所在地:大阪府豊中市曽根西町4-4-15
築城年:鎌倉時代
築城主:原田氏
主な城主:原田氏、三好長逸、中川清秀
廃城年:慶長年間
城郭構造:丘陵城郭・平山城
訪城日:2014年3月9日
原田城は原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城で、小規模な「城館」となっている。摂津では富松城、吹田城、鷹尾城、安威城と安威砦、山下城、野田城(福島城)など2ヵ所1城とする城が多く見られるが、原田城も「北城」と「南城」の2つの城から成り立っている点が特徴として挙げられる。
原田城跡は昭和62年(1987年)に豊中市指定史跡に指定された。また平成19年(2007年)12月5日に国の登録有形文化財に登録された「旧羽室家住宅」の庭園の一部に原田城の土塁跡があり、築山として利用されている。
平成10年(1998年)発行の『豊中市史 第9巻』では「北城は15世紀ごろに築かれ、16世紀後半まで存在していた」とされていた。北城は新しく戦闘用の城、南城は古く居館的役割なのではないかとしていた。しかし、その後平成21年(2009年)発行の『豊中市史 第1巻』によると、「発掘成果によれば、南城が築かれたのは北城よりも遅い16世紀後半であることがわかった。北城については14世紀ごろからの遺構が確認でき、このころから築城されはじめたと推測される」としている。原田城は数次に渡り発掘調査が実施されており、それらと比較して築城時が明確になった。
『師郷記』によると興国5年/康永3年(1344年)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。その後原田氏は摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれていく。
天文10年(1541年)11月4日、木沢長政軍は三好長慶がいる越水城を攻囲する一方、原田城を攻城していることが『足利季世紀』に記されている。
その後天文16年(1547年)2月20日、原田城は細川晴元軍3万兵の猛攻をうけ、陥落、開城した。『摂津志』によると、この時城主となっていたのが三好長逸ではないかとしているが、『日本城郭大系』では「当時の城主はわからない」としている。この猛攻で北城は廃城し一旦荒廃していったと推察されている。発掘調査で南城が16世紀の後半に掘削されていることから、原田氏は以降南城を中心に活動していたとみられる。
有岡城の戦いでは、原田城に古田重然や中川清秀ら織田信長軍が伊丹城の攻城戦の砦として活用したらしく、平成6年(1994年)の発掘調査から一旦廃城になっていた北城を復興させ、大改修が行われた事が明らかとなった。
廃城は慶長年間で、原田氏の多くは豊後岡城に移っていき、北城、南城とも荒廃し、現地には土塁と堀跡だけが残された。
「原田城Wikiより抜粋」

土塁跡

土塁跡

原田城跡と土塁の説明板

旧羽室家屋敷

少しボケた画像ですが一応貼っておきます。

訪問した日が、土曜日だったので、中が公開されてました。こちらに着いたのが閉まる間際の15時30頃・・・もう少しで中に入れないとこでした。丁度、復興虎口に職員さんが居て、お声を掛けて頂き、屋敷内でご丁寧な説明を受けました。有難うございました。また本日は、古文書講座があったらしく、大勢の人で賑わっていました。
原田城(北城)跡へのアクセス