新宮城跡

所在地:和歌山県新宮市新宮字丹鶴
別名:丹鶴城・沖見城
築城年:1618年(元和4年)
築城主:浅野忠吉
廃城;1873年(明治6年)
主な城主:浅野氏・水野氏
遺構:天守台・石塁・説明板
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:駐車場から本丸まで15分
駐車場:あり
立ち入り禁止エリアや足場が悪い場所もあるので注意が必要です。

概要
新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)と呼ばれたあたりの小高い丘である丹鶴山(現在の和歌山県新宮市新宮字丹鶴)に築かれた平山城である。別名・丹鶴城は、もとこの地に、源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったことによる。ちなみに、「堀内新宮城」(別名・堀内屋敷)を築城した堀内氏以前に、熊野地方を統治した新宮氏の祖とされる新宮十郎行家(源頼朝の叔父)は、丹鶴の弟である。現在の地に築城したのは浅野忠吉であり、一国一城令により一度廃城した後、忠吉が再築城した新宮城には、大・小の天守や二ノ丸(水野氏時代には鐘ノ丸)などがあった。松ノ丸のある姿となったのは水野2代重良の頃である。














水の手




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本丸
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井戸

本丸からの景観
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丹鶴姫の碑
丹鶴姫はその出自定かでない源為義と熊野別当の娘 立田御前を父母とし「たつたはらの女房」と呼ばれ 頼朝はその甥にあたる弟に新宮十郎行家あり共に新宮で育つ 長じてこの丹鶴山に東仙寺を開基し熊野別当行範に嫁した 夫亡きのち鳥居襌尼と号し 紀伊国佐野庄(な?)どを安堵され 没後山麓に葬られたという 茫々八百有余年 丹鶴城址に立ちて弔えば源家興隆を祈念した姫の魂魄 見張るかすわだつみより清風に乗って来るの想いがする 冀くは芳魄この地に留まりてとこしえに熊野の天地を守り給わらんことを 『現地説明板より』




新宮城跡へのアクセス
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新宮周防守屋敷跡

所在地:和歌山県新宮市新宮656(本広寺)
別名:新宮屋敷
築城年:元亀2年(1571年)
築城主:新宮周防守行栄
廃城年:不明
主な城主:新宮氏
遺構:説明板
指定文化財:新宮市指定文化財
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:すぐ
駐車場:あり

新宮周防守屋敷は、元亀2年(1571年)頃に新宮周防守行栄によって築かれたと云われています。
行栄は新宮十郎行家の子孫と云われ、南北朝時代の中頃から「熊野別当」に代わって勢力を持った熊野七上綱(七人衆)の一人として熊野を統治した。天正19年(1591年)堀内氏善によって討たれたと云われる。
「新宮古図」に、本広寺の前身である法花寺が四周に水を引いた堀を備えた姿で描かれています。
その堀は、現在でも道路の下に石積が残り、水路として利用されているとのことです。
また、本広寺は江戸時代に新宮城主であった水野氏の菩提寺でもあります。

本広寺





本殿




新宮周防守屋敷跡へのアクセス

堀内氏屋敷跡

所在地:和歌山県新宮市千穂1丁目(全龍寺)
別名:堀内新宮城
築城年:天正年間(1573〜1592)
築城主:堀内氏善
廃城年:慶長5年頃
主な城主:堀内氏
遺構:堀跡・石碑・説明板
指定文化財:新宮市指定文化財
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:すぐ
駐車場:

堀内氏の「堀内新宮城」(堀内屋敷)は、天正年間(1573 – 1593年)に熊野地方を統治した堀内安房守氏善が構えた平城であり、その城跡は、新宮市千穂にある全龍寺(新宮城主・水野重仲〈重央〉の菩提寺)に位置し、西側に水堀の一部が認められる。この堀内氏の居城は、堀内氏が関ヶ原の戦いで西軍方についたため、東軍(徳川)方に寝返った桑山一晴により攻略された。ちなみに、全龍寺の近くにつけられた「取出町」という地名は、氏善の砦があったことによるといわれる。









