長尾陣屋跡

所在地:大阪府枚方市長尾
別名:
築城年:元禄2年(1869年)
築城主:久貝因幡守正方
廃城年:不明
主な城主:久貝氏
遺構:移築門(圓通寺)
指定文化財:なし
訪城日:2018年6月16日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

慶長20年(1615年)、従来豊臣氏領であったこの地が旗本久貝因幡守正俊に与えられた。そのうえ、初代大坂東町奉行になり他に六か村を知行しました。正俊が奉行になったのち、孫の正方が知行地の陣屋を当時福岡村と呼ばれていた長尾の地に置くことにし寛永20年(1643年)より着工し正世の子正方の時完成した。陣屋の敷地は、東西109m、南北54mで北角の街道に面した長屋門から御殿、代官、足軽詰所、蔵などがあった。移築門が津田圓通寺にある。







長尾陣屋跡へのアクセス
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津田城跡

所在地::大阪府枚方市津田
別名:国見山城
築城年:延徳2年(1490年)
築城主:津田正信
廃城年:天正3年(1575年)
城主:津田氏
遺構:削平地、土塁
案内板:あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:20分

延徳2(1490)年、津田周防守正信は、周囲の地形を利用して津田城(国見山城)を築城しました。津田氏は、約100年にわたり、戦国の世にこの地で勢力をふるいました。2代備後守正忠は天文年間(1532~55)、蓮如の子、蓮淳が招堤にて敬応寺を創建したとき、娘を側室におくり本願寺勢力と通じました。3代周防守正明に至り津田氏の勢力は最も強大となり、飯盛山城に拠って畿内に号令した三好長慶と結び、交野、茨田両郡で一万石を領しました。天正3(1575)年4月、織田信長の河内平定のため、藤阪、津田などは洞ヶ峠から攻められ津田城(国見山城)も焼き払われました。このとき城主は4代目主水守正時でした。正時は天正10(1582)年、山崎合戦に明智光秀に味方するため招堤寺内衆とともに出陣しましたが、秀吉方に敗れ、津田、尊延寺などの領地は没収されました。津田城(国見山城)は、緊急時に使用する砦としての役割をはたしていました傾斜面を切り拓いて建物を建てた跡が数ヶ所あり、南方の狭い尾根からの攻撃に備えるため、東西に土塁が築かれています。昭和31(1956)年には数回の発掘調査が行われ、山頂東側において地表下30センチから焼土層が確認され、天正3(1575)年の織田信長による焼打ちによる火災の跡、当時の陶磁器の破片も出土しています。
国見山は標高およそ300m、南東は大和に続く山並みであり、その東に広がる南山城平野を貫いて木津川が北流するのが見られます。
山並みの向こうにも笠置の山に続く鷲峰山がみられます。木津川・宇治川・桂川の合流点をへだて、京都の市街が広がり、比良、比叡のひときわ高い山容を望むことがでます。岩清水鳩ヶ峰と天王山の狭間から淀川が南流して、摂津と河内を二分しています。下流の方向には六甲山や、大阪湾が白く光るのも見えます。
『津田氏と国見山城 現地案内板より』






山頂

山頂からの景観



休憩所


津田周防守正信墓碑






津田周防守正信墓碑へのアクセス
緯度経度 34°48'10.1"N 135°42'12.3"E

津田城跡へのアクセス

城坂砦跡

所在地::大阪府枚方市津田
別名:なし
築城年:延徳2年(1490年)
築城主:津田正信
廃城年:天正3年(1575年)
城主:津田氏
遺構:削平地、土塁
案内板:なし
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:10分

津田城の大手道にあり、津田城の出城。

大手道



土塁




城坂砦跡へのアクセス
津田城に向かう国見山ハイキングコース途中にあります。

津田本丸山城跡

所在地::大阪府枚方市津田山手1丁目
別名:なし
築城年:天正3年(1575)以降
築城主:津田主水頭正時
廃城年:天正10年(1582年)
城主:津田氏
遺構:なし
案内板:なし
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:なし

津田氏は隆盛を誇っていましたが、織田信長の畿内平定の戦いで、天正3年(1575)に津田城(国見山城)は焼け落ちました。その後、津田氏は国見山のふもと(本丸山)に居城を構えましたが、山崎の合戦で明智光秀方に加勢したため、秀吉軍に本丸山城も焼き払われてしまいました。昭和になり、本丸山城等の遺構は発見されましたが、津田城の全容等は明らかではありません。









本丸山城跡へのアクセス

津田古城跡

所在地::大阪府枚方市津田南町2丁目
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:中原氏
遺構:なし
案内板:あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:なし

古城の字名があり、津田城築城以前に、この地に勢力を誇った中原氏の居城があったと云う伝承がありますが、発掘調査では弥生時代の住居跡が確認されただけのようです。


古城説明板






津田古城跡へのアクセス

田口城跡

所在地::大阪府枚方市交北2丁目28番1号
別名:なし
築城年:正平8年(1353年 北朝 文和2年)
築城主:和田正光
廃城年:永禄9年(1569年)
城主:喜多氏代々
遺構:なし
案内板:あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:なし

田口城は、和田正光という人が正平8年(1353年 北朝 文和2年)に築いたと『喜多氏系図』に記されており、小字城ノ山と言われた所が田口城の城跡であると伝えられています。城門に使われたという唐居敷[からいしき]が、田口の山田神社の境内に残されています。和田正光は、足利義詮の旗下に属すと喜多和泉守と名乗りました。









