曽根城跡

所在地:大阪府泉大津市曽根町1丁目4−8
別名:
築城年:戦国時代
築城主:玉井源秀(玉井行家)か?
廃城年:不明
主な城主:玉井駿河守・玉井遠江守
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(日)晴
駐車場:神社内

概要
戦国時代の泉州では大きな勢力が無く、和泉三十六郷士と呼ばれる国人領主が同盟関係を結び大勢力に対応していました。曽根城主としては玉井遠江守と玉井駿河守の名が見えます。織田信長上洛の際には始め本願寺方に属しますがその後降伏し、木津川口の戦いでは信長方に属し毛利水軍に大敗を喫し和泉三十六郷士の殆んどの人が戦死します。玉井源秀(玉井壱岐守行家)は千原城(未訪問)を築城しています。また、河内国高屋城の城主細川氏綱の配下にあり、泉州の各地で戦を行っていましたが、天正十六年(1588)に没します。玉井遠江守・駿河守については詳細不明。







曽根城跡へのアクセス
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眞鍋城跡

所在地:大阪府泉大津市神明町6−15 南溟寺
別名:大津城
築城年:南北朝時代
築城主:真鍋氏
廃城年:天正年間(1573年~1592年)
主な城主:真鍋氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(日)晴
駐車場:なし

概要
眞鍋城の詳細は不明ですが、真鍋家の出目は応永年間(1394〜1427)に備中真鍋島(瀬戸内海)から真鍋五郎衛門貞縄が淡輪に移住してきたものと伝わっています。築城については、南北朝時代に淡輪氏と争い真鍋五郎衛門貞縄は大津(和泉大津市)に居城を移します。主馬兵衛貞友は,織田信長に仕え大坂石山本願寺攻めに参加、大坂木津川口で戦死します。五郎右衛門貞成の時代,天正13(1585年)年に羽柴秀吉の馬廻り役を命じられ,大阪城に居を構えたことにより眞鍋城は廃城となりその後,城跡に長泉寺が建立。延宝年間に浄土宗南溟寺に改称。現在,本堂入口に『眞鍋城址』の石碑があります。


南溟寺山門


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南溟寺本堂

眞鍋城跡石碑



眞鍋城跡へのアクセス

浅香山城跡

所在地:大阪府堺市堺区桜之町西3丁
別名:特になし
築城年:南北朝時代
築城主:浅香右近将監宗勝
城主:浅香将監宗勝、三好氏
廃城年:不明
遺構:案内板、石碑
訪城日:2015年7月28日

室町時代、浅香氏累代の城。現在浅香山稲荷神社付近。松永久秀が大和信貴山城の支城として築城。のちに三好義継の城となったが、永禄11年に落城。『日本城郭大系12より』


浅香山稲荷神社由緒
昔、この辺りに住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九○年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より此処に埋る香木有り、と伝えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたところ、果たせるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出て、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。時移り世が代わって宝永年間(一七○四年)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流を変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手出しも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。以上(浅香稲荷神社由来案内板より)




浅香山城跡へのアクセス

海船政所跡

所在地:大阪府堺市堺区桜之町西3丁
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:案内板、石碑
訪城日:2015年7月28日

四国阿波の三好長輝は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破り、細川澄元を援助し、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に就きました。
長輝は京都に近く、阿波に渡るのに都合のよい堺に目をつけ、永正元年(1504)2月、海の見える海船町に館を建てることを計画、京都から堺に来て4月から工事を始めましたが、完成は孫の元長の代になり、大永元年(1521)3月に政所の号をもらいました。その規模は桜之町3丁付近を中心に東西360歩(約652m)南北これに倍しとあり、錦之町にあった梅黄寺も政所跡といい伝えられていることから相当広い区域であったと想像されます。
建物は、館の中央に高楼を作り、楼上より常に四方を監視し、一旦ことが起きると鐘・太鼓を打ち鳴らし一族郎党に知らせたといいます。元長歿後、政所は長慶・義興・義継三代相次いで、ここに住み、この政所は摂河泉(摂津、河内、和泉の国)の各支城の本城的な役割も果たしました。



海船政所跡案内板


海船政所跡へのアクセス

小西行長屋敷跡

所在地:大阪府堺市堺区宿屋町東1丁1
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:小西家
廃城年:不明
遺構:案内板、石碑
訪城日:2015年7月28日

小西行長は、永禄元年(1558)、薬を扱う商人である小西立佐の次男として生まれました。
宿屋町大道の北寄東側に邸宅がありました。幼い頃にキリスト教の洗礼を受けたといわれています。
(洗礼名はアゴスチイノ)。
行長は、豊臣秀吉に信任され、戦功をたてた結果、天正16年(1588)肥後国宇土14万6千石の領主となりました。

秀吉が朝鮮進出を目指した文禄・慶長の役(1592~1593、1597~1598)では、
加藤清正とともに自軍を率い、行長が中心に和平交渉を担当しました。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、行長は、西軍の石田三成側につきましたが、
東軍の徳川家康に敗れ、京都で斬首されました。 『現地案内板より』


