所在地:大阪府大東市北条~四條畷市南野
別名:飯盛城
築城年:建武年間(1334年 - 1338年)
築城主:佐々目憲法か木沢長政
主な城主:木沢長政、安見宗房、三好長慶、三好義継
廃城年:天正4年(1576年)
遺構:石垣・竪堀・畝状竪堀群・堀切・井戸跡
訪城日:2015年2月17日
所要時間:楠公寺より約15分 四條畷神社より約50分 野崎観音より約50分
駐車場:楠公寺
この城の始まりは、『河内志』によると佐々目憲法(僧正憲法)が南北朝時代に築いたとされているが、藤田精一の著書『楠氏研究』によると、これは河内国ではなく紀伊の飯盛山城であると指摘している。
正平3年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで、北朝方の高師直が6万の大将として四條に着陣。南朝方の恩地氏が飯盛山城に立て篭もったようである。
その後、木沢長政も太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶に討ち取られてしまう。長政亡き後、城主になったのが交野城の城主であった安見宗房である。安見宗房は畠山高政の家臣であったが、自ら河内の守護代を名乗り主君の高政を紀伊に追放してしまう。永禄2年(1559年)、長慶は高政を援けるべく兵をあげ、宗房は大和に敗走した。高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、再び飯盛山城に配置した。この処置に憤慨した長慶は高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、高政・宗房は共に堺へ敗走し、翌永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。
翌永禄4年(1561年)、畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、飯盛山城の支城となっていた三箇城を攻め落とし、翌永禄5年(1562年)の久米田の戦いで長慶の弟実休を討ち取り、同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始したが、背後から長慶の弟安宅冬康や松永久秀の援軍が襲いかかり、長慶も狭撃して畠山軍を撃退した(教興寺の戦い)。
長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義興が22歳で急死、ついで翌7年(1564年)、安宅冬康も流言によって自殺させると、長慶自身も病に取りつかれ同年7月24日、43歳で没した。御体塚曲輪跡には死後3カ年仮埋葬されていたと言われている。
その後三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって昭高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は殺害され(高屋城の戦い)、天正4年(1576年)に落城し廃城となった。
「飯盛山城Wikiより抜粋」
時間短縮の為、楠公寺より登城することにしました。こちらより楠公寺に向かいます。

楠公寺までの道のりは凸凹道です。途中道幅が狭いところもあります。気をつけて下さい。
楠公寺本殿

本丸展望台郭


本丸高櫓郭にある楠木正行像と飯盛城跡碑

飯盛城跡案内マップ


飯盛山城展望

四條畷神社

四條畷神社本殿

飯盛山登山道

二の丸史蹟碑郭

二の丸史蹟碑

二の丸御体塚

二の丸御体塚石垣


飯盛山城跡へのアクセス