田口城跡へのアクセス

御茶屋御殿跡

所在地::大阪府枚方市枚方上之町1-12
別名:なし
築城年:文禄4年(1595年)
築城主:豊臣秀吉
廃城年:延宝7年(1679年)
城主:乙御前
遺構:なし
案内板:あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:5分

京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄3年(1596)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。
京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間しばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。
江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永9年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「台茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。
その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。
『現地案内板より』

秘話
御殿で茶会を催したとき、度々一乗寺の住職を招待したため、秀吉に仲を疑われた。住職は潔白を証明するため自分の男根を切り自殺した。秀吉の死後、乙御前は髪を切り住職を弔ったという秘話が残っている。


御殿案内板



御殿からの景観


御茶屋御殿跡へのアクセス

枚方城跡

所在地::大阪府枚方市枚方上之町9−21
別名:なし
築城年:室町時代
築城主:本多氏
廃城年:慶長二十年(元和元年、1615年)
城主:本多氏
遺構:なし
案内板:なし
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:すぐ

枚方城は百済王氏の後裔と称する豪族本多氏の居城であった。本多内膳正政康は、豊臣秀吉の家臣となり娘が秀吉の妾となったことから豊臣家との関係が深くなり大いに栄えました。しかし、大阪冬の陣(1614年)の前の年大阪城の外城的存在であった枚方城はいち早く東軍の手に帰してしまい慶長二十年(元和元年、1615年)大阪落城とともに廃城、本多政康は戦死し本多家も滅亡します。
『日本城郭大系12より抜粋』




一乗寺(枚方市岡南町)には、本多内膳正政康の墓所があります。



枚方城跡へのアクセス

渚陣屋跡

所在地::大阪府枚方市御殿山町(御殿山神社)
別名:御殿山陣屋,永井伊賀守陣屋
築城年:万治元年(1658年)
築城主:永井伊賀守尚庸
廃城年:貞享年間(1684~1688)
城主:永井氏
遺構:なし
案内板:図書館脇に神社案内板
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:御殿山図書館に駐車
所要時間:すぐ

永井伊賀守尚庸(なおつね)は山城国淀藩主・永井尚政の三男として生まれ徳川家綱に仕え小姓を務めていましたが、万治元年(1658年)、河内国内で2万石を分与され大名となり御殿山に陣屋を築きました。その後、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任している。寛文10年(1670年)には3万石に加増されている。延宝5年(1677年)に死去し、後を次男の直敬が継ぎました。
貞享4年(1687年)、那須氏が改易されたため、代わって河内国内に所領を持っていた直敬が下野烏山藩主として転封される。元禄7年(1694年)寺社奉行となり、後に奏者番も兼任する。元禄14年(1701年)浅野長矩が改易された後を受けて、3000石加増の3万3000石で播磨赤穂藩主となる。宝永元年(1704年)には若年寄となる。宝永2年(1705年)、同年伊豆守に叙任する。
宝永3年(1706年)信濃飯山藩に移封される。宝永8年(1711年)武蔵岩槻藩に移封されるが、正徳元年(1711年)岩槻にて死去
貞享年間(1684年~1688年)に佐太陣屋へ移される。
正平年間(1346年~1370年)この地に、畠山義深が真木城を築城し家臣の遊佐河内守が河内守護代として当城を守った
また永禄~天正年間には、松永久秀の麾下野尻備後大夫築城の渚城があったと伝わる。





渚陣屋へのアクセス

私部城跡

所在地::大阪府交野市私部6丁目
別名:交野城
築城年:永禄8年(1565年)
築城主:安見右近
廃城年:天正9年(1581年)
城主:安見右近・安見新七郎
遺構:曲輪、堀、井戸
案内板:あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月4日(月)晴
駐車場:なし
所要時間:すぐ

永禄8年(1565年)頃、河内の実力者安見宗房の一族である安見右近によって築城された。 右近は築城当時、松永久秀に属しており、その際、足利義昭が、津田城に入城した際、主戦力であった右近が、久秀の指示により、交野(片野)に城を築いたとされている。 元亀元年(1570年)には三好三人衆を牽制する為、信長公記にあるように「片野の安見右近」は城を堅固にかためていた。しかしその翌年、松永久秀は突如として信長を裏切った。そうとは知らない安見右近は久秀の策略にはまり、多聞城に呼ばれ、そこで自刃して果てた。 自刃後すぐに、久秀、久通父子は交野城に向け出陣、交野城を攻めるが、息子である安見新七郎が、なんとかこれを持ちこたえる(多聞院日記)。翌元亀3年(1572年)にも松永久秀は交野城を攻撃するが織田信長配下の柴田勝家、佐久間信盛らが城の救援に駆けつけ、これを退けているが、天正元年(1573年)に筒井順慶によって攻め落とされている。
その後、安見新七郎は天正3年(1575年)、織田信長による河内平定後に取次者として招集される。 天正6年(1578年)信長が「安見新七郎の居城で休息した」と「信長公記」にある。しかし、これが交野城を指しているのかどうかは確証を得ない。同年、「保見系図」には、荒木村重の謀反に一味して伊丹城に立て籠もり、 私部城は信長によって破却されたとある。正確な廃城時期は不明。織田信長が本能寺の変で没した後に廃城された可能性もある。

本郭北側の堀跡

二郭と本郭の間の堀切

二郭
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ニ郭にある案内板

ニ郭から見た本郭

本郭

三郭南側にある石碑

南側堀跡

二郭と本郭の間堀跡


私部城跡へのアクセス
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播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。