常光寺城跡

所在地:兵庫県尼崎市常光寺1-18-10(皇大神社)
築城年:正平年中(1346年から1369年)
築城主:佐々木判官秀詮
主な城主:佐々木判官秀詮
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:常光寺参拝駐車場
訪城日:2013年2月3日

本殿棟札によると、天長元年空海上人が浄光寺創設の折に勧請したと記されている。正平年中、佐々木判官秀詮がこの地に常光寺城を築き、その後天正七年、織田信長が伊丹城主荒木村重を攻略した際、城と共に城の守護神である当社も焼失した。のちの元禄十三年、村人達が合議の上代官の助力を得て社殿を造営。現在の本殿並びに北の鳥居は当時のもので、300年を経る。昭和三年、昭和の御大典を記念して拝殿、弊殿、本殿の覆殿を造営、昭和四十六年には明治百年を記念して全社殿の大屋根を改修。平成二十一年には、地盤沈下などによる社殿の歪みを修復するため基礎改修工事が行われ、現在に至る。末社には稲荷社他、天満宮、愛宕大神、弁財天を祀る。また、境内には幼稚園が併設され、樹木は市の保護樹林に指定されている。
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皇大神社社殿
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皇大神社由緒
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常光寺城跡へのアクセス



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大物城跡

所在地:兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6(大物主神社)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:神社の許可が必要
訪城日:2013年2月3日

萩藩閥閲録中の「大内政弘感状写」(『尼崎市史』第4巻)に、1473年(文明5)12月7日に大内政弘方の椙社弘康が尼崎及び大物城を攻め落としたことが記録されており、細川高国の尼崎城築城以前に大物城と呼ばれる城があったことがわかる。この大物城の正確な位置や築城・存続期間は不詳であり、柵を築いた程度のものであったのではないかとも考えられる。1968年(昭和43)刊行の『尼崎市史』第2巻は、この大物城及び、高国築城の戦国期尼崎城は戸田氏鉄による近世尼崎城築城まで存続し、近世尼崎城は戦国期尼崎城の位置に規模を拡大して築かれたとしていた。その後、尼崎在住の城郭画家・荻原一青〔いっせい〕氏が、大物の西側に「尼崎古城跡」と記す尼崎城郭図をもとに、大物城の位置を近世尼崎城の北東、大物の西側で、近世中期以降の城下絵図類には「御仏殿屋敷」「鉄砲稽古場」などと記されている場所であるとする説を発表した(読売新聞尼崎版1971年(昭和46)9月22日付記事)。この時点では、大物城とは別に細川高国が築城した戦国期尼崎城があったと考えられていたが、その後の小野寺逸也氏の研究(「江戸時代前期の尼崎城下絵図について(2)」『地域史研究』第11巻第3号、1982年3月)により、荻原氏が拠った絵図以外の近世城下絵図類においても大物の西側に「古城」あるいは「尼崎古城跡」と記すものがあり、戦国期尼崎城はこの位置にあり大物城とも呼称された、つまり戦国期尼崎城と大物城は同じ城であると考えられるとの説が提示され、現在はこの説が有力である。なお、高国の築城が永正年間と1526年(大永6)の二回にわたって記録されていることについては、永正年間の築城が柵城の急造のような形のものであり、その後大永年間にある程度本格的な築城がなされたのであろうとの解釈が、『尼崎市史』第1巻において示されている。
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大物主神社社殿
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義経弁慶隠れ家跡碑
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義経 弁慶隠れ家跡説明
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大物城跡へのアクセス

