高倉山城跡

所在地:兵庫県佐用郡上月町櫛田
別名:
築城年:建久年間(1190~99年)
築城主:宇野播磨守則景
廃城年:1567年(永禄10年)
主な城主:宇野則景他一族・赤松氏
遺構:本丸・郭跡・空堀
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月17日(土)晴
駐車場:高倉山無料駐車場

概要
高倉山城は、建久年間(1190~99年)が初めてこの山に城を築きました。そして、則景が佐用町横坂の高山城に移ったのちは弟の宇野新太夫則連をはじめ、代々宇野一族が在城していたが嘉吉の乱(1441年)に際し、美作方面から進攻してきた山名教清のため、落城し廃城となりました。しかし、その後赤松氏の復興と共にこの城へ赤松氏一族が入城していたらしく天正5年(1577年)羽柴秀吉が佐用郡へ攻め入ったとき赤松則尚の娘婿福原主膳助就が守っていたが、激戦のすえ敗れ助就は討死し、羽柴勢の手に渡った。以降この城は上月城攻略の拠点として羽柴秀長、荒木村重が守っていた。上月城落城後は山中鹿之助に委せて姫路に引き上げたが翌天正6年(1578年)再びここに城を築いて入城。これは、毛利軍に囲まれた上月城を援助する為だったが。結局尼子勢の守る上月城を見捨てて姫路に引き上げてしまいました。


駐車場

説明板

登城口

山頂直下の分岐店 左が古城跡 左は山城跡山頂 

先ずは古城跡に向かいます。

主郭

主郭からの景色

堀切







景色

主郭

高倉山城跡に向かいます



主郭

主郭

主郭






高倉山城跡へのアクセス
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米田城跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町米田
別名:熊見城
築城年:文治年間(1185~90年)
築城主:山田伊豆守則景
廃城年:1567年(永禄10年)
主な城主:山田氏ー宇野氏ー赤松氏ー得平氏
遺構:曲輪、土塁
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月10日(土)晴
駐車場:頂上付近

この城は、山田伊豆守則景が築城したと言われていますが、『佐用郡誌』には、山田伊豆守則景の弟宇野新太夫将則(または為助)が、『赤松家播備作城記』には佐用三郎左衛門範家が初めて築き、建武年間(1334-38年)この城に居たとある。一方得平謙三氏は『熊見城址』で、山田伊豆守則景が初めて築城したが、高倉山城を築いて移った為宇野為助がこれを完成させたと述べています。いずれにせよこの城は、宇野一族によって引き継がれたようです。嘉吉の乱の時山名教清によって落城し、その後赤松氏再興によって赤松一族の居城になったが文明6年((1474年)山名政豊に攻略されその後、得平源三が居城したが、赤松義村と争って落城した。また、天文7年(1538年)能登守祐清が城主の時、尼子晴久に敗れて尼子氏に従属した。永禄10年(1567年)尼子氏の上月城が毛利氏に攻められ落城したため祐清は米田城を放棄して宍粟市の篠の丸城へ逃げ廃城になった。


郭跡にある施設

土塁







削平地


米田城へのアクセス

櫛田城跡

所在地:兵庫県佐用郡上月町櫛田
別名:宮山城
築城年:建長年間(1249~55年)
築城主:櫛田八郎有景
廃城年:不明
主な城主:櫛田氏
遺構:本丸、曲輪、空堀
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月10日(土)晴
駐車場:櫛田公民館

櫛田城は、標高130mにあり三町の一部を整地して八幡神社が建立されています。この八幡神社にちなんで「宮山城」の別名が生まれました。城は、建長年間(1249~55年)、永田山城主得平三郎頼景の次男有景(一説には頼景の子源太兼則の三男有景とある。)により築かれ、地名の櫛田をとって、櫛田八郎有景と名乗りました。以降相続されましたが、7代目の有兼の時、嘉吉の乱に遭い、山名氏に滅ぼされました。寛正6年(1465年)再び櫛田氏の子孫がこの城に入りましたが、天正5年(1577年)城主は、櫛田佐馬助頼久(景則)であったが、羽柴秀吉軍が柏原城(徳久城)攻撃の際、救援に向かう途中戦死しています。
『日本城郭大系12より抜粋』

