目加田城跡

所在地:滋賀県愛知郡愛荘町目加田953-11(目賀田城跡公園)
別名: なし
築城年:1576年(天正4年)
築城主:目加田二郎左衛門尉
廃城年:慶長二年(一五九七)
城主:目加田氏
遺構:案内板・土塁・堀・門跡・本丸跡
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:すぐ
駐車場:公民館駐車場

目加田(めかた)氏は、戦国期に近江国守護の佐々木六角氏の重臣として活躍する。天正四年(一五七八)、織田信長が近江に侵攻して安土城を築くにあたり、安土山(目加田山)に在った屋敷を目加田貞政(さだまさ)の所領である光明寺野(目加田)に移した。天正十年(一五八二)の本能寺の変が勃発、城主堅政(かたまさ)は明智光秀に加担したため秀吉に所領を没収され、一族は離散し、慶長二年(一五九七)廃城になったという。目加田城公園には城館の周濠(しゅうごう)跡や、比高三メートルの土塁が部分的に残され、公園入り口付近には舟入(ふないり)と見られる内湾部(内堀)が確認できる。
『平成二十七年三月 愛荘町教育委員会』

案内板と城跡石碑

案内板










目加田城跡へのアクセス
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安土城跡

所在地:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
別名: なし
築城年:1576年(天正4年)
築城主:織田信長
廃城年:1585年(天正13年)
城主:織田氏、明智氏
遺構:案内板・天守台・曲輪・石垣・堀
指定文化財:国特別史跡
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:麓より15分
駐車場:麓に無料駐車
入山料 大人 700円  小人 200円(摠見寺拝観料 別途500円)

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた[1]。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。
この城を築城した目的は、岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

石塁と大手三門



東側石塁北上段郭と虎口



西側石塁と枡形虎口











大手道

伝羽柴秀吉邸跡と櫓門跡









羽柴秀吉邸復元図


伝前田利家邸跡の虎口

伝前田利家邸跡




大手道の石仏

武井夕庵邸跡



黒金門跡
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佛足石

二の丸跡と織田信長公本廟



織田信長公本廟

本丸跡

本丸跡解説版



天主台跡

天主台解説版

天主台からの景観

摠見寺本堂跡

摠見寺跡解説版

摠見寺三重塔

摠見寺仁王門




安土城跡へのアクセス

円山城跡

所在地:滋賀県近江八幡市円山町
別名: 丸山城
築城年:鎌倉時代中期
築城主:佐々木氏綱
廃城年:不明
城主:佐々木(西条)長綱
遺構:郭・石垣
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:未登城
駐車場:鳥居前に駐車

円山城は佐々木六角泰綱の三男長綱の子である氏綱が築城したと伝えられている。
氏綱は西条氏の祖となり、以後四代城主として続いたが、六角氏滅亡と運命を共にしたという。山頂部にのほぼ中央に平坦地があり、その一部に石積み遺構がみられ本丸跡であるとされる。

円山神社鳥居

賽珠寺本堂

賽珠寺本堂説明板

円山神社社殿

登城口

登城途中にある石積み


ここから道が見当たりません。直登するのかなぁ・・・結構体が疲れてます・・・しんどいので登るのを断念してしまいました。


円山城跡へのアクセス

北之庄城跡

所在地:滋賀県近江八幡市北之庄町、南津田町
別名: 岩崎山城
築城年:不明
築城主:六角氏か?
廃城年:不明
城主:六角氏か?
遺構:案内板・曲輪・土塁・空堀・堀切・土橋
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:ロープウェイにて登城  北ノ丸より約20分ぐらい
駐車場:麓に無料駐車
ロープウェー料金:おとな 片道490円、往復880円  こども 片道250円、往復440円

城史については詳細不明です。六角判官崇永によって築かれたとも言われますが定かではありません。
近江八幡城の北ノ丸から屋根づたいに行くと約20分ぐらいで北之庄城跡の案内板があります。北之庄神社からも登山道があるようです。