大物くずれ戦跡

所在地:兵庫県尼崎市東大物町1丁目4(大物交番横)
駐車場:なし
訪城日:2013年2月3日

大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物)で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。
桂川原の戦いで敗れて近江に逃れた管領細川高国は、援軍要請に頼みまわった伊賀、伊勢、備中、出雲で全て断られた。現職の管領とはいえ、落ち目となった高国への加勢を諸侯が躊躇う中、備前守護代の浦上村宗がようやく要請に応じたのである。高国からの要請は今回に限った事ではなく、以前には赤松氏の庇護下に在った足利義晴の身柄を確保する為に犬馬の労を負ったことがあるなど、浦上村宗は高国の権勢を認めており、その高国の力を借りて播磨統一を果たしたいという野心があった。
細川・浦上連合軍はいくたびかの合戦を経て、享禄3年(1530年)7月に村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は高国の宿願である打倒晴元の戦いに移行。勢いそのままに摂津へ侵攻、摂津の要であった池田久宗(信正)が守備する池田城を翌享禄4年3月6日(1531年4月3日)に落城させたのである。翌3月7日には、京都を警護していた晴元派の木沢長政軍が突然撤退、代わって高国が手配していた将軍地蔵山城の兵が京都に進行、高国の念願であった京奪回が成ったのである。
ここにきて堺公方側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍1万5千と阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍8千が、摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃(中嶋の戦い)し、一進一退が続いていた。
ここで播磨守護の赤松政祐という人物が登場する。彼は高国の援軍として同年6月2日に西宮の六湛寺に着陣したが、神呪寺(兵庫県西宮市)に陣変えした。同日晩、高国と村宗から直々に着陣の挨拶をうける。
6月4日、神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、一気に勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した。
そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が総攻撃をしかけたので、村宗を始め和泉守護細川澄賢・侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)ほどの大敗を喫した。
三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、圧倒的有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって大打撃を被った(挟撃する側としては理想的な形となった)。
この結果、それまでの膠着が嘘のように戦局が大きく崩れて、高国の滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。
敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱。近くの大物城への退避を狙っていたが、既に赤松方の手が回っており、なおも窮地が続いた。そこで、尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠していたが、密告者の報を受けた三好一秀によって6月5日に捕縛された。
尼崎の町で高国を捜索した一秀による一計、まくわ瓜の逸話が今日に伝わっている。近所で遊んでいた子供達に一秀はまくわ瓜をたくさん持ってきて、「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と切り出したという。子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという有名な逸話である。
そして同月8日、仇敵晴元の命によって高国は尼崎広徳寺で自害させられた。
一方、惨敗した浦上軍の将士達は生瀬口(兵庫県宝塚市)から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅したとされている。赤松政祐はそつがなく伏兵を生瀬口や兵庫口に配置し、落ち延びる兵を一網打尽にしたからである。父を村宗に殺害された怨みは根が深かった。
永正の錯乱から始まった養子3兄弟の争いは、大物崩れで最後の養子高国が自害させられた事により、幕を閉じる事になる。(Wikiより)
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大物くずれ戦跡案内板
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大物くずれ戦跡へのアクセス
阪神電車大物駅徒歩2分(線路沿い北西方向、交番の隣)

大覚寺城跡

所在地:兵庫県尼崎市寺町9(大覚寺)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日2013年1月26日