ここから登城します



登城口にある鉄格子





郭跡にある八幡神社

こちら側から本丸跡に向かいます

二の丸

堀切

土塁

本丸跡

本丸跡

堀切


櫛田城跡へのアクセス
左側の坂を登ります

平福御殿屋敷跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町平福
別名:
築城年:1349年(貞和5年、正平4年)
築城主:別所敦範
廃城年:1631年(寛永8年)
主な城主:別所氏、宇喜多氏、池田氏
遺構:石垣、曲輪、空堀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし

概要
平福御殿屋敷跡は慶長5~10年(1600~1605)にかけて築城された利神城の山麓居館であると考えら れる。利神城は播磨国主となった池田輝政の支城として、甥の池田由之が築いた。麓の御殿屋敷は南北 を石垣で区切り、西側は佐用川の河川を堀に見立て、護岸に石垣を築いて防御したといわれる。利神城 は寛永8年(1631年)頃に廃城になったといわれ、御殿屋敷はその直後から畠などの開墾が始まったとみられる。










平福御殿跡へのアクセス

利神城跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町平福
別名:雲突城、平福城
築城年:1349年(貞和5年、正平4年)
築城主:別所敦範
廃城年:1631年(寛永8年)
主な城主:別所氏、宇喜多氏、池田氏
遺構:石垣、曲輪、空堀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:佐用駅を利用

概要
南北朝時代の1349年(貞和5年、正平4年)に赤松氏一族の別所敦範によって築城された。赤松氏の居城であった白旗城の北の守りとしての役割を成していた。1441年(嘉吉元年)に起こった嘉吉の乱によって赤松氏と共に別所氏も一旦は滅亡した。その後、1466年(文正元年)別所氏後裔の別所治定が城を奪回した。
戦国時代に入り織田信長家臣の羽柴秀吉が中国攻めに進攻すると時の城主別所定道は羽柴氏に恭順の意を示した。病弱な兄に代わり城主となった林治は本家筋にあたる三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻すとこれに従った。このため、 1578年(天正6年)織田方に属していた上月城主尼子勝久と家臣の山中幸盛に攻められ落城した。同年、上月城が毛利氏に攻められ落城すると、利神城は毛利方に属していた宇喜多直家の所有となった。宇喜多氏はその後、羽柴氏に従ったため1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いまで宇喜多氏の所有であった。宇喜多氏は西軍主力であったため改易となった。
関ヶ原の戦いの後、播磨には池田輝政が入封し、1601年(慶長6年)輝政は甥の由之に平福領2万2千石を分与した。この地に入封した由之は5年の歳月を要して城を大改修した。三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築き回廊で結んだ。また、山麓に城主屋敷、武家町、街道沿いに町人地を設け城下町を整備した。城を見た輝政はその豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じたとされる。由之は1609年(慶長14年)に備前国下津井城の城番として転出し、この時点で三重天守など主要建造物は取り壊されていた。1615年(元和元年)輝政の6男輝興が2万5石を与えられ平福藩が立藩し城主となった。
1631年(寛永8年)輝興は兄の政綱が継嗣無くして死去したことにより赤穂藩を嗣いだため、平福藩は廃藩となり利神城も廃城となった。以後、この地には旗本松平氏の所領となり宿場町の一角に代官の陣屋が構えられた。
2015年(平成27年)度から石垣の修復や城址の整備などに取り掛かる。 『日本城郭大系12他参照』


駅の道平福から撮影
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詳細は不詳ですが山門(棟門:切妻・本瓦葺)は利神城(別所氏築城、寛永8年に平福藩が廃藩になった事で廃城)の城門を移築したものと伝えられています。




利神城跡へのアクセス
現在、登山道が荒廃しているため残念ながら登ることはできません。詳しくは佐用町HPをご覧ください

平福陣屋跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町平福981-4
別名:なし
築城年:寛永17年(1640)
築城主:松平康朗
廃城年:不明
主な城主:松平康朗など
遺構:長屋門、説明版
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:道の駅を利用

概要
寛永17年(1640)、利神城廃城後の平福は、 松平氏5千石の旗本領として代官支配となった。
天保6年(1835)に起こった出石藩の仙石騒動に連座して、 翌年幕府領になるが、文久3年(1863)、旧領のうち2千500石が松平氏に復し、明治維新まで続いた。 『現地説明板より』


