三好陣屋跡

所在地:大阪府四條畷市雁屋南町5
別名:南野陣屋
築城年: 寛永年間(1624年~1644年)
築城主:三好備中守
主な城主:三好氏
廃城年:不明
遺構:なし
訪城日:2015年2月17日
所要時間:すぐ
駐車場:なし

三好陣屋は、寛永年間(1624年~1644年) に南野村領主旗本の三好備中守によって出張陣屋として築かれ、この地の豪族三牧八左衛門が代官となり知行しました。雁屋公民館付近が陣屋あとだと云われています。



近くにある楠木正行公御墓所碑

楠木正行公の墓所

案内板


三好陣屋跡へのアクセス
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三箇城跡

所在地:大阪府大東市三箇5丁目2-3
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:三箇伯耆守頼照
廃城年:不明
遺構:城跡碑、由緒
訪城日:2015年2月17日
所要時間:すぐ
駐車場:あり

三箇城は、中世に三箇氏が深野池の中にあった島に築いた城。戦国時代には三好氏の本城である飯盛山城の支城であった。位置は特定されておらず、上述の通り三箇菅原神社はその候補地の一つである。

菅原神社(三箇)
祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九日・二十日。社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんも、お稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。住道地区の氏神で、延宝七年(1679)「三箇村検地帳」には「氏神天満宮」と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸、桁行一間二尺の社殿をもち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭りには西の口、江の口南、江の口北、大箇(だいが)、下野、押廻からの地車(ダンジリ)計六台が引き出され社頭に並んだ。この宮入の順番は、十八日くじ引きで決められる。また当地は十六世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇(さんが)城のあったところとされている。  
城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説あって断定し難い。なお、水月院跡には「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」の辞世句を記す墓石も見いだされる。  平成5年12月  大東市教育委員会


菅原神社社殿

三箇城跡碑


三箇城跡へのアクセス

飯盛山城跡

所在地:大阪府大東市北条~四條畷市南野
別名:飯盛城
築城年:建武年間(1334年 - 1338年)
築城主:佐々目憲法か木沢長政
主な城主:木沢長政、安見宗房、三好長慶、三好義継
廃城年:天正4年(1576年)
遺構:石垣・竪堀・畝状竪堀群・堀切・井戸跡
訪城日:2015年2月17日
所要時間:楠公寺より約15分  四條畷神社より約50分 野崎観音より約50分
駐車場:楠公寺

この城の始まりは、『河内志』によると佐々目憲法(僧正憲法)が南北朝時代に築いたとされているが、藤田精一の著書『楠氏研究』によると、これは河内国ではなく紀伊の飯盛山城であると指摘している。
正平3年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで、北朝方の高師直が6万の大将として四條に着陣。南朝方の恩地氏が飯盛山城に立て篭もったようである。
その後、木沢長政も太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶に討ち取られてしまう。長政亡き後、城主になったのが交野城の城主であった安見宗房である。安見宗房は畠山高政の家臣であったが、自ら河内の守護代を名乗り主君の高政を紀伊に追放してしまう。永禄2年(1559年)、長慶は高政を援けるべく兵をあげ、宗房は大和に敗走した。高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、再び飯盛山城に配置した。この処置に憤慨した長慶は高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、高政・宗房は共に堺へ敗走し、翌永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。
翌永禄4年(1561年)、畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、飯盛山城の支城となっていた三箇城を攻め落とし、翌永禄5年(1562年)の久米田の戦いで長慶の弟実休を討ち取り、同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始したが、背後から長慶の弟安宅冬康や松永久秀の援軍が襲いかかり、長慶も狭撃して畠山軍を撃退した(教興寺の戦い)。
長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義興が22歳で急死、ついで翌7年(1564年)、安宅冬康も流言によって自殺させると、長慶自身も病に取りつかれ同年7月24日、43歳で没した。御体塚曲輪跡には死後3カ年仮埋葬されていたと言われている。

その後三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって昭高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は殺害され(高屋城の戦い)、天正4年(1576年)に落城し廃城となった。
「飯盛山城Wikiより抜粋」