土橋







北之庄城案内板

のろし台










北之庄城跡へのアクセス

八幡山城跡

所在地:、滋賀県近江八幡市宮内町周辺
別名: 八幡城、近江八幡城
築城年: 1585年(天正13年)
築城主:豊臣秀吉、豊臣秀次
廃城年:1595年(文禄4年)
城主:羽柴秀次、京極高次
遺構:案内板・曲輪、石垣、空堀、犬走り、居館、
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:ロープウェイにて登城
駐車場:麓に無料駐車
ロープウェー料金:おとな 片道490円、往復880円  こども 片道250円、往復440円


1582年(天正10年)の本能寺の変と山崎の戦いのしばらく後に灰燼に帰した安土城は、清洲会議を経て三法師(織田秀信)を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。しかし翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
豊臣秀吉は八幡山城を安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。しかし、八幡山は安土山と違い険しい山で、山の斜面を充分活用できず麓の居館が城の中心となった。(ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土している。金箔瓦には安土城、大坂城とよく似た形状の巴紋瓦もある。)
豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。代わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期、築城から10年で八幡山城は廃城となり、京極高次は大津城へ移った。
本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀尼(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転されている
『八幡山城wikiより』

堀割

案内板

近江商人説明板

八幡山ロープウェー乗り場

石垣

石垣

二の丸跡にある売店・おみやげ屋

石垣

石垣

北の丸跡



北の丸跡からの景観

本丸への虎口跡
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瑞龍寺本殿

西の丸跡

西の丸跡からの景観


麓の八幡公園には豊臣秀次の像があります。

説明板

近江八幡市図書館裏手からは秀次館跡に登城できますが、今回は未登城です。

八幡山城跡へのアクセス

長光寺城跡

所在地:滋賀県近江八幡市長福寺町
別名: 瓶割(かめわり)城
築城年: 鎌倉時代中期
築城主:佐々木政尭
廃城年:不明
城主:佐々木氏・柴田勝家
遺構:案内板・石垣・竪堀・土橋・土塁・井戸・米倉
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:麓の日吉神社から約25分
駐車場:近くの公園に駐車

長光寺城は、『碧山日録』によれば、佐々木四郎政堯が応仁二年(一四六八)の時に宗家である佐々木重頼に敵対し、細川氏に味方して、この城に拠って戦ったことが記されている。このことから、すでに一四六〇年代には築城されていたことがうかがえる。永禄十一年(一五六八)、この城にいた六角軍は織田信長に抗し、敗れて落城し、その後、元亀元年(一五七〇)、織田信長が柴田勝家をしてこの城に拠らしめ佐々木を制した。この時、六角義賢・義弼・義定はこの城を攻め、柴田勝家は籠城し、瓶割柴田の異名をとったことが、『本朝通鑑』に記されており、このことから瓶割城ともよぶ。天正四(一五七六)の安土築城頃に廃城となったようである。遺構としては、頂上部平坦地に一の丸・二の丸跡を残し、部分的に石積みをみることができる。また、焼き米の出土地があり、米倉跡と考えられている。『日本城郭大系11より』

麓の日吉神社

日吉神社社殿

登城口

二の郭



土橋

石垣

一の郭

一の郭案内板

一の郭からの景観





三ノ郭に行きたかったのですが、かなり荒れていて進むことが困難ぽいので諦めました。


長光寺城跡へのアクセス

水茎岡山城跡

所在地:滋賀県近江八幡市牧町
別名:尾山城・岡山城
築城年:永正五年(1508)
築城主:九里備前守信隆
廃城年:1525年(大永5年)頃
城主:九里氏、伊庭氏
遺構:城跡石碑・石垣・堅堀・土塁・切岸・帯曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:麓から約20分
駐車場:あり