今の陣屋門は、元治元年(1864年)に代官・佐々木平八郎が建築

陣屋説明版








平福陣屋跡へのアクセス
国道373号線の「道の駅平福」の南隣が陣屋跡です。

別所構居跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町口長谷
別名:なし
築城年:天正8年(1580年)
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:
遺構:不明
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし

概要
別所構居の詳細は不明です。天正8年(1580年)に居館が構えられ江戸時代以降も居館として利用されていました。平成四年度の発掘調査によれば、15世紀から16世紀後半に存続していたと推定されている。





土塁


別所居館跡へのアクセス

長谷高山城

所在地:兵庫県佐用郡佐用町横坂
別名:鴻の山城,尼ヶ城
築城年:建久8年(1197年)
築城主:山田則景
廃城年:不明
主な城主:山田則景、山田将則、山田光広、尼子 勝久
遺構:曲輪、土塁、石垣、空堀
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:防獣柵を開けた所にあります

概要
建久8年(1197年)山田則景によって築かれたと云われる。その子家範は、赤松村に移り住み赤松姓を名乗ったが家範から四代目が赤松則村(円心)である。高山城は、則景~将則~光広と続き、三代にして絶えた。天正5年(1577年)に尼子勝久がこの長谷高山城に籠もったことから、「尼ヶ城」の別称が付いた。



登城道(左側の送りを目印に登ってください)

鐘搗堂跡手前

堀切

鐘搗堂跡

鐘搗堂説明版

景観

堀切









主郭

主郭にある説明版

主郭から利神城を望む


注:石積等があるようですが残念ながら探しきれませでした。

長谷高山城跡へのアクセス
中国自動車道手前の国道373号線から県道547号線に入り約100m進むと左手に高速道を横切る道があり、坊獣柵がります。その奥に車を止めれます。

三日月陣屋跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町乃井野966番地
別名:乃井野陣屋
築城年:1697年(元禄10年)
築城主:森長俊
廃城年:1871年
主な城主:森家
遺構:郭跡、石垣、水堀、移築物見櫓、復元長屋・門
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし

概要
1697年(元禄10年)に美作津山藩森家は無嗣断絶となった。ただし、幕府は長継に新たに備中西江原藩2万石を与えることで、森氏の存続を許した(のちに播磨国赤穂藩)。その分家であった美作津山新田藩主森長俊は、播磨国佐用郡、揖西郡、宍粟郡65ヶ村1万5千石に領地替えされた。
翌1698年(元禄11年)に長俊は領地入りし、藩庁の陣屋と家臣屋敷の建設に着手した。その候補地が乃井野村であり、三日月陣屋である。1700年(元禄13年)にはほぼ完成した。以後森家は9代続き、俊滋の時明治維新を迎えている。戊辰戦争では官軍に付いて参戦している。
1871年(明治4年)の廃藩置県により、藩庁としての役目を終え解体された。その中で物見櫓と長屋は小学校に移築され、公民館として使用されていた。西法寺山門に陣屋正門として移築されている。
2003年(平成15年)、原位置に戻されて整備されている。









物見櫓内部

物見櫓からの風景



陣屋屋敷の跡

水堀

登城記念パネル

中御門

水堀

列祖神社

説明版

列祖神社内にある庭園跡

力石

日岡八幡神社

三方里山演武場

三方里山演武場の石垣

三方里山演武場からの景観


三日月陣屋跡へのアクセス

佐用城跡

所在地:兵庫県佐用郡佐用町字福原
別名:福原城
築城年:建武年間(1334年 - 1338年)
築城主:佐用範家
廃城年:天正5年(1577年)
主な城主:佐用範家、福原則尚
遺構:曲輪、石垣、土塁、空堀、説明版
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし

元弘3年(1331年)に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年~1338年)に築城した。その後、赤松氏36人衆のうちの福原隼人がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる。
戦国時代末期、東西勢力が拮抗する中で、東の利神城、西の上月城、南の高倉城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉が黒田孝高、竹中重治らの諸将に攻めさせ、城主の福原則尚は城に自ら火を放ち菩提寺の円福寺にて自刃して城は落城した。



空堀

主郭



佐用城説明版

福原霊社

土塁










佐用城跡へのアクセス
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播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。