取手山砦跡

所在地:三重県鳥羽市鳥羽1丁目4−65
別名:鳥羽砦・高城城
築城年:永正年間(1504~1521年)
築城主:橘忠宗・
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:橘忠宗(鳥羽主水)
遺構:堀切
指定文化財:なし
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:なし

概要
取手山砦は、永正年間(1504~1521年)に橘忠宗が館を構えていた本曲輪のあったところで、周囲には曲輪の名残がみられます。「志陽略志」によれば、鳥羽は保元・平治(1156-1158年)以来、橘氏が代々住みついた所で、永正年間に橘次郎宗忠に至って伊勢国司北畠に属し、志州二郡を領し世に鳥羽殿と言われた。宗忠は岩崎山に砦を築き、これを岩崎・大里・藤の郷の三郷の者に守らせ、出入りの船から関銭を徴収し。その砦跡を取手山と言ったとあります。
永禄12年(1568年)に九鬼嘉隆に攻められ降伏し橘成忠(宗忠の父)は娘を九鬼嘉隆の正室に差し出したので宗忠と嘉隆は義兄弟となる。


堀切










取手山城跡へのアクセス
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鳥羽城跡

所在地:三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1
別名:鳥羽の浮城・錦城・二色城
築城年:文禄3年(1594年)
築城主:九鬼嘉隆
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:九鬼家・内藤家・土井家・稲垣家など
遺構:石垣・説明板
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:三の丸広場に数台分・鳥羽幼稚園下に10台程度

概要
この地は、保元年間(1156~59年)から橘氏の所領となり居館があり鳥羽殿と呼ばれていました。永正年間(1504~1521年)橘次郎忠宗の時に伊勢国司北畠材親が鳥羽を攻略し宗忠は降伏し、志摩二郡を与えられ取手山砦に居城を移したという。
鳥羽城は文禄3年(1694年)九鬼嘉隆によって築かれた。九鬼嘉隆は、波切城九鬼定隆の次男として生まれ九鬼家を継ぐと志摩を手中に収めようとしたが志摩七党の反撃を受けて船で安濃津へ逃れたこともあったが、織田信長に誼を通じ信長の力を借りて
永禄11年(1568年)には、小浜城主小浜久太郎と共に嘉隆に対した橘宗忠は娘を人質にして降伏。元亀元年(1570年)には和具、答志、越賀などを支配下に入れます。
嘉隆はその後信長に従い転戦、信長が本能寺で横死すると秀吉に従い水軍の将として活躍します。慶長2年(1597年)嘉隆は家督を守隆に譲り隠居し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では、嘉隆は西軍の石田三成に味方し、守隆は東軍に属し父子敵味方に分かれた。守隆は徳川家康に父嘉隆の助命を嘆願して許されたが、嘉隆は自害して果てた。関ヶ原合戦の功によって加増を受けた守隆は五万五千石を所領となった。寛永9年(1623年)に守隆が死去すると、家督争いが起こり、藩内は久隆派と隆季派に二分された。幕府の命令によって守隆の遺言どおり弟の久隆が跡を継いだが、2万石を削られたうえ摂津三田に移封されることとなった。一方、兄の隆季には家光の命により丹波に新たに2万石が与えられ、丹波綾部藩となった。その後、鳥羽城は、内藤家3代、天領、土井家1代、大給(松平)家1代、板倉家1代、戸田(松平)1代と目まぐるしく城主が代わり、享保10年(1725年)以降に稲垣家8代で漸く定着した。安政元年(1854年)に地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま、明治4年(1871年)に度会県が置県され同年に払い下げられ破却された。


三の丸















本丸跡



景観





本丸石垣

石垣説明板

天守跡

天守跡説明板

景観

本丸御殿跡

井戸跡

家臣団屋敷跡




鳥羽城跡ヘノアクセス

国府城跡

所在地:三重県志摩市阿児町国府 
別名:なし
築城年:室町時代後期
築城主:三浦新介
廃城年:不明
主な城主:三浦氏
遺構:説明板
指定文化財:なし
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:なし

概要
城主は、三浦新介で鎌倉時代後期三浦一族が滅ぼされた頃、うつろ船に乗せられて国府海岸に流れ着き、土着して城主となったというが日本城郭大系10では、『時代的に誤差があり、あまりにも伝説的である。しかし室町時代後期に三浦氏がここに城を築き隣郷の三か所を有し北畠氏の家臣として志摩十三地頭の一人であったことは確かである。」としている。
三浦新介は永禄年間(1558年~1570年)九鬼嘉隆によって滅ぼされ、新助は九鬼氏の家臣になるのを嫌い飛騨国へ逃れたとも伝えられているがその後の消息は全く分からない。『日本城郭大系10参照』