南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。本格的な築城は1508年(永正5年)、室町幕府十一代征夷大将軍足利義澄が城主九里信隆(六角氏被官)を頼って都落ちをし水茎岡山城に入った頃に行われた。
1510年(永正7年)、幕府軍3000に城を包囲されるも信隆はこれを退けている。1511年(永正8年)には当城で後の十二代将軍足利義晴が誕生した。また同年、足利義澄は帰洛を果たせぬまま当城で病没した。
1514年(永正11年)、信隆が六角高頼に謀殺され、1520年(永正17年)、信隆の子浄椿は六角高頼・細川高国の連合軍に敗れ落城した。1525年には九里氏の残党が城に立て籠もるも敗れ九里氏は滅亡した。この頃に廃城になったと考えられている。
築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。しかし、第二次世界大戦後の干拓事業により一帯は埋め立てられ水田地帯となり山も掘削され湖岸道路となっていることから周辺環境は様変わりしてしまっている。遺構の現況は竹林となっており、絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。

岡山登城口







頂上からの景観


ここから約500m程西に行ったところの頭山には、城跡石碑と供養塔があるみたいですが見逃しました。
資料によっては、頭山の方が主郭だったり大山(岡山)が主郭だったりで、どちらが本当か定かではありませんが、現在では大山(岡山)の方が主郭というふうになっているようです。


水茎岡山城跡へのアクセス

永原御殿跡

所在地:滋賀県野洲市永原
別名:永原城・御茶屋御殿
築城年:室町時代中期
築城主:永原氏
廃城年:貞享2年(1685)
城主:永原氏
遺構:堀・土塁・石垣・移築門・案内板
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:すぐ
駐車場:あり

永原御殿跡(ながはらごてんあと)(解説板)

江戸時代初期、将軍上洛時などに使用する「御殿」あるいは「御茶屋御殿」と呼ばれる施設が幕府により整備されました。
永原御殿は、幕府代官の支配地が多い永原に築かれ、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたり利用されました。御殿は、寛永十一年(一六三四)の将軍上洛時に大整備が行われ、本丸・二の丸・三の丸からなり、多くの建物を備え、堀や土塁をめぐらした本格的な城郭でした。その後、将軍上洛が停止されると、貞享二年(一六八五)には御殿も廃止され、取り壊されました。現在は竹やぶになって建物は残っていませんが、堀や土塁、石垣などがその面影をとどめています。銅鐸博物館(野洲市歴史民族博物館)には、永原御殿の
復元模型が展示(企画展等開催中は展示替え)されていて、当時の姿を知ることができます。
二〇一一年一二月野洲市観光物産協会『現地案内板より』




現地案内板




永原御殿跡へのアクセス

桜生城跡

所在地:滋賀県野洲市小篠原
別名:なし
築城年:永禄年間(1558年~1570年)
築城主:澤弾正少弼清光
廃城年:1593年(文禄2年)
城主:澤氏
遺構:曲輪、土塁、堀
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:すぐ
駐車場:なし

城史については詳細不明です。
桜生城は、永禄年間に澤弾正少弼清光が入城しており、文禄2年に廃城となった。『日本城郭大系11より』

日吉神社



水堀

水堀




桜生城跡へのアクセス

衣川城跡

所在地:大津市衣川町2丁目30
別名:なし
築城年:文暦元年(1234年)
築城主:山内義重
廃城年:大永6年(1526年)
城主:山内氏
遺構:案内板 城跡石碑
指定文化財:なし
訪城日:2017年5月11日(木)曇
所要時間:すぐ
駐車場:なし

衣川城は、山内義重が文暦元年(1234年)正月の粟津の合戦で勲功をたて衣川領を賜りここに城を築いた。
十一代の山内駿河守宗綱は浅井公政・京極高清とともに永正5年~8年(1508年~1511年)にかけて近江、坂本、石山の各合戦に朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめた。しかしその後大永6年(1526年)に細川高国の奇襲にあい一族善戦したるも及ばす衣川城は落城、辛うじて難を逃れた重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて再起果たしえず土着したという。


城跡石碑



案内板




衣川城跡へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
なんとなく城跡巡りへようこそ!

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○相互リンク募集中です。リンクはフリーです。
○当ブログの掲載内容につきまして参考資料などを見て掲載はしていますが、情報が古かったり、間違っていたりするかもしれません。ご容赦願います。
○掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。