駒山城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町井上
築城年:南北朝時代
築城主:赤松則祐
城主:赤松氏・安室氏
廃城年:不明
遺構:本丸跡・二の丸跡・井戸跡・堀・案内板
訪城日:2014年11月3日

駒山城は、赤穂郡上郡町の中心地の生駒山(263m)の山頂にあります。城主や築城年代の根本的資料がなく不明ですが、『播磨古城記』には、「赤松律師則祐妙善が居城」とあり『赤松家赤松家播備作城記』には「駒山小聖寺山城は井上村にあって、安室五郎義長が天文年間(1532~1555)に築城した。義長の子安室新五郎が城を継いだが、幼少であったため、家臣の長船越中守が代官としてこの城を守った。天正5年(1577年)小田氏・吉田氏・内海氏・片島氏の4人の侍がが駒山城を攻めたが落城しなったため軍学に長じた高見治部を頼み山伝いに城に入り白昼火を放って落城させたと云う。長船越中守は、その後、羽柴秀吉に属した。」
『日本城郭大系12より』

駒山城登山口

駒山城案内板

登山道案内板

馬の蹄跡

荷置石?


頂上の案内図


本丸跡

綺麗に色づいています。


石垣

二の丸跡


二の丸跡の景観

空堀跡

井戸跡


駒山城跡へのアクセス
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別名城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町別名
別名:井の山城・城山
築城年:天正年間(1573~92)か?
築城主:不明
城主:花房氏?
廃城年:不明
遺構:石垣・郭
訪城日:2014年11月3日

別名城について城主や築城年代及び変遷は明らかでないが、『播磨鑑』には「佐用軍記に天正年中、秀吉の中国攻めに際し、ここに陣を取り上月城をうかがう」とあり、また、伝承では宇喜多の家臣花房助兵衛直次の居館とも、あるいは「別名河内守居城(天正年間)」とも伝えられている。『日本城郭大系12より』

登城口

麓にある別名遺跡案内板

東郭かな?


主郭

主郭からの景観(あまりよくはないです。)


登山道らしき道はなさそうなので適当に頂上を目指します。石垣があるようですが見つけることが出来ませんでした。

別名城跡へのアクセス

上の山城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町栗原
別名:上月城
築城年:戦国時代
築城主:富田采女
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年11月3日

上の山城は標高120mの山頂にあった砦である。築城時期などについては、『播磨鑑』に「城主は富田采女也」と書きとどめられているにすぎず、詳細は不明です。富田采女は永禄6年(1563)に落城した尼子城(赤穂市)に入城したと『播磨鑑』に伝えられており赤松氏の一族といわれています。

登城口を探しましたが、分からなかったので遠望になります。


上の山城跡へのアクセス

船岩城跡

兵庫県赤穂郡上郡町旭日乙
築城年:天正年間(1573~92)
築城主:毛利氏・宇喜多氏か?
城主:毛利氏・宇喜多氏
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2014年11月3日

船岩(ふなゆわ)城は上郡町旭日乙の山頂、船岩山にある。城跡には船形の大岩があり、『赤穂郡誌』には「天正年間、羽柴、毛利両氏、上月ニ対陣中、毛利・浮田(宇喜多)ニ氏の陣所ナリト云フ」とある。つまり羽柴秀吉が上月城で毛利氏と対峙した時、毛利氏は宇喜多氏と共にこの山頂に陣取りここから山路を通り佐用郡秋里に入り、大激戦し秀吉軍を破ったという。
『日本城郭大系12より』

こちらより登城します。

頂上付近にある祠

祠付近には大きな岩が多数あります。

主郭と思われる頂上



船岩城跡へのアクセス

高田城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町奥甲
別名:抜石山城・西条山城・西城山城
築城年:鎌倉時代
築城主:高田兵庫助・海老名氏・赤松氏
廃城年:不明
遺構:郭・土塁など
訪城日:2014年11月3日

城主について、『太平記』によると、鎌倉時代末の元弘3年(1333)、幕府打倒を目指し挙兵した赤松円心の軍勢によって高田兵庫助の城が攻め落とされ、軍勢はそのまま山陽道を攻め上ったとあります。『赤穂郡誌』『播磨鑑』なども同じような記述があります。
また。この山城は赤松政則が備前侵入の際、本城としたことも史料にみえ、室町時代を通じて赤松氏の重要な役割を担ったとかんがえられる山城です。

城主の居館跡とされる麓の八幡神社の参道

八幡神社社殿


登城口

すぐに防獣柵があります。

頂上手前は傾斜がきつく登りにくいです

頂上付近

郭Ⅰ跡



郭Ⅱ


高田城跡へのアクセス

大聖寺山城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町船坂
別名:安室城
築城年:室町時代
築城主:安室五郎義長
城主:安室氏・赤松・三浦氏
廃城年:不明
遺構:堀切・郭・土塁など
訪城日:2014年10月29日