大覚寺は、1275年(建治元)に尼崎に来たと伝えられる琳海上人によって再興された月峯山を山号とする寺院です。寺院の敷地は鴨社領長洲御厨から寄進されたもので、現在の大物東本町に開創さたといわれています。その初源はさらに古く、所蔵している「大覚寺縁起」や江戸時代に編纂された「摂陽群談」などによると、605年(推古13)長洲の浦人に霊地剣尾山(兵庫県能勢町)の場所を教えられた百済の高僧日羅上人が、聖徳太子の命により剣尾山に月峯寺を建立されました。浦人たちが遠い山の霊地へお参りに行くのは容易でないため、長洲に剣尾山を遥拝する燈炉堂を建てた。この燈炉堂が大覚寺の始まりと伝えられています。
1314年(正和3)住民による寺地への侵害事件や、1326年(嘉暦元)燈炉堂の破却事件ののち、長洲の地下人が寺の保全責任を負うようになりました。残された絵図によれば、寺の東側の門前には市庭が設けられ、住民の公共施設としての機能も果たし、宗教だけでなく政治・経済・文化全般にわたって尼崎の重要な位置を占め、大覚寺を中心に都市尼崎が形成されたと言われています。南北朝時代には、南北両朝の将師がそれぞれ大覚寺を本拠地とし、室町時代には、足利2代将軍義詮が半年にわたって在陣するなど城としても利用され、大覚寺城と呼ばれました。1617年(元和3)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に現在地へ移転し、尼崎藩の安寧豊楽を祈願する御祈祷所としての役割を担ってきました。
大覚寺文書は、大覚寺に伝わる56点の文書で1313~1589年(正和2~天正17)の中世尼崎を今に伝える資料として貴重なもので、県の指定文化財に指定されています。また、境内には琵琶法師ゆかりの弁財天堂が残っており、2月3日の「節分祭」では、豆まきと常設の能舞台で「大覚寺身振り狂言」が奉納されます。
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案内板
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大覚寺本殿
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寺内にあった大覚寺弁才天縁起
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法園寺
法園寺(ホウオンジ)は、勝誉恵光法園上人の開基による浄土宗鎮西派(チンゼイハ)知恩院末の寺院で山号は恵光山、院号は謝徳院。室町時代に現在の別所町に開創されたといわれています。1615年~1624年(元和年間)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に現在の寺町へ移転されました。
境内には戦国武将佐々成政の墓石の五輪塔が立てられています。佐々成政は、豊臣秀吉から肥後(熊本)の領地を与えられましたが、佐々成政の太閤検地のやり方に反発した肥後国人一揆を自力で鎮めることができず、1588年(天正16)一揆の原因を作ったことを理由に法園寺で切腹させられています。なお、境内にある五輪塔は複製で、実物は本堂内に納められています。寺宝に、佐々成政の死を悼まれた後陽成天皇直筆の掛軸や佐々成政の肖像画があるなど、戦国武将佐々成政ゆかりの地としても有名です。

法園寺山門
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佐々成政公墓之地碑
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法園寺案内板
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佐々成政供養塔
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佐々成政公生涯の説明板
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佐々成政の像
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佐々成政
佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。
織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。永禄4年(1561年)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』・『当代記』) 。

天正2年(1574年)、長島一向一揆との戦いで長男松千代丸を失う。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。

天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍している。なおこの時府中三人衆は荒木一族の処刑を命ぜられ実行している。天正5年(1578年)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退している。

天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点・魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった(魚津城の戦い)。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。

明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまった。合戦中に起きた前田利家の寝返りや、勝家の敗死後は上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵された。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った利家と敵対して末森城の戦いが起こった。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。天正15年(1587年)、羽柴の名字を与えられる。

天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる)。戒名は成政寺庭月道閑大居士。
辞世の句:「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」(佐々成政Wikiより)

大覚寺城跡へのアクセス

尼崎城跡

所在地:兵庫県尼崎市北城内、南城内

駐車場:尼崎市立中央図書館駐車場
別名:琴浦城、尼丘城
築城主:戸田氏鉄
築城年:元和3年(1617年)
主な城主:戸田氏鉄、青山氏、松平忠喬
廃城年:明治6年(1873年)
遺構:案内板、城跡碑
駐車場:尼崎市立中央図書館駐車場
訪城日:2013年1月26日

元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し、戦国時代の城跡に築いた。3重の堀をもち、本丸には4重の天守と3重の櫓が上げられた。
戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えた。最後の藩主は松平忠興である。
明治6年(1873年)の廃城令により建物は一部を除き取り壊されたが、明治7年(1874年)、本丸御殿の一部が菩提寺・深正院(市内大物町)の本堂として移築された。この本堂は戦前まで残っていたが、戦災に遭い焼失した。城跡に尼崎城址公園が整備され、石垣および土塀が模擬復元されている。

縄張り
尼崎城は、大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築城された城で、尼崎城に直接船が横付けできた事から、海に浮かんだような城であったと言われている。
水堀は2重、3重に巡らされ、縄張りはほぼ正方形で本丸を中心に、天守・三重櫓・門・本丸御殿・二之丸・松之丸・西三之丸・東三之丸・南浜などを備えた近世城郭であった。

