山田城跡

所在地:大阪府吹田市山田東2丁目
別名:なし
築城年:南北朝時代
築城主:赤松則祐か?
主な城主:香西玄蕃
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2015年2月17日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

山田城は伝説によれば、元弘年間(1331~34)赤松則祐が創建に係わるという(大阪府全志)が資料的裏づけはない。
山田城には13もの属城があったとされる(摂津志)が詳しくはわかりません。



山田城跡へのアクセス
伊射奈岐神社近辺とも言われていますがわかりません。
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竹中氏陣屋跡

所在地:大阪府吹田市高浜町
別名:吹田陣屋
築城年:
築城主:竹中氏
主な城主:竹中氏
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2015年2月17日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

徳川時代の旗本竹中氏(千六百六十余石)の陣屋であった。
初代貞右衛門重賢の入部時期は不明であるが、万寿蔵の代に明治維新まで約二百七十年以上は続いたという。
陣屋は町会所・町役場などが建てられ、やがて吹田町役場となった。『日本城郭体系12より』





竹中氏陣屋跡へのアクセス

吹田城跡

所在地:大阪府吹田市出口町4
別名:石浦城、西之庄城
築城年:鎌倉時代以降
築城主:吹田氏?
主な城主:吹田重通、薬師寺元長、吹田村氏など
廃城年:天正6年(1578)?
遺構:なし
訪城日:2015年2月17日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

この城が最初史料に現れるのは、1336年の事で『吉川家文章』によると6月9日足利氏に属していた安芸国の周防親家が水田城で合戦になり、追い落としている。それより100年後『摂津志』によると永禄年間には吹田重通が吹田城を根拠地をしていた。その後『応仁記』によると1467年の応仁の乱直後に、三宅氏(三宅城)、茨木氏(茨木城)、芥川氏(芥川城)の国人衆らと吹田氏は東軍に属し京都で戦いを繰り返した。しかし1482年細川政元の国人一揆制圧の中、『大条院寺社雑事記』によると、吹田重通は摂津国守護代薬師寺元長に追われ、以後吹田城は薬師寺元長に与えられた。
1526年、香西元盛と細川尹賢との角逐に端を発した争い(八上・神尾山両城の戦い)は、細川高国と細川澄元の合戦へ拡大していった。細川高国軍に与していた池田城を、細川澄元軍が中之島まで挙兵し、それ応じた三宅氏、吹田氏は吹田城周辺に陣を構えたが、伊勢国神戸衆、伊丹衆に攻められた。『足利季世記』によるとこの時吹田衆を率いていたのは吹田美童で打ち取られてしまった。『日本城郭大系』では「吹田城の荒廃はこののちのことであろう」と記載している。しかし『市史点描』によると「1571年、信長方の武将、和田惟政が三好三人衆に味方したと思われる吹田氏を攻め、吹田城を攻略、57の首級をあげた。この戦は戦国時代の終末を示す吹田地域最期の激戦」としていたり、『吹田城散華』によると「吹田因幡は、はじめ三好三人衆に通じていたから、元亀二年(一五七一)和田惟政の吹田攻略に倒れ、その娘を縁組して、荒木村氏が入婿となったのである。吹田城はこの時から、荒木の城となったといえる」としている。また『吹田城散華』では「荒木は、池田を焼き払う。恐らく吹田城も焼き払って、城主一族ともども伊丹に集結した」とあり、また
『わが町すいた』によると「天正6年(1578)荒木村重とともに織田信長に反旗をひるがえし、翌7年非業の最期を遂げた吹田氏の居城の跡」とし、有岡城の戦い迄は存在していたとしている。 「吹田城Wikiより抜粋」

模擬虎口と模擬石垣

吹田城の句碑

石浦城跡推定地のアサヒビール吹田工場


吹田城跡へのアクセス

刀根山城跡

所在地:大阪府豊中市刀根山元町9-21(正安寺)
別名:刀根山砦、刀根山御坊、刀根山陣屋
築城年:1578年
築城主:織田信長
廃城年:不明
城郭構造:丘城
訪城日:2014年3月9日

矢倉の下・東門口等の地名を残すが、遺構は全く存在しない。『信長記巻十一(天正六年)』によれば、荒木村重討伐に際して、このあたりに砦を多数設けたが、その一つに刀根山の名が見え、稲葉新六、氏家左京亮、安藤平右衛門、芥川(名は欠)の四名を置いている。
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本願寺第三世覚如法主の嫡男存覚上人が、貞治2年(1363)に摂津の国豊島之庄(石橋)に創立し、当時は門前に下馬札が立てられ、本堂屋根には菊の御紋章があり、大名といえども素通りができなかったと言われました。
当境内地は、約400年以前織田信長が築いた刀根山城跡です。
(刀根山御坊由緒より)

