所在地:兵庫県尼崎市寺町9(大覚寺)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日2013年1月26日
大覚寺は、1275年(建治元)に尼崎に来たと伝えられる琳海上人によって再興された月峯山を山号とする寺院です。寺院の敷地は鴨社領長洲御厨から寄進されたもので、現在の大物東本町に開創さたといわれています。その初源はさらに古く、所蔵している「大覚寺縁起」や江戸時代に編纂された「摂陽群談」などによると、605年(推古13)長洲の浦人に霊地剣尾山(兵庫県能勢町)の場所を教えられた百済の高僧日羅上人が、聖徳太子の命により剣尾山に月峯寺を建立されました。浦人たちが遠い山の霊地へお参りに行くのは容易でないため、長洲に剣尾山を遥拝する燈炉堂を建てた。この燈炉堂が大覚寺の始まりと伝えられています。
1314年(正和3)住民による寺地への侵害事件や、1326年(嘉暦元)燈炉堂の破却事件ののち、長洲の地下人が寺の保全責任を負うようになりました。残された絵図によれば、寺の東側の門前には市庭が設けられ、住民の公共施設としての機能も果たし、宗教だけでなく政治・経済・文化全般にわたって尼崎の重要な位置を占め、大覚寺を中心に都市尼崎が形成されたと言われています。南北朝時代には、南北両朝の将師がそれぞれ大覚寺を本拠地とし、室町時代には、足利2代将軍義詮が半年にわたって在陣するなど城としても利用され、大覚寺城と呼ばれました。1617年(元和3)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に現在地へ移転し、尼崎藩の安寧豊楽を祈願する御祈祷所としての役割を担ってきました。
大覚寺文書は、大覚寺に伝わる56点の文書で1313~1589年(正和2~天正17)の中世尼崎を今に伝える資料として貴重なもので、県の指定文化財に指定されています。また、境内には琵琶法師ゆかりの弁財天堂が残っており、2月3日の「節分祭」では、豆まきと常設の能舞台で「大覚寺身振り狂言」が奉納されます。

案内板

大覚寺本殿

寺内にあった大覚寺弁才天縁起
法園寺法園寺(ホウオンジ)は、勝誉恵光法園上人の開基による浄土宗鎮西派(チンゼイハ)知恩院末の寺院で山号は恵光山、院号は謝徳院。室町時代に現在の別所町に開創されたといわれています。1615年~1624年(元和年間)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に現在の寺町へ移転されました。
境内には戦国武将佐々成政の墓石の五輪塔が立てられています。佐々成政は、豊臣秀吉から肥後(熊本)の領地を与えられましたが、佐々成政の太閤検地のやり方に反発した肥後国人一揆を自力で鎮めることができず、1588年(天正16)一揆の原因を作ったことを理由に法園寺で切腹させられています。なお、境内にある五輪塔は複製で、実物は本堂内に納められています。寺宝に、佐々成政の死を悼まれた後陽成天皇直筆の掛軸や佐々成政の肖像画があるなど、戦国武将佐々成政ゆかりの地としても有名です。
法園寺山門

佐々成政公墓之地碑

法園寺案内板

佐々成政供養塔

佐々成政公生涯の説明板

佐々成政の像
佐々成政佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。
織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。永禄4年(1561年)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』・『当代記』) 。
天正2年(1574年)、長島一向一揆との戦いで長男松千代丸を失う。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。
天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍している。なおこの時府中三人衆は荒木一族の処刑を命ぜられ実行している。天正5年(1578年)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退している。
天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点・魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった(魚津城の戦い)。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。
明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまった。合戦中に起きた前田利家の寝返りや、勝家の敗死後は上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵された。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った利家と敵対して末森城の戦いが起こった。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。天正15年(1587年)、羽柴の名字を与えられる。
天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる)。戒名は成政寺庭月道閑大居士。
辞世の句:「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」(佐々成政Wikiより)
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