蟇浦城跡

所在地::兵庫県淡路市野島蟇浦
別名:岡の城・城山
築城年:大永年間(1521~1528)
築城主:蟇浦藤次常利
廃城年:天正9年(1581年)
城主:蟇浦氏
遺構:不明
訪城日:2016年3月5日
所要時間:不明

大永年間(1521~1528)に蟇浦藤次常利が阿波の三好元長の家臣であり在城していた。
その後、炬口城主安宅監物の子次郎三郎が三好党から離反して、高国派につこうとした。これを察知した元長は常利を率いて攻め入ったが、常利及び同行した浦壁の城主島田遠江守のその後の消息は不明です。

野島八幡宮の本堂

残念ながら行きそびれましたが、この坂を登って右側に民家があります。そこが居館跡らしいです。
また、大畑観音堂には、蟇浦氏の墓があります。


蟇浦城跡へのアクセス
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白巣城跡

所在地::兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑
別名:白州城
築城年:室町時代末期
築城主:不明
廃城年:天正9年(1581年)
城主:安宅氏
遺構:土塁・堀切
訪城日:2016年3月5日
所要時間:駐車場より10分

白巣城の歴史
白巣城は、淡路島の略中央に位置し、先山山系の標高317メートルの高峰白巣山に構えられた砦で、周囲険阻、又とない要害無比の地で、戦略上最も重要な典型的な砦である。この砦の築かれたのは、室町末期頃より戦国の風雲急を告げる時、外部勢力との抗争に利用するため築城されたと考えられる。「味地草」に「古記に云う、白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門冬秀ニ・三代居住すと・・・」と記されており、当時の状況から想像すれば、足利将軍義稙が大永1年(1521)淡路に走ってからのものと推定される。しかしはっきりした根拠はなく、古誌式は伝説によると、城主は安宅九郎左衛門冬秀公で、今から約四百年前の天正9年(1581)1月に羽柴筑前守秀吉の淡路征伐により滅ぼされたと伝えられている。時に、淡路の各城主は皆降伏したが、冬秀公只一人が従わず、秀吉の軍勢が攻め登らぬよう城の登り坂に、竹の皮を敷きつめ勇敢に戦ったが、秀吉軍はこれに火を放ち、城を焼き討ちにしたのである。城主冬秀公は、もうこれまでと覚悟を決め潔く火中に身を投じ、自害し果てたと伝えられている。ところで、白巣城の城郭についてみると、中世後期の築城で、山上の天嶮を巧に利用した砦で、城郭は白巣山の丘陵上を削平し、大小十五の台地を造り、それに空堀りとか土塁を構えていた。台地の主なものは、本丸、東ノ丸、西ノ丸、馬責場、馬繋場、米倉、物見台等で櫓が築かれていたようである。

『白巣城現地案内板』より  

登城口(このゲートを開けて駐車場まで行けます)

駐車場にある白巣城跡案内板
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縄張り図

堀切

馬つなぎ場

土塁

城跡碑

西の丸にある安宅冬秀公碑

本丸跡



米倉

東ノ丸

東ノ丸からの景観

竪堀


白巣城跡へのアクセス

柳澤城跡

所在地::兵庫県淡路市柳澤乙
別名:なし
築城年:天文年間(1532~55年)
築城主:柳澤隼人佐直孝
廃城年:天正9年(1581年)
城主:柳澤氏
遺構:不明
訪城日:2016年3月5日
所要時間:城跡10分 見張り台10分

柳澤東部の舌状丘陵先端にあり、西端を「的場」、その北西未開の丘陵を「向殿」という。城主の柳沢氏は1532年、に柳澤直孝が柳沢と草香を領して三好長慶に麾下に属した。1581年、柳澤直盛のとき織田信長の命により淡路国に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢に降伏した。

ここが登城口



八王子大権現

旧柳澤城見張り台

旧柳澤城見張り台説明板

見張り台からの景観


柳澤城跡跡へのアクセス

旧柳澤城見張り台へのアクセス

郡家城跡

所在地::兵庫県淡路市多賀
別名:田村氏館
築城年:室町時代後期
築城主:田村氏
廃城年:天正9年(1581)か?
城主:田村氏
遺構:
訪城日:2016年3月5日
所要時間:10分


