鳴尾山城跡

所在地::兵庫県西脇市板波町
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:上原氏
遺構:郭、石垣、案内板
訪城日:2016年3月21日
所要時間:登城口より15分

鳴尾山城は南北に連なる鳴尾山の北端の標高176m、比高110mの山頂に築かれています。
城跡は山頂の主郭(南北20m、東西18m)を中心に土塁付の幅広い通路兼帯曲輪が取り巻き、南の尾根続きは堀切を設けて防御を因っています。鳴尾山城の特徴は、曲輪のほぼ全周を石垣積みに改修している点で、その時期は戦国時代末期と考えられます。このころの山城は合戦のときにこもるための城で普段は見張り番がいるだけでした。そのため建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。
鳴尾山城は野村町の野村構居とセットとなる山城であったと推定され、城主は上原氏と考えらます。上原氏は戦国時代の混乱に乗じて這田荘重国郷の実権を握りますが、自立の困難さから自らも当時北播磨全域に覇権を広げていた在田氏の被官人となります。鳴尾山城は戦国時代の末期に北播磨進出をねらう三木城の別所氏に落とされ這田荘も別所氏の支配地となりますが、上原氏がその後どうなったかわかっていません。鳴尾山城は小規模ですが特徴的な構造をもち市内でも保存状態のよい城跡のひとつです。
『鳴尾山城跡案内板』より

登城口

虎口(あれれぇ・・・左下に指がうつってるぅ~^^;)
IMG_0413.jpg
主郭にある愛宕神社

主郭

主郭からの景観

堀切

石垣


鳴尾山城跡へのアクセス
旭丘団地側から登城しましたが、裏手の平野テニスコートからも登城出来ます。こちらからは水場跡があるもよう。
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坂本城跡

所在地::兵庫県西脇市坂本
別名:なし
築城年:室町時代
築城主:不明
廃城年:不明
城主:在田氏
遺構:郭、石垣
訪城日:2016年3月21日
所要時間:登城口より20分

坂本城がある標高260m、比高190mの山頂を「城の辻」といいます。城跡は高低2箇所の曲輪からなる小規模なもので、特筆する防御施設はありません。主郭は南北30m、東西14mの規模で、南側には土留めの石積みがあるほか、東側には虎口(出入り口)が見られます。坂本城は築城の年代を知る決め手を欠きますが、構造からは戦国時代の改修あとがうかがえます。この頃の山城は合戦の時に籠もる為の城で、普段は見張り番がいるだけでした。。そのため建物も粗末な小屋程度でしかなかったようです。戦国時代には坂本城が築かれている山頂を境として、東は這田荘津万郷、西は富田荘に属していました。両方の荘園にまたがって城を築くことは、重宝の荘園とも支配地であったことを意味します。この頃、両荘園は、北播磨地域に大きく覇権を広げていた在田氏の支配地でした。合わせて城の規模から考えると、在田氏の領地境を監視する「境目の城」であった可能性が高いと考えられます。また、在田氏が支配する以前は、在地土豪の津万満京が関係した城であったとも考えられます。

坂本日野線にある東屋(展望台?)

登城口(城跡まで600m)

ながめの路(城跡が見えますが以外と遠い)

主郭

主郭にある無線中継施設

東屋

石垣

虎口


坂本城跡へのアクセス

比延山城跡

所在地::兵庫県西脇市鹿野町
別名:なし
築城年:南北朝時代
築城主:本郷弥三郎頼兼
廃城年:不明
城主:本郷氏
遺構:案内板、石碑、 郭、
訪城日:2016年3月21日
所要時間:グランドの登城口より40分