この山上が国府城主三浦新介の城址である。三浦新介の父は鎌倉時代伊豆相模の国司従四位下義同で新介はその末子、故あって「うつろ船」に乗せられ、海に流され、国府岩本海岸に漂着わが祖先武右衛門国分寺住職に助けられ後伊勢国司北畠氏より国府城主を命ぜられた。今は三浦新介が崇拝していた稲荷大明神をお祀りしている。

三浦稲荷大明神由来記
ここにお祭りしている三浦稲荷大明神は、元伊豆相模の国司三浦家において代々お祭りしていたものを、永正十三年(1516)三浦新介が国府の地に来りしとき、家運の継栄と、住民の幸運祈念のため、持参奉祀したものであるといわれている。三浦新介は、伊勢国国司北畠氏より、国府城主を命ぜられ、この丘に築城、周辺七か村を治めていたが、永禄十三年(1570)九鬼喜隆志摩国を制覇するに及び廃城となった。その後この大明神は当時の家老井村武右衛門を始め、井村家代々に引き継がれ丁重にお祭りされて来たもので特に創祀六百年祭には、井村武四吉が本堂の改新築を行い現在に至っている。誠に御利益高評の大明神として参詣者があとを絶たない。

三浦稲荷大明神







主郭

景観


国府城跡へのアクセス
近くには国府城主の墓があります。

波切城

所在地:三重県志摩市大王町波切
別名:波切砦・波切九鬼城
築城年:貞治年間(1362年 - 1366年)
築城主:川面氏
廃城年:不明
主な城主:川面氏・九鬼氏
遺構:石垣・石碑
指定文化財:なし
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:各有料駐車場

南北朝時代末期、熊野から来た川面氏が居住し、大王崎に城を構えた。波切城は、海岸段丘を天然の要害とし創築された丘城で砦と呼ぶ方が相応しい規模であるとし、「波切砦」と呼ばれることがある。なお、1994年(平成6年)発行の『大王町史』ではこの城とは別に、同町内に砦があったとしている。
勢力拡大を狙い、紀伊国九鬼(現在の三重県尾鷲市九鬼町)より東進を開始した九鬼隆良に貞治年間(1362-1368年)に制圧された。6代目嘉隆が志摩国全域を支配し、1594年(文禄3年)に鳥羽城を築城するまで九鬼氏の根拠地であった。
城跡は公園として整備されているが、当時のものとされるわずかな石垣に面影を残すのみである。 『日本城郭大系10参照』





波切九鬼城跡石碑

公園になっています。

景観


波切城跡へのアクセス

五ケ所城跡

所在地:三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦
別名:五箇所城・愛洲城
築城年:康永年間(1342〜1345年)
築城主:愛洲氏
廃城年:天正4年(1576年)
主な城主:愛洲氏
遺構:曲輪・土塁・空堀・案内板・石碑
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:愛洲の館無料駐車場

概要
五ヶ所城は、康永年間(1342〜1345年)頃に愛洲氏が築城したと伝わっています。城主の愛洲氏については、諸説ありはっきりしませんが西方には一之瀬城にも居城を持っていたようである。康永元年北畠勢の田丸城が攻め落とされた。この攻防にも愛洲弾正忠宗が加わっていたことが知られます。康永2年(1343年)には五ヶ所城も仁木義長に攻められたようである。宝徳年間(1339~52年)頃には本拠を一之瀬から五ヶ所に移したようである。大永7年(1527年)愛洲弾正親忠は家督を国忠に譲って玉丸城へ移り、進駐した。その後愛洲氏は元亀年間(1570~73年)以降、天正4年(1576年)頃までに田丸城に入った織田信雄らによって攻められ愛洲治部大夫重明は自刃し愛洲氏は滅亡したという。五ヶ所城も共に廃城になったと思われます。同じ丘陵の南方150m程の所には、居館跡とされる地があります。『日本城郭大系10参照』


