尾島城跡

所在地:兵庫県宝塚市波豆
別名:小島端館
築城年:不明
築城主:尾島左衛門介
城主:尾島氏
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2015年1月29日

波豆の神戸水道千刈水源地の突き出た先を尾島の鼻という。伝承によるとここに尾島城が築かれ尾島左衛門介が居城したといわれるが、尾島城に関する記録はありません。尾島城は丘陵城郭で「小島端館(おじまのはなかん)」とも言われ現在は水没しているみたいです。近くにある八幡社境内にも城郭遺構に似たような地形があるそうです。








尾島城跡へのアクセス
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新田城跡

所在地:兵庫県川西市新田3丁目
別名:多田城
築城年:承平年間(931年~938年)
築城主:源満仲
城主:塩川氏
廃城年:不明
訪城日:2014年9月4日

新田城の別名「多田城」ともいい、旧新田村にあった城。新田城の広い意味では、東を塩川、西側から南側にかけて猪名川が流れ、東南隅で合流している2つの川に囲まれた地で、源満仲(多田満仲)と御家人が集落を作っていた地域を新田城と呼ばれていた。軍事施設としての新田城は、新田3丁目付近にある丘陵部に築城されたと考えられている。この付近は、御家人中で有力者であった塩川氏が代々守り、本城としていた。しかし、天正年間の塩川国満時代には山下城が本城と考えられて、新田城は山下城の支城として存在していたと考えられている。有岡城の戦いでは多田神社をはじめ新田城や付近一帯も焼き討ちにあっている。荒木村重が当初織田信長に反抗するための備え城とした「多田城」とは、この新田城の可能性もあるが、『川西市史』によるとこの時期「山下城の塩川国満」とあるので山下城の可能性を指摘してる。天正6年(1578年)10月-12月にかけて、この地域を焼き討ちにした武将は中村直勝で、川西市の多田神社以外の寺社としては、満願寺、栄根寺なども焼き討ちにあった。『明治八年新田村地寺図』によると新田城の中心地として「城山」、「城山ノ下」、「城ノ下」、「東堀」の字名があり、現在の場所でいうと新田3丁目付近に主郭があった。昭和中期までは、新田城の礎石、削平段、堅堀跡があったと言われているが、現在は宅地化され多田グリーンハイツとなっている。

主郭付近推定地(新田3丁目7~8あたり)


新田城跡へのアクセス

小浜城跡

所在地:兵庫県宝塚市小浜四丁目・5丁目
築城年:永禄年間(1558~70年)
築城主:一向一揆衆
城郭構造:平城
訪城日:2014年4月6日

小浜寺内町
小浜は、南西北の三方を迂回する大堀川に加えて東側に溜池を掘り、周囲に土塁を廻らして防御性を高めた城塞寺内町であった。 街道ごとの三方には門を構え、東門は京伏見街道、北門は有馬街道、南門は西宮街道に通じていた。 南北750m・東西400mの総構えで、小浜城とも呼ばれる。


東門跡

江戸時代には小浜は宿場町として復興し、毫摂寺は八本松の名所として知られるようになった。
亳摂寺山門

本堂は工事中でした。

代官所跡

南門跡

小浜宿案内図


小浜城跡へのアクセス

山下城跡

所在地:兵庫県川西市山下
築城主:塩川仲義、仲章または国清
別名:龍尾城、一庫城、塩川城、獅子山城、多田城
築城年:1542年(天11年)以前
廃城年:天正12年(1584年)
城郭構造:山城
訪城日:2014年4月6日

山下城の築城時期については三つの説があり、天禄年間(970年 - 973年)に源満仲の女婿、塩川仲義が新田城の支城として築城した説、南北朝時代に塩川仲章が築城した説、天正7年(1579年)4月20日、塩川国満が織田信長から与えられた説がある。
塩川国満の所領は川辺郡となっており、その東隣は能勢郡で領主となっていたのは能勢頼次で両者は度々領土争いを展開していた。
この時代、畿内は豊臣秀吉の天下となり、能勢頼次は豊臣軍の九州征伐の先鋒として天正12年(1584年)6月に出発した後、塩川国満は積年の領土争いに決着をつけるべく、同年10月14日、枳根之宮合戦に発展する。
まず能勢頼次の主要の城である地黄城、田尻城をその日のうちに落城させたが、逆に11月5日に三草山清山砦を守っていた塩川国良は能勢軍の反撃にあって討ち死にした。主が留守の能勢軍も必死の抵抗をみせたが、大勢は能勢軍の敗北であった。知らせを聞いた頼次は12月10日に大坂城に帰着、秀吉に面会後、13日に地黄城に帰城した。
この報告を聞いた秀吉は、勝手に戦を仕掛けた国満に激怒し、池田輝政らに討滅を命じ15日に山下城を取り囲んだ。この時若干の戦闘はあったようだが、秀吉の許しが難しいとさとった国満は山下城を開城し、切腹して果てた。この時の首が山下城の大手門に葬られ、これによって山下城は廃城となった。
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登城途中にあるマムシ注意の看板
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愛宕神社
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愛宕神社からみた眺望
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土塁跡
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本丸跡
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城山の山麓にある下財町周辺には山下城の居館があり、下財屋敷は一辺が約160mであったとされている
元禄3年(1690)、川西の下財屋敷に幕府の代官役所が建てられ、猪名川町の銀山役所とともに幕府直領の村々に散在する間歩を統括し、諸間歩から採掘された鉱石の製錬は山下町・下財屋敷と銀山町との二ケ所だけで行われていました。

山下城跡へのアクセス
駐車場:なし

一庫城跡

所在地:兵庫県川西市一庫
別名:一蔵城
主な城主:塩川氏
築城年:不明
廃城年:不明
訪城日:2014年3月23日

一庫城の戦いについて
畿内で大騒乱となった享禄・天文の乱も、天文4年(1535年)に石山本願寺法主証如と細川晴元が和睦して終結、中嶋城で挙兵した一向一揆も木沢長政が天文5年(1536年)7月に奇襲し、制圧した。細川晴国も同年7月に隠れ家が発見され殺され、これにより細川晴元政権も畿内で安定するかに思えた。ところが、同年の少し前、1月に三好長慶が上洛した時から争乱の兆しが見え始めてきた。
天文10年(1541年)8月に晴元は三好政長、三好長慶、波多野秀忠らに多田一庫城がいる塩川政年(細川両家記では塩川政年と記載されているが、塩川国満の父で、この時実質上の城主は国満であった可能性もある)の攻略を命じた。これは大物崩れで討死にした細川高国の妹が政年の妻で、高国の残党狩りをもくろんでいた三好軍は一庫城を包囲した。
これに反感を抱いたのは、政年の縁戚にあたる伊丹親興(伊丹城主)や三宅国村(三宅城主)で、一庫城攻撃の不当性を将軍に直訴し、木沢長政に救援を依頼、親興自身も急遽援軍に向かった。その後、伊丹城に木沢、伊丹、三宅軍が集結し、その動きを察知した三好軍は一庫城の攻囲を解き、同年9月29日に越水城に退却した。
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一庫城跡推定地
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一庫ダムからこの一庫城跡推定地が見えます。直登らしくかなりきつそうなので、画像でご勘弁下さい。

一庫城跡へのアクセス


         
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