本丸
本丸は東西、南北とも約115mで尼崎城の中心に位置し、政務をつかさどる重要な場所であった。方形の敷地に天守1基、3重櫓が他の3隅に1つずつ建てられ、中心に御殿があった。虎口は東に虎之門、南に太鼓門、西に搦手門の3つが開かれていた。本丸跡地は尼崎市立明城小学校になっている。
天守
本丸の東北隅に位置し、東西21m、南北17m、高さ18m、西側と南側に付櫓を持つ複合式層塔型4重天守で「分間城図付絵図」では「四重組大櫓」とも併記されている。外観は白漆喰総塗籠で2重目から4重目に唐破風や切妻破風が付けられていた。
隅櫓
隅櫓は天守以下の4隅に建てられ、何れも3重で2重目屋根に唐破風、切妻破風、千鳥破風を付けていた。東南隅:武具櫓、西南隅:角櫓(伏見櫓)、西北隅:塩嘈櫓
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模擬石垣
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城跡碑
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尼崎市立中央図書館の模擬石垣
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三の丸公園
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明城小学校内にある尼崎城復元モニュメント
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図書館南側にある契沖生誕の比定地碑
契沖(けいちゅう、1640年(寛永17年) - 1701年3月4日(元禄14年1月25日))
摂津国尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川氏、字は空心。祖父下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父元全(もとたけ)は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。
契沖は、幼くして大坂今里の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で阿闍梨の位を得る。ついで大坂生玉(いくたま)の曼陀羅院の住持となり、その間下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して高野山に戻る。室生寺では命を捨てようとしたこともある。その後、和泉国久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や池田郷万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。1678年(延宝6年)妙法寺住持分となった後、晩年は摂津国高津(こうづ)の円儒珠庵で過ごした。
『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾い、分類した『和字正濫抄』を著した。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。
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契沖の説明板
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全昌寺
寺町で唯一の曹洞宗の寺院。戸田家の菩提寺として現在の滋賀県大津市に建立されましたが、元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎藩主として尼崎へ所替えの際、随伴した僧、雪山呑秀和尚によってこの地に再興されたものです。開基は、戸田甚五郎と伝えられています。また、曹洞宗の本山である総持寺(神奈川県)の輪番地寺院としてたびたび禅師を送り出した名刹です。文政5年(1822)出火の際に貴重な記録類をはじめ多くの品々が焼失しましたが、山門、鐘楼堂、本尊釈迦如来像、月舟宗湖筆の観音堂扁額、十六羅漢、魚籃観音像、涅槃図は焼失を免れました。檀家には尼崎藩旧松平家の家臣も多く、漢学者の豊島成温、内田頼重らの墓所としても知られています。鐘楼堂は阪神・淡路大震災で被災し、再建されました。
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全昌寺案内板
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全昌寺本殿
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本興寺
本興寺(ほんこうじ)は、兵庫県尼崎市寺町地域(現在の行政区画では開明町)にある法華宗本門流の大本山。京都の本能寺と並ぶ大本山である。
1420年(応永27年)に日隆が開基。本能寺が伝道の中心地であったのに対し、本興寺は教学の中心地であり、勧学院という教育機関が設置された(現・学校法人法華学園興隆学林専門学校)。塔頭が6院ある。

日隆聖人
日隆は18歳で京都の妙顕寺日霽門下に入り、本勝迹劣本門八品正意を唱えて当時の法華宗門下に、日蓮の本来の教えに立ち返るように説いたが、論戦となり妙顕寺を退出、応永22年(1415年)に本能寺を創立した。応永25年(1418年)、宗教上の対立から月明に刺客を送られるも、刺客らも日隆に帰伏したという逸話(『歴史と宝物』より)が伝わっているが、この事件をきっかけに日隆は尼崎辰巳の浜に移った。この地で細川満元の男子誕生を祈願、無事に男子が誕生し、土地を寄進されて本興寺を創立した。
本興寺山門
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本興寺案内板
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本興寺本殿
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尼崎城跡へのアクセス