刀根山城跡へのアクセス

麻田陣屋跡

所在地:豊中市蛍池中町3-9-20
築城年:元和元年(1615)頃
築城主:青木一重
主な城主:青木氏14代
廃城年:明治4年(1871年)
訪城日:2014年3月9日

豊中市内における唯一本拠を構えた麻田藩青木氏一万石の陣屋でした。この陣屋は、元和元年(1615)頃に築城されたものと考えられます。しかし、その遺構は現在、とよなかインキュベーションセンター(旧蛍池公民館)となっていて、その面影は全く残っていません。各種の陣屋図によると、その規模はおおよそ南北250m、東西190mで、かぎ形をなしています。東・北2面を内堀に囲まれた本丸部分には、御殿・会議所・柔剣道場などが建ち並び、一方、外堀の内側(二の丸部分)には家臣の邸宅がまわりを囲んでいます。文久3年(1863)の記録によると、家臣の数は110人余となっています。
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藩主を青木氏とする麻田藩は、石高一万石余りの外様大名です。  大坂の陣で、初代藩主は豊臣方の部将でしたが、陣後、家康に召され、ここ豊中市蛍池に本拠の陣屋を構えました。以後一貫して当地に存続した、豊中にゆかりの深い大名家です。 当時のことを記した絵図によると、陣屋は方形で周囲に濠をめぐらせ、面積は五反歩余りあったと言われています。内部には大名の居住する 御殿のほか、会議所・柔剣道場などがあり、周辺には家臣の邸宅がならんでいました。文久三 年(一八六三)の記録によれば、家臣の数は百十人余りあったものと記されています(現地説明板より)
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麻田陣屋跡へのアクセス

原田城跡(北城)

所在地:大阪府豊中市曽根西町4-4-15
築城年:鎌倉時代
築城主:原田氏
主な城主:原田氏、三好長逸、中川清秀
廃城年:慶長年間
城郭構造:丘陵城郭・平山城
訪城日:2014年3月9日

原田城は原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城で、小規模な「城館」となっている。摂津では富松城、吹田城、鷹尾城、安威城と安威砦、山下城、野田城(福島城)など2ヵ所1城とする城が多く見られるが、原田城も「北城」と「南城」の2つの城から成り立っている点が特徴として挙げられる。
原田城跡は昭和62年(1987年)に豊中市指定史跡に指定された。また平成19年(2007年)12月5日に国の登録有形文化財に登録された「旧羽室家住宅」の庭園の一部に原田城の土塁跡があり、築山として利用されている。
平成10年(1998年)発行の『豊中市史 第9巻』では「北城は15世紀ごろに築かれ、16世紀後半まで存在していた」とされていた。北城は新しく戦闘用の城、南城は古く居館的役割なのではないかとしていた。しかし、その後平成21年(2009年)発行の『豊中市史 第1巻』によると、「発掘成果によれば、南城が築かれたのは北城よりも遅い16世紀後半であることがわかった。北城については14世紀ごろからの遺構が確認でき、このころから築城されはじめたと推測される」としている。原田城は数次に渡り発掘調査が実施されており、それらと比較して築城時が明確になった。
『師郷記』によると興国5年/康永3年(1344年)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。その後原田氏は摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれていく。
天文10年(1541年)11月4日、木沢長政軍は三好長慶がいる越水城を攻囲する一方、原田城を攻城していることが『足利季世紀』に記されている。
その後天文16年(1547年)2月20日、原田城は細川晴元軍3万兵の猛攻をうけ、陥落、開城した。『摂津志』によると、この時城主となっていたのが三好長逸ではないかとしているが、『日本城郭大系』では「当時の城主はわからない」としている。この猛攻で北城は廃城し一旦荒廃していったと推察されている。発掘調査で南城が16世紀の後半に掘削されていることから、原田氏は以降南城を中心に活動していたとみられる。
有岡城の戦いでは、原田城に古田重然や中川清秀ら織田信長軍が伊丹城の攻城戦の砦として活用したらしく、平成6年(1994年)の発掘調査から一旦廃城になっていた北城を復興させ、大改修が行われた事が明らかとなった。
廃城は慶長年間で、原田氏の多くは豊後岡城に移っていき、北城、南城とも荒廃し、現地には土塁と堀跡だけが残された。
「原田城Wikiより抜粋」