郡家城(田村氏館とも)は、淡路一宮の祭主家として来島しここに居を構えたのがはじまりとされています。やがて豪族化するほどに力をつけた田村氏は足利氏次いで三好氏に仕え、巧みに存続していた。天正八年には阿波の一宮成助・篠原右京進が連合して十河存保との争いが激化した際、阿波の勝瑞城に入った十河存保を助けるため田村康弘が兵を進めたことが記録されていますが、やがて天正十年(1582)六月に羽柴秀吉の淡路攻めにより滅亡しました。

堀切

堀切

天守


郡家城跡へのアクセス

田村館跡

所在地::兵庫県淡路市中村
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:田村氏
遺構:城跡碑
訪城日:2016年3月5日
所要時間:なし

初代城主田村刑部大夫春方公の祖は坂上田村麿将軍なり。其十二世仲実公弘安年中勅に依り信州新井庄より来り幽宮の祭司となり下河合に城郭を構え其子孫連綿と続く。所領は郡家郷、志筑庄、草加、播州加古川、溝口、明石大蔵谷、泉州佐野、河内国等なり後再び田村麿の末孫信州城主義康公の孫春方公当地に来り祭職を継承中村に築城事実上初代城主となる。随う重臣は石上氏、砂川氏、伊東氏、渡邊氏、河合氏、都志氏、田村氏等なり。公は当山に寶珠法華経五千部を奉納、明応三年四月十三日一宮社家六坊を廃し、二代城主左馬正春公は永正十八年当山を此地に移し宏壮な伽藍を造営、大永二年寺領を寄進、同五年一宮寶殿を建立、同年七月二十三日薨去さる。
三代城主左馬助盛春公は弘治元年一宮社殿を造修、同年四月十三日一宮社家六坊を廃し宮坊を建立当山の末寺とし一宮の神事を執行せしめ、当山を一宮別当に任ず。同三年当山御堂を造立、永禄二年三月十四日薨去さる。
四代城主修理之進村春公は永禄九年一宮本殿造立、天正六年当山御堂瓦造営、同七年一月十七日薨去さる。
五代城主治郎兵衛経春公は国士無双の武将にて法華経の大信者なり。天正七年織田信長公より武田攻撃の先鋒たる下命あり再三の催促を拒否せしめ良民を苦境に陥る事と成らんか進退茲に窮まり意を決し当山の祖霊を拝し信長公の使者に家臣良民の後事を託し従容として自盡さる。時に天正九年三月十八日なり。
嗚呼古城は疇昔に非ず今人自ら来住すと、惟うに世は戦乱攻城野戦を事とす、然れども代々の城主大乗妙典に帰依し佛祖の遺誠を遵守し寺社に盡せし偉業を称美讃歎し身軽法重烈信の崇祖の偉霊を顕彰せんのみ
『現地説明板より』






田村館へのアクセス

妙安寺城跡

所在地::兵庫県淡路市中田
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
城主:不明
遺構:不明
訪城日:2016年3月5日
所要時間:なし

城跡は妙安寺を中心とした低丘陵と平地一帯になります。日外親王に関しては資料がないのでわかりません。

妙安寺の参道

二の丸と本丸

本丸にある日外親王の供養塔


妙安寺城へのアクセス

庄田城

所在地::兵庫県南あわじ市倭文庄田御土居
別名:船越館
築城年:文和元年(正平七年・1352)
築城主:船越定春
廃城年:不明
城主:船越氏
遺構:城跡碑
訪城日:2016年3月5日
所要時間:なし

船越氏は藤原氏の流れを汲んだ淡路の国人で、鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には細川氏の被官となって活動していた。
永正16年(1519年)守護細川尚春が三好之長に殺害されて、淡路は三好氏の勢力圏となり、倭文荘の領主藤原氏を滅ぼした船越氏が庄田の地に館を構えたものがこの城館跡と考えられる。
船越景直は初め淡路庄田城主として、細川氏の重臣だった三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を従えて仕えた。後に三好氏が滅んだことから織田信長に帰属し、天正9年(1581年)には淡路を攻めた羽柴秀吉から本領安堵を受ける。本能寺の変の後も秀吉の直臣として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣。後に淡路から播磨明石郡へと移され、4000石を受けて弓組と鉄砲組を率いた。その後も秀吉の家臣として小田原征伐や文禄の役にも従軍している。