栗山氏館跡

所在地:兵庫県尼崎市栗山町2丁目24−33 、生島神社
訪城日:2013年1月26日

字屋敷田にある生島神社は環濠を有しており、ここに中世生島庄の豪族栗山氏居館があったという。
(参考文献 地域史研究)

生島神社由諸
明治維新以前は「生島明神」「生島弁財天」とよばれた。
創祀は仁徳天皇の御代と伝えられ、「三代実録」「摂津志」にその由来が記されています。
明治維新以前は、生島明神、生島弁財天と呼ばれましたが、明治6年に生島神社と改められました。
その後上ノ島須佐男神社、大西熊野神社、三反田八幡神社を合祀して現在に至っています。
末社に生島弁財天社、生島稲荷社、生島大師堂、交通神社があります。
現在の社殿は昭和50年に新造されたもので、厄除・家内安全・安産祈願に多くの参拝があります
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本殿全景
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生島神社案内板
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栗山氏館跡へのアクセス


久々知城跡

所在地:兵庫県尼崎市久々知1丁目3(久々知須佐男神社)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:無料駐車場あり
訪城日:2013年1月26日

『細川両家記』などに「陣が置かれた」とある。

久々知須佐男神社由諸
鎌倉時代の創建で、天徳元年(957)村上天皇の御宇、源氏棟梁贈正一位源満仲公の勧請により建立された。 須佐男命(牛頭天王)、諏訪大明神、末社愛宕大権現、八幡大明神の鎮守神として天暦九年(955)に奉祀されている。 本殿・幣殿・拝殿は元和二年(1616)に再建されたが、昭和60年5月「昭和の大修復」がなされ、現在に至る。宝暦年間に奉納された絵馬「鯉図」(法眼月岡雪鼎画)等、絵馬が多数所蔵されている。史跡として、境内に源満仲公が多田(現川西市)に向って矢を射るのに足をかけた「矢文石」がある。
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須佐男神社由緒
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須佐男神社説明板
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久々知城跡へのアクセス
近くには近松 門左衛門記念館があります。興味がある方は寄ってみてはいかがでしょうか。

食満(けま)城跡

所在地:兵庫県尼崎市中食満5丁目(尼崎東高校跡地)
別名:毛馬砦
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日、2014年3月21日

字名の「城ノ内」(上食満)と「城田」(中食満)が隣接している。『信長公記』に「有岡城攻めの信長方(織田信雄)の砦が築かれた」とある。

備考:スマホのナビで尼崎東高校を検索すると、現在の尼崎双星高校に着きました。合併して移設してたのも知らずここを撮影。帰宅して調べると、場所違ってました。なので再訪しました。
行かれる方は中食満稲荷神社(食満5-14-21)を目指すといいです。
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食満(けま)城跡へのアクセス




生津館跡

所在地:尼崎市武庫之荘西西2丁目35~40付近
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

生津館跡の詳細は不明です。字名に「居屋敷」がある。中世土豪の屋敷地があった。参考文献『地域史研究』
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このあたりは道幅も狭く入り組んでいます。
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備考:このあたり一帯は宅地地で城跡と言う感じではなかったです。

生津館跡へのアクセス



水堂陣屋跡

所在地:兵庫県尼崎市水堂1丁目23
築城年:寛永年間(1624~44年)
築城者:青山幸通
主な城主:青山幸通
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2012年12月25日

水堂代官屋敷[水堂陣屋]は、寛永20年(1643年)尼崎藩主青山幸成の次男幸道がこの地を治めるために設けた地方代官の役所跡です。幸道には3千石が与えられ、尼崎市内では水堂・潮江・次屋・浜など、西宮市内では下大市・樋口新田・久右衛門新田・中村などの武庫川沿いの村や神戸市内の平野の小部分が含まれていたそうです。現在は取り壊され民家になっています。
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水堂陣屋跡案内板
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近くの常春寺にある水堂宝篋印
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水堂宝篋印塔説明板
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水堂陣屋跡へのアクセス

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播磨河内守

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。