垂井城跡

所在地:兵庫県小野市神明町(神明神社)
別名:宮脇構居、垂井構居
築城年:不明
築城主:不明
城主:垂井氏
廃城年:不明
訪城日:2014年8月31日

垂井城の築城時期等は定かではありませんが、、垂井荘を本拠としていた国人領主:垂井中務丞が城主だったとされています。また一方では、別所氏一族の蓬莱氏の城だったとも言われています。
三木城合戦時に城主であった垂井武蔵守雅治は、三木城に籠城し大いに活躍したとされています。




垂井城跡へのアクセス
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一柳家陣屋跡

所在地:兵庫県小野市西本町
別名:小野藩陣屋
築城年:承応2年(1653年)
築城主:一柳直次
城主:一柳氏
廃城年:1871年(明治4年)
遺構:案内板、陣屋跡碑
訪城日:2014年8月31日

一柳家の三代直盛の次男直家は、予州阿江と小野をあわせて二万八千石を領していた。しかし、直家には嗣子がないため、家名断絶の危機となったが、関ヶ原の合戦などの軍功に免じ直次を養嗣子として小野藩一万石に減封された。当初、敷地(現在の大部小学校付近)に陣屋を置いていたが、要害の地でないことから現在の小野小学校の地に陣屋を移している。当地は段丘先端に位置し、東側にある雁又池が堀の役目を果たしていた。陣屋内には、公廨庁、御西御殿、御手丸御殿、御隠殿、武器庫、その北方の現在の小野高校地には藩校帰正館、米蔵、演武場などを配し、その東には武家屋敷が続いていた。今そのほとんどが姿を消しているが、地形や町の地割りなどにその面影をとどめている。


陣屋跡配置図

説明板(ちょっと見難いです)

磐代神社(一柳家の氏神)

磐代神社由緒

社殿

小野藩陣屋史蹟碑


一柳家陣屋跡へのアクセス

一柳藩敷地旧陣屋跡

所在地:兵庫県小野市敷地町
築城年:寛永二十年(1643)
築城主:一柳直次
城主:一柳氏
遺構:案内板、陣屋跡碑
廃城年:承応二年(1653)に移設
訪城日:2014年8月13日



小野藩の藩祖とされる一柳直家は、伊予と加東郡で、二万八千六百石を領する大名でした。しかし直家には男がなく、家名断絶の危機に陥りましたが、一柳家の数々の功績により特に減封で許されました。寛永二十年(1643)養子の直次が、小野藩一万石を領することになりました。直次は直家の代に役所を置いていた当地に陣屋を構えることになりました。承応二年(1653)には現在の小野小学校の地に陣屋が移されたので、当地に陣屋が置かれていたのはわずか十年という短い期間でしたが、この時期に小野藩の基礎が築かれてます。
(現地説明板より)


一柳藩敷地旧陣屋跡へのアクセス

曾我井城跡

所在地:兵庫県小野市復井町
別名:曾我井構居
築城年:不明
築城主:不明
城主:蔭山氏
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年8月31日

室町幕府の御家人蔭山氏の居城と推定されています。その他は詳細不明です。



曾我井城跡へのアクセス
私有地のようだったので遠目からの撮影となりました。

鯰坂城跡

所在地:兵庫県小野市高田町
築城年:不明
築城主:不明
城主:鯰権之丞(1573年~1592年)
廃城年:不明
遺構:土塁
訪城日:2014年8月31日

城史については、詳細不明。天正年間城主だった鯰権之丞は三木別所氏の家臣だったと伝わっています。

有刺鉄線が張り巡らされているので奥には入れませんでした。
DSC03448.jpg


鯰坂城跡へのアクセス

河合城跡

所在地:兵庫県小野市新部町字構
別名:堀殿城、新部上月城
築城年:不明
築城主:不明
城主:上月氏
遺構:案内板、堀跡
廃城日:不明
訪城日:2014年8月31日

加古川右岸の平地部に築かれた平城で、昭和50年のほ場整備事業により、その景観はおしくも失われてしまった。幅約12m、高さ約3mの土塁と幅約9m、深さ約3mの堀に囲まれた主郭は「源氏屋敷」とよばれ、その東と西側には郭が認められた。城域は、東西約400m、南北約300mにも広がっており、東播磨でも屈指の規模を持った城といえる。当城は、その規模などから播磨の守護職であった赤松氏が東播磨を拠点として築いたと推測される。
古文献には、「堀殿城」とも記され、嘉吉の乱(1441)の時に、赤松満祐が殺害した将軍足利義教の首をもって立ち寄ったとされている。

河合城説明碑



河合城跡へのアクセス


金鑵城跡

所在地:兵庫県小野市昭和町
別名:金釣瓶城
築城年:正平11年(1356)
築城主:中村景長
城主:中村氏
廃城年:不明
訪城日:2014年8月31日

城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。
堅穴住居跡

遺跡説明板

木橋

金鑵城説明板
当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。ここからは、河合城、堀井城、小堀城など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。城主は、三木城の別所氏の持城となっています。
台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋が唯一の通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
城内からは、甕、壷、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘などの魚労具、刀、鞘、笄などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭など多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。

堀切

虎口

本郭

土塁

井戸跡

模擬櫓台

景観


金鑵城跡へのアクセス

河合館跡

所在地:兵庫県小野市粟生町字鍵町
築城年:不明
築城主:不明
城主:河合氏
遺構:薬医門
廃城年:不明
訪城日:2014年8月31日

河合館は、中世頃に加古川と大きな関わりを持っていた河合家の屋敷跡です。右岸に近接し、北・東に中世土豪館跡としての土塁が残っています。
河合家は江戸時代初めから、姫路藩郷土の資格を与えられ、のち大庄屋としても実権を握っていました。それに加えて、上曽我井村(復井町)から下来住村まで10ケ村の「舟捌御運上」(ふなさばきごうんじょう)の特権を有し、粟生船座を支配していました。いまでは当時の面影はありませんが、河合館の敷地内に残る堂々とした薬医門(やくいもん)跡が、その隆盛ぶりを示しています。


薬医門



河合館跡へのアクセス

島村城跡

所在地:兵庫県小野市粟生町小字嶋田
別名:粟生城
築城年:嘉吉年間(1441年~1444年)
築城主:粟生右馬頭高範
城主:粟生氏
廃城年不明
遺構:なし
訪城日:2014年8月31日

詳細は不明です。赤松氏の家臣だった粟生氏が築城したといわれています。正確な所在地についても定かではありません。推定地は、等覚寺の南付近が有力です。

等覚寺

本堂


島村城跡へのアクセス

阿形城跡

所在地:兵庫県小野市阿形町小字林山
別名:阿形北山城、東林山城、林山城
築城年:不明
築城主:不明
城主:油井氏
遺構:案内板
廃城年:天正9年(1581年)
訪城日:2014年8月31日

阿形城は、加古川と満願寺川とが合流点の西の丘陵にある。標高35m、東西30m、南北100mの自然を利用した城です。
現在は開墾されて遺構はありません。天正年間(1573年~1592年)の城主は、油井土佐守勝利で三木城主別所長治に従い三木城合戦に参加し戦死しました。天正9年(1581年)羽柴秀吉により没収され廃城となりました。

陣山登城口

案内板





阿形城跡へのアクセス
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。