愛洲の館 

階段を登った先にこの看板があります。先ずは城跡へ向かいます。

空堀



主郭にある五ヶ所城と愛洲氏説明板

説明板と城跡石碑

主郭

土塁





主郭に建つ愛洲公顕彰碑と剣祖愛洲移香斎生誕之里



空堀

塔頭

案内板

居館跡

居館跡

居館跡



五ヶ所城跡へのアクセス

青木山城跡

所在地:三重県度会郡度会町脇出
別名:一之瀬城(西の城)
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:向井氏?
遺構:曲輪・堀切・石垣
指定文化財:なし
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:なし

概要
青木山城は、標高122mで頂部には15m四方の一段と高い削平地を中心に西に四条の堀切と80m西に離れて2条の堀切東側狭い削平地が階段状に数か所連なります。東側の麓には石垣を伴った屋敷跡があり、『勢陽五鈴遺響』の脇出の項に「脇出殿屋敷に北畠の麾下、向井将監が住んでいたが国司滅亡後、向井将監は織田信雄の命により三瀬左京進等を討ち同時に滅亡した」とあります。

登城口

屋敷跡石垣



向井将監屋敷跡

空堀

空堀







土塁と空堀



主郭

空堀Ⅰと郭

空堀Ⅰ





空堀Ⅱ

空堀Ⅲ

空堀Ⅳ

空堀Ⅴ

空堀Ⅵ

寿宝院跡


青木山城跡へのアクセス

一之瀬城跡(東の城跡)

所在地:三重県度会郡度会町脇出(一之瀬神社)
別名:一之瀬御所
築城年:延元年間(1336~1340年)
築城主:愛洲氏
廃城年:
主な城主:愛洲氏
遺構:郭・土塁・堀切・竪堀・説明板
指定文化財:なし
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:無料駐車場あり

概要
この城については資料が少なく諸説も多いが延元元年~2年(1336~1337年)後醍醐天皇の子宗良親王が愛洲氏に庇護されたといわれています。この愛洲氏は宝徳年間(1449-~1452年)の頃には五ケ所城に本拠を移していたようである。
天正3年(1575年)には織田信雄が田丸城に入るに伴い、田丸中務少輔直昌は岩出城に移されその父田丸具忠が一之瀬城に移されてくるが、その頃には一之瀬城は廃城とされたようである。
城は、北側と西側に空堀を巡らした主郭を中心に北側には二条の堀切がある。一之瀬神社によりかなり改変されているが二条の堀切が見られ南側に見張り台になっている。


一之瀬神社



見張り台にある宗良親王御遺蹟碑

見張り台からの景観



横堀

横堀

空堀

土塁

空堀

竪堀

竪堀

二の郭

主郭

主郭



竪堀


一之瀬城跡へのアクセス

田丸城跡

所在地:三重県度会郡玉城町田丸字城郭
別名:玉丸城
築城年:建武三年(延元元年 1336年)
築城主:北畠親房・北畠顕信
廃城年:明治初期
主な城主:北畠氏・愛洲氏・田丸氏・織田信雄ほか
遺構:石垣・富士見門・曲輪・説明板・石碑ほか
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:駐車場あり
続日本100名城

概要
南北朝時代の延元元年(1336年)、後醍醐天皇を迎えようと伊勢に下った北畠親房、顕信父子は、玉丸山に城を築いて南朝軍の拠点にしたという。
延元2年(1337年)足利氏の将畠山高国が田丸城を攻めたが防戦してこれを破った。1342年(康永元年)、仁木義長・高師秋によって責められ落城する。その後は北畠氏の所有となり応永年間(1394~1428年)には愛洲伊予守忠行が城主となります。忠行は北畠政郷の子顕晴を養子にし、玉丸氏を名乗った。
永正17年(1520年)顕晴の子国実通は家督を継いだが、家臣の叛乱に遭い自害します。国通の跡を国忠が継ぎ元亀2年(1571年)には玉丸直昌が城主となります。直昌は織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の養嗣子となった織田信雄に田丸城を明け渡し、信雄に仕えた。田丸城は信雄の居城として1575年(天正3年)に改築され、
天正4年(1576年)信長の意向を受けた信雄の命により田丸直昌は北畠一門の主だった者を田丸城に招き寄せ、殺害している(三瀬の変)。
1580年に火災で天守を焼失。織田信雄は松ヶ島城へと移った。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉は松ヶ島城主を蒲生氏郷に与え妹婿となっていた田丸直昌は氏郷の与力として再び田丸氏に入ります。
江戸時代初頭には稲葉道通が入り田丸藩となる。稲葉氏転封ののち藤堂氏の支配地になるが、1619年(元和5年)、徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。
遠江久野城城主であった付家老久野宗成は駿府藩主であった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま付随となり、紀州へ移ってきた。頼宣はこの宗成に1万石を与え、田丸城城主として田丸領6万石を領させた。久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後八代続き、明治維新に至る。『日本城郭大系10参照』