小西行長屋敷跡案内板


小西行長屋敷跡へのアクセス

堺奉行所跡

所在地:大阪府堺市堺区櫛屋町東3丁 車之町東3丁あたり
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:特になし
訪城日:2015年7月28日

堺奉行所は江戸幕府の遠国奉行の一つです。奉行所の位置は現在の車之町東・櫛屋町東両町の二丁から三丁にまたがる一帯に該当し、江戸時代には奉行屋敷、与力同心屋敷など武家屋敷が立ち並んでいました。
奉行は旗本のなかから選ばれ、堺の町内と港湾を管理し、町民の訴訟を処理することが仕事でした。その前身は、安土桃山時代から江戸時代のはじめに堺を支配した「堺政所」に求めることができます。「堺政所」は貞享年間(1684~1687)頃堺奉行と改称され、与力10騎、同心50人とともに堺の支配にあたったのです。
堺奉行所は元禄九年(1696)幕府の方針によって廃止され、大坂町奉行所が堺を管轄することになりました。しかし、元禄十五年(1702)には再興され、慶応三年(1867)まで堺の支配を行いました。
明治二十五年(1892)には、奉行所跡に堺市庁舎が建設され、昭和十九年(1944)に南瓦町へ移転するまでの52年間はここに庁舎が置かれていました。 『堺奉行所跡案内板より』

奉行屋敷跡付近

与力同心屋敷跡付近
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堺奉行所跡案内板


堺奉行所跡へのアクセス
残念ながら石碑は見つけることが出来ませんでしたが案内板の20m程先にあったみたいです。

堺北台場跡

所在地:堺市堺区北波止町(大浜北公園)
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:特になし
訪城日:2015年7月28日

嘉永6年(1853)、アメリカの使節ペリーが浦賀(神奈川県)に来航し幕府に開国をせまり、翌年9月、今度はロシアの使節プチャーチンを乗せたディアナ号が紀伊水道を経て大坂天保山沖にあらわれました。これらの事件をきっかけに、幕府・諸藩は海岸防衛の強化をせまられ、品川台場、鳥取藩由良台場など全国各地の海岸沿いの要地に土塁を築き、大砲を備えた「台場」(砲台)といわれる海防施設の設置、整備を盛んにおこないました。  大阪湾の整備は京都の守りという立場から重視され、まず加太(紀州藩)、由良・岩屋(徳島藩)、明石(明石藩)へ、少し遅れて大坂安治川、木津川両河口への台場築造が命じられました。堺でもこれらの政策の一環として、安政2年(1855)までにまず堺港の小波止に台場(北台場)が建設され、それに少し遅れて大波止に南台場が建設されました。  北台場は南北約90メートル、東西最大約70メートルの規模をもったコの字形の土塁(高さ約3メートル)をもち、彦根藩が堺台場の担当となった文久3年(1863)以後の記録によれば、36貫目の臼砲(モルチール砲)を主砲に大砲8門を備えた本格的なものでした。  明治以降、北台場の敷地は公園地となり、当初は陸軍省の所轄に属していましたが、のちに堺市の所有となり現在は大浜北公園の敷地の一部として市民の憩いの場となっています。   1995年3月 堺市教育委員会

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堺北台場跡へのアクセス
 

堺南砲台場跡

所在地:堺市堺区大浜北町4・5丁(大浜公園内)
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
廃城年:不明
遺構:特になし
訪城日:2015年7月28日

蘇鉄山は大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を、明治12年(1879年)に大浜公園として解放され展望のよい築山として整備されたところです。蘇鉄山の約300m東南にあった御蔭山の頂に、近代地図作成のための基準点となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定されました。
その後御蔭山が削られ、昭和14年(1939年)に蘇鉄山の標高6.97mの所に移設されたものです。現在一等三角点の設置されている日本一低い山となっています。御蔭山は天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積み上げてできた大阪の天保山とは兄弟関係にあたります。

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堺南砲台場跡へのアクセス
花菖蒲園には南台場外堀石垣が残っています。

千利休屋敷跡

所在地:大阪府堺市堺区宿院町西1−17−1
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:千家
廃城年:不明
遺構:特になし
訪城日:2015年7月28日

千利休は大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。
現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。
屋敷跡には椿の井戸が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。

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千利休屋敷跡へのアクセス

今井屋敷跡

所在地:大阪府堺市堺区宿院町東3-1
別名:特になし
築城年:不明
築城主:不明
城主:織田氏、今井宗薫
廃城年:不明
遺構:特になし
訪城日:2015年7月28日

現在地にあった宗薫の屋敷は、織田有楽斎から譲り受けたもので、当時の尺度で東西29間(約55メートル)・南北32間(約61メートル)と考えられています。今井宗薫は、堺の豪商で茶人の今井宗久の長男として生まれ、茶の湯を父に学び、豊臣秀吉の近侍となった。秀吉の死後は徳川家康の寵をうけ、関ヶ原の戦いで功をあげ、河内・和泉二国の代官となった。堺市五ヶ荘花田に屋敷があったが、大坂冬の陣に際して関東に通じる嫌疑を受け、家財を没収され、大坂城に監禁された。のち、逃れて城中の様子を家康に伝え、徳川軍に従った。 『今井屋敷跡案内板より』





今井屋敷跡へのアクセス
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播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。