堀内氏屋敷跡へのアクセス

大野城跡

所在地:和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬
別名:
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:大野五兵衛
遺構:曲輪・土塁・堀切・郭・説明板
指定文化財:なし
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まで10分
駐車場:神社前に駐車出来ます。

安宅氏の執事を勤めた大野五兵衛の居城であり、安宅本城西の守り役でもあった。『安宅一乱記』に方六十丁とあるが今は破壊されてありません。

麓の春日神社

社殿

説明板
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縄張り図

登城口

曲輪2



堀切

曲輪1

曲輪1






大野城跡へのアクセス
県道37号の安宅橋を渡ると右側に春日神社があり案内板があります。

龍松山城跡

所在地:和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬
別名:
築城年:天文年間(1532年~1555年)
築城主:山本忠行
廃城年:不明
主な城主:山本氏
遺構:曲輪・土塁・空堀・堅堀・堀切・説明板
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まですぐ
駐車場:二の丸に駐車出来ます。

竜松山城は南北朝時代の豪族山本忠行が櫟原荘(一之瀬に改める)に移り住み天文年間(1532年~1555年)に城を構えたとの説がありますが、定かではありません。二代目の城主(山本忠継)が城郭を改修した時に、二の丸入り口に地を這うような竜の形をした一本の老松があったため呼ばれるようになったともいわれています。竜松山城は、天正13年(1585年)より羽柴秀吉より紀州征伐を受け、居城龍松山城にて3ヶ月間の籠城するも、翌年の和睦の席で紀和の国境、 真土峠の藤堂高虎の館にて謀殺され山本氏は滅亡した。


二の丸に向かう途中にある空堀跡

空堀跡

二の丸

二の丸土塁

説明板

本丸

供養塔

土塁


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龍松山城跡へのアクセス
国道311号線沿いに大きな道標があり二郭まで登ることが出来ます。

田辺城跡

所在地:和歌山県田辺市上屋敷1丁目
別名:錦水城、湊村城、湊城
築城年:1606年
築城主:浅野知近
廃城年:1871年
主な城主:浅野知近・安藤氏
遺構:石垣・水門・説明板
指定文化財:なし
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まですぐ
駐車場:なし

田辺には湯河氏時代の泊城、杉若氏時代の上野山城、浅野氏時代の洲崎城があったが、1605年(慶長10年)に洲崎城が波浪によって破壊されたことを受けて、1606年(慶長11年)に浅野幸長の家老・浅野知近によって築かれた。1615年(元和元年)の一国一城令の後は改築して陣屋とされ、1619年(元和5年)までは氏重が城主であった。当時から城郭は整備されていたと考えられるが、『田辺町大帳』によると、同年に紀州徳川家が転封されて付家老の安藤直次が3万石を受領して田辺に入城した際には城がなく、旧家を宿としたともいう。これは前記の改築が続いていたためともされる。以降は明治時代まで安藤氏が城主を務め、与力・同心の給禄を合せて3万8,800石の規模であった。
1791年(寛政3年)に大島樫野浦(現・東牟婁郡串本町、紀伊大島樫野埼)にアメリカ船が来航してから沿岸警備はより厳重になり、田辺城でも大規模な改修が行われた。『田辺沿革小史記事本末』には、1831年(天保2年)の改修で、それまで竹垣で囲っていた塁上の柴垣に壁を設けて銃眼を穿った、記録がある。1863年(文久3年)には外国船からの攻撃を恐れて下万呂(現・田辺市下万呂)に城の移築を決め、年末には工事に着手したが、翌年に工事延期を通達したまま取り止めになっている。1868年(慶応4年)に16代目の安藤直裕は紀伊田辺藩として独立し、翌1869年(明治2年)には同心60名をその給禄とともに紀州藩に還付している。1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に城は払下げられ、城郭は破却された。城跡には多くの民家が建てられ、錦水町という地名になっている。そのため、現在は一部の石垣と水門が残るだけである。 『日本城郭大系10より』