大手門跡





紀州藩同心屋敷跡







二の門跡



三の丸跡

蓮池跡

富士見門

富士見門説明板


IMG_3511.jpg




土塁

土塁






IMG_3518.jpg






北の丸跡

北の丸跡にある城山稲荷社

北の丸跡

北の丸跡

石垣

本丸虎口と門跡

本丸跡

本丸跡

天守跡石垣

天守跡石垣

天守跡

天守跡からの景観



櫓跡

二の丸跡



富士見台跡




田丸城跡へのアクセス

長原城跡

所在地:三重県度会郡度会町長原(長原神社)
別名:北山城
築城年:室町時代
築城主:大崎玄蕃頭
廃城年:不明
主な城主:大崎玄蕃頭
遺構:堀切・竪堀・曲輪・説明板・石碑
指定文化財:なし
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:神社駐車場

概要
今より450年余前、後奈良朝・室町将軍は足利義晴から義輝のころ、世は国盗りの動乱止まらず、この地も南勢五郡に組みする北畠氏(国司)の配下にあり田丸(玉丸)城を始め、郷も人もたたかいの不安に明け暮れていた。このころ、豪士大崎玄蕃はここ北山の浅間山上に守閣(砦館)を構え、20年余(年数不詳)居城し、弘治2年(1556年)2月に没している。
玄蕃はこの長原(当時は永原)をこよなく愛し、慈政の中にも諸制は厳しく、旧弊をあらため、更に長原池造成の大事業をなしとげて治水の万全をはかり、生業発展と民生安定に大いなる治績を収めた。この郷に、当時呼ばれていた場所名、殿倉屋敷、本陣、垣内(北野口)、殿屋敷、籠建場、旦城等々の多くが今も語り伝えられている。
なお、玄蕃は城の麓に慈光山長命寺を草創して菩提寺となし、自ら大旦那として住民とのふれあいを深めた。位牌「従前槙起大居士」の裏書きに、弘治元年の詠と思われる歌「わが領地 見わたす四方の 山々は 高き低きも長原の里」とあり、愛領の心が偲ばれる。この城の石垣は天保6年(1835年)ごろ、大洪水による池決壊の大修理に使われ現存しない。敗合山には多くの岩石が積まれていたという。  昭和54年(1979年)城址に顕彰碑を建之  長原老人クラブ 『現地案内板より』


長原神社

長原神社本殿



主郭

土塁








長原城跡へのアクセス

五箇篠山城跡

所在地:三重県多気郡多気町朝柄字城山
別名:五ヶ城
築城年:鎌倉時代中期
築城主:野呂氏
廃城年:1583年(天正11年)頃
主な城主:野呂氏・安保氏・北畠具親
遺構:曲輪・土塁・竪堀・堀切・案内板
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:駐車場あり

五箇篠山城(ごかささやまじょう)跡は、旧多気郡勢和村朝柄の標高140mの山頂に位置している。『三国地誌』によれば北畠氏の被官野呂越前守・野呂伊予守の居城したところとし、野呂氏が戦死した後は安保式部少輔・安保大蔵大夫が居城したとある。『勢陽雑記』によれば、1576(天正4年)年織田信長の策略により北畠具教をはじめ北畠一族衆の多くが誅殺され滅亡したが、僧籍に身を置いていた具教の弟具親が還俗し、川俣森城に拠り北畠再興は図るが果たさず、天正10年(1582年)信長が本能寺の変で倒れたのを機に軍勢を集め近辺に放火して五箇篠山城に籠城したが、織田信雄軍に2日間ほどで落城し北畠具親は伊賀に敗走したことを伝えています。
城は、東西を堀切により分断し4か所の方形台状地を築き、西端の主郭にはコの字に土塁を配している。

五箇篠山城登城口

五箇篠山城説明板





主郭 奥に土塁

主郭からの景観

曲輪

堀切

堀切

曲輪

曲輪



主郭


五箇篠山城へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
なんとなく城跡巡りへようこそ!

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。