ほぼ独立した急峻な山である比延山(標高289m、比高220m)の山頂に延長180mにわたって曲輪が築かれています。大きく北郭群と南郭群に分けられ、両者とも階段状に小さな曲輪を連ねている点が共通していますが、細かく観察すると、北郭群は曲輪の削平が不十分で曲輪の斜面(切岸)も緩やかであるのに対し、南郭群はそれぞれの曲輪がはっきりし、曲輪間をつなぐ通路も設けられています。以上の点から北郭群は南北朝時代に築城されたまま残され、南郭群は室町時代に改修されたことがうかがえるのです。このころの山城は合戦の時にこもるための城で普段は見張り番がいるだけでした。そのため建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。
比延山城の城主は本郷氏です。本郷氏は南北朝時代に当地に配置された赤松一族で、初代は本郷直頼といい、頼兼、頼木?と続きますが嘉吉の乱(1441)で没落し、復興後も比延山城には帰らなかったと伝えられています。この本郷氏の歴史は比延山城の現状とも一致しています。つまり、北郭群は直頼が築城したままのものが残り、南郭群は嘉吉の乱ごろの改修にかかるものと考えられるのです。このように比延山城は、歴史と城郭の年代観が一致する貴重な例です。
なお、秀吉から炭の礼状をもらった比延氏は野村町の野村構居城主上原氏の被官人で、戦国時代に京都から比延に来た一族ですが、比延氏が比延山城を使用した痕跡や記録はありません。
『比延山城跡案内板』より

駐車場にある案内板

案内板の縄張り図

グランド奥にある登城口

南郭と城跡碑


北郭虎口

北郭

北郭からの景観


比延山城跡へのアクセス

比延前田遺跡跡

所在地::兵庫県西脇市比延町前田
別名:なし
築城年:室町時代
築城主:不明
廃城年:不明
城主:比延氏か?
遺構:なし
訪城日:2016年3月21日
所要時間:すぐ

城史については詳細不明ですが、小学校一帯が大規模な城館跡のようです。比延小学校改築に伴う発掘調査にて柱跡・柵跡・堀跡などが検出されたそうです。


近くの住吉神社社殿


比延前田遺跡跡へのアクセス

喜多・城山城跡

所在地::兵庫県西脇市黒田庄町喜多
別名:岡城
築城年:室町時代(1336年 – 1573年)
築城主:不明
廃城年:不明
城主:不明
遺構:郭、土塁、石垣、郭
訪城日:2016年3月21日
所要時間:麓より5分

城史については詳細不明。
山頂付近では中国製天目茶わん、中国明代の青磁香炉の破片、土師器の小皿などが発掘されました。東西110mの楕円形に小規模な土地8区画あり建物跡は確認出来ず見張りや攻撃に使われたと考えられます。

八幡宮

ここから直登します。

竪堀ぽい?

土塁と石積み


主郭


主郭からの展望

こちらからも登城出来ます。


城山城跡へのアクセス

水尾城跡

所在地::兵庫県西脇市水尾
別名:なし
築城年:室町時代
築城主:不明
廃城年:不明
城主:不明
遺構:郭、土塁、堀切
訪城日:2016年3月21日
所要時間:麓より30分

この地は古代から播丹国境、託賀 賀毛の郡境であったと伝えられ、交通の要所であった。この城の築造されたころ、このあたりがどのような情勢であったかを確かめる資料を欠くが、荘園支配者や土豪の拠点、監視所としてこの地点は最適の場所であったと考えられる。城跡は城山と呼ばれる標高250メートルの山頂に築かれている。一辺18メートルの正方形の主郭(本丸)を中心に北側へ4ヶ所、南側へ3ヶ所、西側へ1ヶ所の郭が連なる連郭式と呼ばれる構造である。築造時期は室町時代と推定できる。
中世の山城は非常時の「詰めの城」で小屋程度の施設があったにすぎず、日常生活は平地の館で行うのが普通であったと考えられる。水尾城は西脇地方では残りのよい城跡である。 『水尾城跡案内板より』

麓にある大日寺

大日寺由緒

水尾城縄張り図

墓地の上段右手にある登城口のフェンス

ここを登りきると主郭に着きます。(上りはいいですが、下りが非常に危険です。気をつけて下さい。

主郭下の郭

主郭

主郭にある石積み

主郭からの景観


水尾城跡へのアクセス

大木城跡

所在地::兵庫県西脇市大木
別名:野中城
築城年:文明年間(1469~86)
築城主:不明
廃城年:不明
城主:野中氏
遺構:郭、土塁、堀切
訪城日:2016年3月18日
所要時間:麓より10分