土塁跡

土塁跡

原田城跡と土塁の説明板

旧羽室家屋敷

少しボケた画像ですが一応貼っておきます。


訪問した日が、土曜日だったので、中が公開されてました。こちらに着いたのが閉まる間際の15時30頃・・・もう少しで中に入れないとこでした。丁度、復興虎口に職員さんが居て、お声を掛けて頂き、屋敷内でご丁寧な説明を受けました。有難うございました。また本日は、古文書講座があったらしく、大勢の人で賑わっていました。

原田城(北城)跡へのアクセス

飯野藩浜屋敷跡

所在地:大阪府豊中市浜3丁目
訪城日:2014年3月9日

飯野藩上総国飯野二万石保科氏は、大坂夏の陣で天王寺表に功あり。よく大坂定番をつとめ、慶応四年鳥羽伏見の戦いの前の動乱時、藩主正益が京橋口定番であったので領民も大坂城につとめたという。慶安年中当地に代官所をおき浜屋敷と称し、藩札を発行し、天田郡一揆を解決する。

高架下にある跡地
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飯野藩浜屋敷跡碑と説明板
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飯野藩浜屋敷跡説明板
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今西屋敷跡から南に1分程歩いた高架下に飯野藩浜屋敷跡があります。

伝記
ほしごし池の人魂
天竺川と名神高速道路の高架が交差する付近(浜3丁目)には、江戸幕府から大坂城の見張り番を任されていた、飯野藩の屋敷跡があります。屋敷のそばに、その昔、ほしごし池と呼ばれる池がありました。
ある日、地元旧家の家来が、ほしごし池で釣りをしていると武士が現れ、自分が通ったことを他言せぬようにと頼んで去って行きました。しばらくして今度は別の武士が現れ、先に通った武士の友人だからと行き先を尋ねるので、家来はそれならばと行き先を教えました。
ところが、友人を名乗った武士が、先に通った武士の生首を下げて戻ってきたため家来がとがめたところ、敵であったと打ち明けたそうです。怒った家来は、人を欺くのは勘弁ならぬと武士を討ち取り、亡骸をほしごし池に沈めました。それから池には夜な夜な人魂が現れるようになった、と言い伝えられています。(広報とよなかより)

飯野藩浜屋敷跡へのアクセス

春日大社南郷目代今西氏屋敷跡

所在地::大阪府豊中市浜1-8-23
訪城日:2014年3月9日

寿永2年(1183)豊中市全域に広がる摂関家の荘園「垂水西牧」が奈良春日社に寄進されたのを契機に、社家の中から現地管理をおこなう目代(荘官)として、また藤原秀郷の勧請を起源とする南郷春日神社の祭祀を司るため下向した今西氏の屋敷です。
社家36代目である今西春房は明智光秀の娘を娶っていたが弟の今西春光が山崎の戦いに明智方として参陣したかどで豊臣秀吉の怒りを買い、所領を没収された。嫡流は江戸時代に入って上津下村の領主となった飯野藩主保科氏の庇護を受けて復興を許されたが明治時代に再び廃された。大阪府豊中市に府指定史跡として今西氏の屋敷が残っており、現在も今西家の個人宅となっている。
また春房の娘は、中川秀成の養女となってから津山藩主森忠政の正室となっていたが、その縁で春房の息子である浅田宗英が2700石、今西道春が1500石で津山藩士として召抱えられている。更に後にも森家は今西氏から多く召抱えたようで時代を下った森家の分限帳にも今西姓の人間が見られる。
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長屋門
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今西氏屋敷跡へのアクセス

椋橋城跡

所在地:大阪府豊中市庄本町1-2-4
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
訪城日:2014年3月9日

応仁の乱の際には、西軍に属した大内政弘の軍が応仁二年(1468)7月、椋橋城を攻撃し、奪取したが、間もなく東軍が奪回した。さらに西軍は文明二年(1470)七月六日にも同城を攻撃したが、今度は、東軍の摂津守護代である薬師寺与一の家臣、夜久主計允に阻まれた。
天文三年(1534)には、管領細川晴元と三好利長(のちの長慶)が不和となり、利長は一向宗徒とともに椋橋城に籠もった。これに対して晴元方の伊丹周辺の国人衆は小中島へ出て戦ったが無勢のため三好勢に完敗した。再び立て直し攻撃をしかけた晴元であったが逆に敗退。やがて利長と和睦し、利長は再び晴元に属することとなった。しかし収まらない一向宗徒は、椋橋城の籠もる三好利長を攻撃して信貴山城へ追い払ってしまいます。(日本城郭大系12巻より)
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門を入ってすぐ右手に池が鯉が沢山泳いでます。
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椋橋総社社殿
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椋橋総社略記
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椋橋城跡へのアクセス
         
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播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。