庄田城へのアクセス

叶堂城跡

所在地:兵庫県南あわじ市松帆古津路148−2(感応寺)
別名:感応堂城
築城年:慶長5年(1600年)
築城主: 石川紀伊守
城主:石川氏
廃城年:慶長5年(1600年)
遺構:城跡碑、案内板、石垣
訪城日:2015年6月30日

叶堂城は慶長五年(1600)豊臣氏の代官石川紀伊守光之によって志知城に代わる水軍基地として築城され。
城域は三原川より堀岸に至る南北約百五十メートル、東西約二百メートルにおよび、標高約10メートル、基底約二千二百平方メートルの地山があり、その南西部に穴太積みと呼ばれる慶長期の石垣が約四十メートルにわたり築造されていた。
石川氏は築城に際し、台上の観音堂を北の松原に移したと伝えられるが、築城後間もなく関が原の戦いが起り、石川氏は西軍 参加して敗れ、この城も廃された。その後元和七年(1621)城跡に感応寺が再建された。
しかし昭和五十九年(1984)三原川拡幅工事のため感応寺は約三百メートル東方に移転し、城跡の遺構は惜しくも消滅の止むなきに至った。 今ここに城跡碑を建立し永く後世に伝える次第である。 『叶堂城跡案内板』より


穴太積の石垣

穴太積案内板

感応寺由緒


説明板城跡碑
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川沿いにある説明板
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叶堂城へのアクセス

湊城跡

所在地:兵庫県南あわじ市湊
別名:特になし
築城年:室町時代後期
築城主:安宅氏?
城主:安宅氏
廃城年:天正九年(1581)頃
遺構:城跡碑、土塁、空堀
訪城日:2015年6月30日

湊城跡は現在の菊川氏宅地の全域が城域であった。古くから淡路安宅衆の一人、湊安宅氏の居館であったと云われています。
当城館跡の西の畑地に「安宅明神」という安宅殿の墓といわれる一石五輪塔が建っている。そこには大永六年(1526)という年銘が刻まれていたそうである。



空堀跡

安宅明神

湊城跡案内板


湊城跡へのアクセス

志知城跡

所在地:兵庫県南あわじ市志知松本
別名:志知松本城
築城年:鎌倉時代初期
築城主:菅和泉守道忠
城主:菅氏(野口氏)、加藤嘉明
廃城年:文禄4年(1595年)
遺構:城跡碑
訪城日:2015年6月30日

志知城の創築は鎌倉時代の初め、菅和泉守道忠によるといわれている。
「太平記」に、志知の武士が南北朝初期動乱のとき、宮方(南朝)に従い淡路西浦から、京都へ出陣したことが記されているが、その武士集団の拠点が志知城であるといわれている。南北朝時代以後は足利将軍に与力した菅氏は、淡路守護細川氏にも従ったという。
室町末期は三好氏に味方し、その後、野口孫五郎長宗のとき、羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)による淡路攻略(天正九年-十年)によって降伏開城した。そのあと黒田孝高(後に黒田官兵衛)があずかり、天正十三年より加藤左馬助茂勝(後に嘉明)が1万五〇〇〇石の城主として入城、留守居役が家老堀部市右衛門であったといわれている。
志知城は、瀬戸内海に出る、淡路水軍の重要基地であった。九州遠征(天正十四年-十五年)、小田原攻や(天正十八年)、朝鮮出兵(文禄元年に始まる)には、水軍を編成して出陣した。文禄四年に嘉明が伊予(愛媛県)へ転封のあと、当領は秀吉の直轄領となり、代官石川紀伊守光遠・三宅丹波守が入城し、川口の叶堂に新城を築き志知城は廃された。

本丸台跡は、一辺約七二米の方形状で、高さは約五.五米曲輪の縄張り構成は不明である。本丸台の北隅が天守台とも櫓台跡ともいわれ、南部に一段低くなった一郭は「二の丸」と呼ばれている。堀は、南北の長さ約一三〇米、幅約一五米。本丸を広く取り囲むように外堀が残っていたが、今はその旧態が見られなくなっている。石垣は確認されていない。この城郭は、近世初期の形式をもつ水城的な平城で、加藤氏入城後改造されたものであろうとされている。

城跡北側の堀跡。

かなり荒れていてまったく分かりませんが、右側が本丸台跡、左側が二の丸跡です。

志知城跡碑


志知城跡へのアクセス
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播磨河内守

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。