田辺城跡へのアクセス

高田土居城跡

所在地:和歌山県日高郡みなべ町気佐藤
別名:高田城
築城年:室町時代
築城主:野辺弾正忠忠房
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:野辺氏
遺構:堀跡・説明板
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まですぐ
駐車場:なし

室町時代、野辺氏は紀伊国守護であった畠の守護代として、南部荘を支配しており「高野山文書」・「御霊宮(現・須賀神社)棟札」・「堀籠氏系図」等で権勢が伺がえる。野辺氏の居城は、高田土居城の北方約2km、標高206mの平須山頂にあり、常時の館として南部平野のほぼ中央に高田土居城を築かれた。1998(平成10)年からの発掘調査によって、城郭は南北50m、東西70mの方形館を中心に、二重(一部三重)の外堀をもつ全国有数の巨大城郭で、15~16世紀に築城されたことが明確となった。





堀跡

堀跡


高田土居城跡へのアクセス

亀山城跡

所在地:和歌山県御坊市湯川町丸山
別名:湯川城・丸山城
築城年:室町時代前期
築城主:湯川光春
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:湯川氏
遺構:土塁・曲輪・説明板
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まで15分
駐車場:丸山中央集会所

武田三郎忠長が。芳養庄内羽位に館を構え湯川三郎忠長えと改名称している。忠長没後、光長は芳養庄を堅固なものにするため家臣に防備を強化させ、湯川一族は芳養庄に定着した。光長の子光春は日高に進出するため亀山の麓の台地に陣を構えた。周囲を鎮圧した光春は亀山を一望する「亀山」に本城を築いた。初代城主の光春の頃、城はまだ小規模なもので、以降鞘腫が増改築されていったと思われる。十一代湯川直光は天文18年(1549年)頃に兵士の城は風が強いということで山麓に小松原館を築いた。直光はさらに勢力を広げ事実上の守護代となった。天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍に備え直春は娘婿の手取城主玉置直和に味方するよう申し入れたが受け入れられなかった。そこで直春は兵二百余名を手取城に送り込んだ。その後、秀吉の大軍に攻められた湯川氏は城を焼き払って退去し後に和睦する。『日本城郭大系10参照』





















土塁







土塁

湯川氏供養塔


亀山城跡へのアクセス

藤並城跡

所在地:和歌山県有田郡有田川町下津野370
別名:
築城年:鎌倉時代
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:
遺構:土塁・空堀・説明板
指定文化財:なし
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まで5分
駐車場:なし

藤並城の築城主は定かではないが、鎌倉時代にこの地域は紀伊国最大の武士団だった湯浅党の支配下にあり、その縁者の藤並氏の居館跡だったとされている。また、室町時代には、日高川流域に勢力を持っていた玉置氏の縁者の堅田氏が城主だったとも考えられているという。









藤並城跡へのアクセス
県道22号線の歯科医院近くに道標があります。道幅狭く駐車困難です。

湯浅城跡

所在地:和歌山県有田郡有田川町熊井247
別名:
築城年:1143年
築城主:湯浅宗重
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:湯浅氏
遺構:土塁・曲輪・空堀・土橋・説明板
指定文化財:なし
訪城日:2018年8月12日(日)晴
所要時間:主郭まで15分
駐車場:なし

湯浅城は、康治2年(1143年)に湯浅宗重によって在田郡の青木山に築城された山城である。代々湯浅氏が居城した。
湯浅氏は、藤原鎌足の子孫 藤原秀郷の後裔と考えられ、居住の地名から湯浅氏と名乗るようになったようです。
湯浅城は要害として知られ、文安4年(1447年)に畠山氏がこの城を三度攻めてようやく落としたとされる。


湯浅温泉の模擬天守









登城口

曲輪十



武者隠し

曲輪十三

曲輪十二





虎口

冠木門

曲輪三





曲輪四

曲輪二

主郭



搦手虎口

土橋

曲輪七

堀切


湯浅城跡へのアクセス
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播磨河内守

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。