真上町1丁目
別名:不明
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:真上彦三郎資信
遺構:不明
案内板:なし
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:すぐ

真上氏の居城で、城域は笠森神社の東側であったと思われる。芥川に近接し、城は方形に近く土塁と水堀をめぐらしたものであろうという。


笠森神社案内板



笠森神社社殿


真上城跡へのアクセス
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田中城跡

所在地::大阪府高槻市真上町1丁目
別名:不明
築城年:鎌倉時代
築城主:不明
廃城年:不明
城主:真上三郎左衛門入道(政好)、真上彦三郎資信、田中氏
遺構:不明
案内板:なし
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:すぐ

築城時期など、詳細は一切不明。高槻市史には、真上彦三郎資信が在城したとあります。





田中城跡へのアクセス

田能城跡

所在地::大阪府高槻市田能
別名:不明
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:不明
遺構:郭、井戸
案内板:桂香寺の案内板に記載あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:約20分

城史については詳細不明です。
『亀岡市史』によれば、この城を戦国時代のものとし、織田信長と丹波亀山(のちの亀岡)にいた丹波守護代内藤氏との対立に築城の動機を考えている。また一説には、亀山城主であった明智光秀が、亀山と畿内の間に、のろしを上げる場所として使った「砦」のようなものがあったと考えられています。

麓にある桂香寺

桂香寺案内板

駐在所裏の民家より直登

約5分ぐらいで途中にあるアンテナ施設に着きます。

曲郭

縦堀

虎口?




空堀跡


主郭


田能城跡へのアクセス

泉原城跡

所在地::大阪府茨木市大字泉原857(清溪小学校)
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:泉原左近将監行親
遺構:不明
訪城日:2016年3月28日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

築城・廃城の時期はわかっていませんが、ほぼ清溪小学校敷地内にあったと考えられています。





泉原城跡へのアクセス

松谷砦跡

所在地::大阪府茨木市佐保
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:不明
遺構:不明
訪城日:2016年3月28日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

城史については詳細不明です。






松谷砦跡へのアクセス

佐保城

所在地::大阪府茨木市佐保
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:佐保氏
遺構:不明
訪城日:2016年3月28日
所要時間:不明
駐車場:なし

城史については詳細不明です。


府道110号線のここから入ります。

ここから登城するみたいですが、立ち入り禁止になっています。

奥には石垣が・・

こちらからも登れそうですが、柵があり通行不能です。

登城出来ないので遠目から・・・。


佐保城へのアクセス

福井城

所在地::大阪府茨木市東福井3丁目
別名:なし
築城年:南北朝時代か?
築城主:不明(楠木正成という伝承あり)
廃城年:大永7年(1528年)
城主:秋庭元明
遺構:案内板、城跡碑
訪城日:2016年3月28日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

この城の歴史については多くは解っていない。明治時代初期頃に作成された『東摂津址城図誌』によると、建武元年(1334年)摂津国、河内国、和泉国に楠木正成守護が築いたとあるが、楠木正成が摂津国の守護職についた史実は無いので伝承レベルで記載されたと思われる。ただ西国街道と丹波街道の抑えとして築いた、としている点は可能性が十分あり、楠木正成説を否定できない。同じ『東摂津址城図誌』には、細川頼之が福井城に摂津国の守護代を、また細川勝元の時には秋庭元明を守護代として配したと記載されている。また福井城の西側に、古来「矢上」と称する場所があったようで、『福井村誌』によると「大永5年(1525年)から翌年まで、四国方の三好勢と京方の薬師寺勢と数度の合戦ありし古跡」とあるが、これは、大永6年(1527年)から翌年の誤りで、桂川原の戦いの事で波多野稙通軍がこの辺りまで戦線を拡大していたと思われる。この『福井村史』によると「矢上」と称する場所は、武士が矢の稽古をしていた場所、との記載もある。
廃城は、この桂川原の戦いの大永7年(1528年)2月の事で、細川晴元方に降服し開城した。その後史上からその名を消したので、この時に廃城になったものと思われている


説明板





福井城へのアクセス

佐保栗栖山砦跡

所在地::大阪府茨木市佐保
別名:来栖山砦、来栖山城
築城年:15世紀後半-16世紀初頭
築城主:不明
廃城年:16世紀中頃
城主:不明
遺構:案内板、城跡碑、曲輪、土塁、竪堀など
訪城日:2016年3月28日
所要時間:麓より20分
駐車場:なし

この城跡は、史料に全く記載がなく、誰が城主であったのか沿革などは不明の城郭である。以前より不自然な平坦面が観察されていたことから、城郭の存在が指摘されていた。国際文化公園都市造成に伴い、全斜面と盛土部分を含めた、尾根の全面的な発掘調査が行われた。城郭は国見峠を経て、清坂街道と接続している。当地は丹波国と摂津国(大坂)を結ぶ重要な位置に存在していた。『城巡礼』によると「福井城と関連があったのではないか」と近隣にあった福井城との関連を指摘している。

○案内板と城跡碑が少し離れた府道沿いにありますが見落としてしまいました。

登城口手前の小川

登城口


曲輪

堀切

曲輪


主郭

景観


佐保栗栖山砦跡へのアクセス
○府道110号線沿いにある大阪○○建機の横の道奥

安威砦跡

所在地::大阪府茨木市安威4丁目
別名:なし
築城年:永正年間(1504年~1521年)
築城主:安威弥四郎
廃城年:天正14年(1586年)
城主:安威弥四郎
遺構:空堀、竪堀、曲輪、土塁、土橋、案内板、城跡碑
訪城日:2016年3月28日
所要時間:案内板より15分
駐車場:案内板の所

通称、天神山の山頂に築かれた砦で、標高89m、比高40m、東西50m、南北100mに、3つの曲輪から成り立っている。安威砦に関する古文献は少なく、歴史については不明な点が多いが、桂川原の戦いの前に、波多野稙通が接近するに伴って、安威弥四郎が急ごしらえで築砦したのではないかとも言われている。安威城から北へ、直線距離で約1.6kmの場所に位置し、近くには安威配水地がある。廃砦に関しても不明だが、安威城と同時期に使用されなくなったと思われている。
安威砦には数多く良好な遺構が現存している。縄張りは、南側から北側へ3つの曲輪があり、南側より、1曲輪、2曲輪、3曲輪と呼ばれている。

この道を上がって行くと右手に案内板があります。

案内板と城跡碑

安威砦案内板

横堀

Ⅲ曲輪

空堀

竪堀

土塁

Ⅱ曲輪

土橋



Ⅰ曲輪


安威砦跡へのアクセス

耳原城跡

所在地::大阪府茨木市耳原2・3丁目
別名:耳原砦
築城年:天正年間?
築城主:明智光秀?
廃城年:不明
城主:明智光秀?、織田辰之助?
遺構:不明
訪城日:2016年3月28日
所要時間:すぐ

大阪府全志には東西三十二間半(約58m)、南北三十間(約54m)の土地の竹林となり、なお三面に水堀の跡を残すと伝えるが、現在では、遺構は認められない。『摂津群談』所引の『武城旧記』の伝えるところでは、天正年間に明智光秀が、在城、のち織田辰之助が在城したというが不詳。『日本城郭大系12巻より』

法華寺

法華寺由来(この寺の裏に耳原塁(城)があったとあります)

法華寺本堂

法華寺の裏手(中に入ることが出来ませんでした。)


耳原城跡へのアクセス
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。