時間短縮の為、楠公寺より登城することにしました。こちらより楠公寺に向かいます。

楠公寺までの道のりは凸凹道です。途中道幅が狭いところもあります。気をつけて下さい。
楠公寺本殿

本丸展望台郭


本丸高櫓郭にある楠木正行像と飯盛城跡碑

飯盛城跡案内マップ


飯盛山城展望

四條畷神社

四條畷神社本殿

飯盛山登山道

二の丸史蹟碑郭

二の丸史蹟碑

二の丸御体塚

二の丸御体塚石垣



飯盛山城跡へのアクセス

野崎城跡

所在地:大阪府大東市野崎
別名:なし
築城年:室町時代
築城主:畠山氏か?
主な城主:畠山尚順
廃城年:天正4年(1576年)か?
遺構:削平地、曲輪、案内板、城跡碑
訪城日:2015年1月29日
所要時間:野崎観音より約15分
駐車場:なし

河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城の支城として、守護代の遊佐氏が守っていたのではないかという説もある。
飯盛山城が築城後は、東高野街道から飯盛山城に向かう推定の大手通り上に野崎城があるため、むしろ飯盛山城の支城となったのではと考えられている。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576年)ではないかと推定されている。

麓の慈眼寺(野崎観音)本殿

野崎城跡の登城口

登城後すぐにある石造九重層塔

石造九重層塔案内板

野崎城跡主郭

野崎城案内板

展望


野崎城跡へのアクセス
飯盛山ハイキングコースを登ってください。

田原城跡

所在地:大阪府四條畷市上田原
別名:なし
築城年:永禄年間(1558年 - 1570年)
築城主:田原対馬守某
城主:田原氏
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2015年1月29日
所要時間:3分
駐車場:なし

田原城(たわらじょう)は河内国(現在の大阪府四條畷市上田原)の大和国との境界付近に建てられた戦国時代の日本の城(山城)である。
築城者は田原庄の荘官であった田原対馬守(名は不明・某と記される)で戦国時代には畿内の支配者となった三好長慶に属し、田原城も永禄三年(1560年)以降は長慶の居城とされた飯盛山城の支城として機能したといわれる。また、田原城より北に元の居館があったともいわれている。
田原対馬守は一説には松永久秀の被官であったという。三好氏の没落とともに田原城も廃城とされた。田原城については残されている史料は少ない。田原対馬守は代々付近に存在した千光寺を菩提寺としたと伝えられ、現在では近辺の月泉寺にその位牌が伝えられている。月泉寺の墓地には田原氏の墓碑とされる五輪塔も現存する。最後の城主はキリシタンとなり洗礼名はレイマンと言ったことが、フロイスの書簡(フロイス日本史)からわかる。また千光寺跡から出土した墓碑に洗礼名の礼幡(レイマン)と十字及びイエズス会を示す“Η”が刻まれており、天正九年(1581年)の日本最古のキリシタン墓碑であることを示す銘がある。(wikiより)

主曲輪にある住吉神社と城跡碑

田原城跡案内板




主曲輪からの景観


千光寺跡

説明板



田原城跡へのアクセス
結構迷いました。登城口わかりずらいですね。登城口座標は34.718255, 135.694973です。
ちなみに千光寺跡の座標は34.721743, 135.694307です。

岡山城跡

所在地:大阪府四條畷市岡山2-7-12(忍陵神社)
別名:なし
築城年:永禄3年(1560)頃
築城主:三好氏?
城主:三好氏・結城(高橋)ジョアン・徳川家康・徳川秀忠
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2015年1月29日
所要時間:1分
駐車場:あり

岡山城は、三好長慶が飯盛山城を居城とした永禄3年(1560年)頃に飯盛山の北東にある忍岡古墳の丘陵を利用して築かれた支城として伝えられている。永禄、天正年間には当時の城主である結城氏が熱心なキリシタンで、キリシタン信仰の拠点となる。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川方の本陣として同地が使われ、勝利した事から縁起の良い所として御勝山とも称されるようになるが、当時の遺構は殆ど破壊されており 今では名残を見る事は出来ない。


忍陵神社由来

社殿

忍陵神社境内


岡山城跡へのアクセス

茶臼山砦跡

所在地:大阪府四條畷市南野6丁目11-70(龍尾寺)
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:不明
訪城日:2015年1月29日
所要時間:2分
駐車場:なし

茶臼山砦については詳細不明です。飯盛山城の北端、滝谷口の入り口に位置し独立丘をなしている。飯盛山城の出城。


龍尾寺本殿

龍尾寺の伝説説明板


茶臼山砦跡へのアクセス
         
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播磨河内守

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。