大木城(野中城)跡  大木城跡は南北に伸びる山塊の南端の平野山山頂(標高164m、比高84m)に築かれています。現在、神社の境内となっている主郭は南北31m、東西17mあり、その周囲を幅2~4mの通路兼帯曲輪がまわっています。城跡の北端には浅い堀切を設けて尾根づたいの防御をはかっています。城があった当時の大手道は東山麓のかつて平野神社があったあたりから登っていたようです。大木城が作られた詳しい年代はわかりませんが、城の構造からは戦国時代の築造と考えられています。このころの山城は合戦のときにこもるための城で普段は見張り番がいるだけでした。そのため建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。 大木城の城主は明らかではありませんが、黒田荘の黒田重勝の弟である光氏が野中六郎となのって野中城に居住したという伝承があります。当時この付近は富田荘の野中郷と呼ばれていたことから、この大木城が伝承の野中城であるとも考えられます。      『大木城跡案内板』

登城口

主郭にある神社

石垣?

堀切




大木城跡へのアクセス
国道427号線、市原交差点を県道296号に入り約300m程直進し、四つ角を左折すると、グランド奥に登城口があります。
フェンスの前に駐車できます。

霞ヶ城跡

所在地::兵庫県多可郡多可町中区森本
別名:森本城
築城年:不明
築城主:得平氏
廃城年:不明
城主:徳平(得平)氏・在田(有田)氏
遺構:空堀、郭、土塁
訪城日:2016年3月18日
所要時間:麓より30分

城史につては詳細不明です。多可郡誌には天正の頃の城主は、森本(藤原)巻右衛門秀清の居城とあります。

居館跡とされている麓の日吉神社

登城口です。少し進むと獣避け電気柵が張り巡らされているので、すり抜けなければなりません。

堀切

シダで覆われてよく分かりませんが南郭です。

二の郭

北郭への尾根

北主郭

石垣


霞ヶ城跡へのアクセス

門村構居跡

所在地::兵庫県多可郡加美町門村
別名:
築城年:室町時代
築城主:不明
廃城年:天正2年(1574年)
城主:杉原兵太夫安久
遺構:空堀、郭、土塁
訪城日:2016年3月18日
所要時間:浄居禅寺駐車場より約5分

門村構居は、加美町門村字「カマエ坪」付近にあった中世(室町~安土桃山時代)の城館で、天正二年(1574)三木別所氏一族の攻撃を受けて敗れた杉原兵太夫安久の居城であったとされている。
カマヘツボの西側山麓には、今も三重の土塁や壁の跡が残されており、かってはカマヘツボ全体を囲んでいたものらしい。
そしてこの土塁の内側には武士団の守護神である八幡大菩薩をまつったという八幡屋敷と呼ばれる平地がある。
一方、この門村構居の南に接して城主の菩提寺であった浄居寺があり、又、西側の山頂には詰めの城としての門村山城の遺跡があって中世城館跡の典型例を示している。 『門村構居城跡案内板より』

杉原兵太夫安久は、室町時代に杉原谷の村を支配していた土豪です。天正2年1月15日(1574年)別所重棟が、箸荷近江坂より門村城を攻め落とし、安久は割腹したと伝えられています。

浄居禅寺参道

浄居禅寺

浄居禅寺由来


空堀1

空堀2



土塁





門村構居跡へのアクセス

稲草城跡

所在地::兵庫県多可郡加美町奥豊部
別名:
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:谷桐氏
遺構:なし
訪城日:2016年3月18日
所要時間:駐車場すぐ

城史については詳細不明です。多可郡誌には城主は谷桐六郎となっています。

国道427号線を走っていると稲草城跡の案内板を見つけました。城跡の場所は、よくわかりませんでした。




稲草城跡へのアクセス
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。