福田山城跡

所在地:兵庫県相生市矢野町真広
別名:小河真広城
築城年:建武年間(1334~36年)
築城主:福田三郎景行
城主:福田氏
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2014年10月18日

福田山城については、赤松氏一族の福田三郎景行が建武年間に築城したと伝わっています。現在はゴルフ場になっており城跡の大部分が削り取られています。

城跡とされるゴルフ場


福田山遠望


福田山城跡へのアクセス
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光明山城跡

所在地:兵庫県たつの市揖西町竹原
別名:紫雲城・光明寺城・逆茂木城・小犬丸城
築城年:建武年間(1334~38年)
築城主:赤松則村
城主:赤松氏・宇野氏・内海氏・海老名氏
廃城年:天正8年(1580年)
訪城年:2014年10月18日

建武年間(1334年~1338年)に赤松則村(円心)によって築かれた。 則村が築いた後、家臣の海老名景知が在城、室町時代には宇野氏重、応仁の乱の後に赤松政秀(下野守)が在城したという。

光明寺山城跡石碑と案内板
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石碑がある公園から光明山方面の景色

ここから登るようですが、かなりガレています。ここから先は自分のバイクでは少し不安なのでここで断念します。


光明山城跡へのアクセス

雛山城跡

所在地:兵庫県たつの市御津町中島
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年10月18日

雛山城については詳細不明です。


タンク横の登城口



大岩の裏にある祠
(この祠、普段は閉じています。言い伝えでは開けると洪水が起こるそうです。実は開けてしまったのです・・・どうしょうw)

頂上からの展望


雛山城跡へのアクセス

長谷山城跡

所在地:兵庫県たつの市揖保川町大門
別名:長福寺城
築城年:南北朝時代
築城主:長谷川判官政時
城主:長谷川氏・広瀬氏・江藤氏
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年10月18日

南北朝時代に長谷川判官政時が築城し、康正元年には赤松一族の広瀬太郎師光が居城したという。弘治元年、江藤越中守清好が居城したが羽柴秀吉の播磨制圧の時に退去開城した。『日本城郭大系12より』

長谷山城跡遠望

ゴルフ場側の遠望
未確認ですが、こちらから登れそうな気がしますがゴルフ場から丸見えなので勇気がいります。

登城口

石垣(城と関係があるかは不明)

石垣上の削平地

頂上近くまで登りましたが、岩場でかなり厳しそうなので断念しました。


長谷山城跡へのアクセス

栄の構跡

所在地:兵庫県たつの市揖保町栄
築城年:平安時代?
築城主:紀秀村?
城主:紀秀村・浦上氏・花房靱負
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年10月18日

構跡は浦上一族の本貫地で、もとは浦上荘と言われた所にある。浦上氏の居館跡に営まれたこの構には永禄の頃、室山城主浦上家の年寄職の花房靱負が留守居をしていたという。『日本城郭大系12より』

浦上庄内の中臣城の初代城主として「紀秀村」の名が伝えられている。





栄の構跡へのアクセス

中臣城跡

所在地:兵庫県たつの市揖保町中臣
別名中陣城
築城年:不明
築城主:赤松掃部助則勝
城主:赤松氏
廃城年:天文年間(1532~55年)
遺構:なし
訪城日:2014年10月18日

標高30メートルの中臣山にあり、応仁の乱(1467~69)で赤松政則を助けた赤松掃部助則勝が築城したと伝わっています。『日本城郭体系12』






地元の方に聞くとここは城山と言われています。他に中臣山は中臣印達神社裏山の水道タンクがある場所があり、そちらが城跡と言う説もあります。

中臣城跡へのアクセス

大隈構跡

所在地:兵庫県たつの市誉田町広山
築城年:文治年間(1185~90)
築城主:塩津新左衛門義経
城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2014年10月18日

大隈構については詳細不明です。延徳年間に龍野赤松氏の配下、内山城主塩津左衛門佐義元が当構に移ったという。





大隈構跡へのアクセス

岸の構跡

所在地:兵庫県たつの市龍野町四箇

別名:四箇城
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2014年10月18日


岸の構については詳細不明です。永禄年間(1558~70)に、笠松城主円山氏の一族、円尾佐衛門尉祐武居住し、龍野赤松氏の配下であったという。『日本城郭大系12より』



最南端?の戎神社


岸の構跡へのアクセス

乙(おと)城跡

所在地:兵庫県たつの市揖西町佐江
築城年:建武年間(1334~38)
築城主:高瀬小四郎景忠
主な城主:高瀬氏・浦上氏・赤松氏
廃城年:1585年(天正13年)
遺構:土塁・郭跡
訪城日:2014年10月18日

乙城は建武年間(1334~38)に高瀬小四郎景忠が播磨国守護赤松円心の命により築いた。1441年の嘉吉の変で断絶したため本城も一時廃城となったが、応仁の乱以後赤松氏の再興とともに本城も復興した。
1560年(永禄3)龍野赤松氏と対立していた室山城主浦上政宗が乙城を攻略してここを居城とした。
1578年(天正6)政秀の子赤松広秀は羽柴秀吉に追われて龍野城から乙城に移された。
乙城城主となった広秀は、あらたに龍野城主となった蜂須賀正勝の麾下に入ったが1585年(天正13)に城を出て、但馬竹田城へ移封され、その後乙城は廃城となった。(現地案内板より)

麓にある日吉神社から登城します。

乙城跡までにはいくつもの古墳墓群があります。

乙城跡近くに東屋があります。

東屋からの展望

乙城案内板

主郭







乙城跡へのアクセス

衣笠城

所在地:兵庫県たつの市神岡町大住寺
別名:越部砦
築城年:不明
築城主:不明
城主:衣笠氏・松原氏
廃城年:天正8年(1570年)
遺構:のろし台
訪城年:2014年10月18日

小松砦のある片山と山続きの山頂にあります。嘉吉の乱までは、赤松氏の被官衣笠政時が城主。一時山名氏の支配に属したが、応仁の乱後は、龍野赤松氏配下松原掃部丈夫定久が居城したという。羽柴秀吉の播磨制圧の頃落城した。

のろし台跡という所があります。

登城口

こちらの右側を上ります。

のろし台と思われる場所


頂上からの展望


衣笠城跡へのアクセス
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。