大聖寺山城跡は、町西部・船坂地区北方の山上にあって、山野里・落地などの旧街道筋を一望できます。北側に深い堀切、南側に「畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)」と呼ばれる多くの竪堀と虎口を組み合せた強固な防衛ラインを形成しています。
城の経歴は明らかでないが、『播磨鑑』には、「城主は、安室五郎義長居住ス、義長ハ赤松筑前守入道也貞ノ孫伊豆守満貞ノ子赤穂郡ノ内十三ヶ所、備前和気郡ノ内合テ領ス 三石・安室両所ノ城主ナリ。永享辛亥年五月二十日安室城ニ於いて卒ス」とある。
『赤松家播備作城記』には、「応永年中(1394~1428)赤松出羽守満貞これを築き居城となす」とある。一方、『赤穂郡誌』には「三浦駒王丸、従義武 名村美宗迄三代相続」とあって、三浦駒王丸の築城としている。
『日本城郭大系12より』

麓にある西方寺石造宝塔

案内板

しばらく登って行くと小屋があり、その横を登って行きます。

シダが多い茂っていて進むのが困難です。

ここで断念しました。すみません。

景観


大聖寺山城跡へのアクセス

苔縄城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町苔縄
築城年:南北朝時代初期
築城主:赤松則村
城主:赤松氏
廃城年:不明
遺構:郭
訪城日:2014年10月29日

苔縄集落の西にそびえる標高400mの高峰の頂上にある小さな平坦地が苔縄城である。三方が山続きで、東側山麓に千種川が流れ、かつて旧因幡街道が通っていた。
平地からの比高も大きく、山頂が近づくにつれて岩場もあり、要害の地としての条件を備えている。
城主は「太平記」に「赤松円心則村」とある。円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まる」ように伝えたといわれる。その時の赤松城とは、この苔縄城である。
しかし、「播磨鑑」には「赤松円心の三男則祐は元徳3年(元弘元年、1331)に大塔宮の令旨を受けて、ここに城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏であった」と記されている。
また別説として「城主ハ伊豆守祖妙善入道トモ」、あるいは「一説、則祐感状山ニ居住ノ後、又、此城ヲ築キ居ス」、さらに「子息義房其譲ヲ受ケテ居住ス」など、さまざまに記されているが、「太平記」が記すように、初代城主は赤松円心(則村)とするのが正しいようである。
山麓にある赤松則村が建立した赤松氏の氏寺「法雲禅寺」が、この山城の「館跡」であり、則村の「赤松城」は、その館、つまり法雲禅寺跡と推定される。
『日本城郭大系12より』

登城口がある小学校裏手

登城口

防獣柵を開けて中に入り展望デッキの方へ向かいます。

すぐに東屋があります。

5分ほど登ると尾根筋と谷筋の分岐点があります。(距離は長いけど傾斜がゆるい尾根筋の方に行きます。)

傾いている鳥居(ここで谷筋と合流します。)

展望デッキから白旗城方面の景観

案内板

展望デッキから城跡までの間、かなりきつい登りとシダが生い茂っています。

主郭にある愛宕社

主郭




苔縄城跡へのアクセス

白旗城跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町赤松
築城年:正慶2年(元弘3年 1333年)
築城主:赤松則村
城主:赤松氏
廃城年:嘉吉元年(1441年)
遺構:案内板・城跡碑・本丸・二の丸・三の丸・堀切・土塁など
訪城日2014年10月29日

築城期には二つの説があり、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)が護良親王(大塔宮)の令旨を受け鎌倉幕府打倒の軍を挙げた時に築いたという説(1333年説)。もうひとつは、則村が幕府滅亡後に成立した建武政権から離反した足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いた説(1335年説)。赤松円心はこの城に籠もり、古典『太平記』に拠れば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約六万を五十日あまりの間足止めさせ、湊川の戦いでの足利軍勝利に貢献したという。他にも諸説があるが、有力なのは1335年説である。1361年には、赤松則祐が南朝方の襲撃で京都を逃れた春王(足利義満)らを避難させたという。嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は将軍義教を討つと白旗城で挙兵し幕軍に攻められて落城(嘉吉の乱)。
白旗城の曲輪と縄張は、本丸・二の丸・三の丸で形成されており、他にも馬場丸・侍屋敷等がある。三の丸の近くに、罪人を突き落とす「千人落とし」があり、本丸と三の丸の間に夏でも水が涸れることの無い「光火の井」があったが、今ではもう枯れて塞がれている。城へ上るには、赤松方面からは「ひばら谷(西)」「ふねが谷」を通り、鞍居方面からは「よね谷」「ひばら谷(東)」「くらの谷」「ぼう谷」「ひよごり」を通る。
『白旗城WIKIより』


白旗城案内板

登城口

五輪塔群

五輪塔群案内板

白旗八幡神社・栖雲寺跡

堀切

櫛橋丸跡

櫛橋丸跡からの景観

二の丸跡

馬場跡

本丸跡

白旗城平面図

白旗城跡碑

本丸跡からの景観

三の丸跡

土塁跡


白旗城跡へのアクセス

赤松居館跡

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町赤松
築城年:天永年間(1110~13)?
築城主:丹波前司季房?
城主:赤松氏
廃城年:不明
遺構:案内板・苔縄城址碑
訪城日:2014年10月29日




案内板

なぜか苔縄城址碑があります。


赤松居館址へのアクセス
         
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。