松尾山城跡 小早川秀秋陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ヶ原町山中
指定文化財:町指定史跡
別名: 長亭軒城
築城年:応永年間(1394年~1428年)
築城主:富島氏城
廃城年:天正七年(1579年)頃
主な城主: 富島氏・樋口氏・不破氏
城郭構造:山城
訪城日:2016年5月22日(日)晴
駐車場:登山道入り口にスペースあり
所要時間:麓から40分

松尾山城
応永年間(1394~1428年)に富島氏城が築いたとされ、元亀元年(1570年)に浅井長政が修築し樋口氏が守将としますが樋口氏は織田氏に寝返り、天正元年(1573年)に浅井氏討伐後は、信長の命により不破河内守光治が守備したと伝えられます。

小早川秀秋陣跡
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町松尾(松尾山)
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:当初は西軍 のちに寝返り東軍
兵数:15000
駐車場:なし
所要時間:麓より40分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、西軍として伏見城の戦いに参加した後、本戦では1万5000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山に陣を敷いていた伊藤盛正を追い出してそこに布陣した。
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。
度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていた。

秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、吉継・為広・勝成の諸将は討死した。
これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡した。なお、翌日以降に行われた三成の居城佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。









小早川秀秋陣跡へのアクセス
登城口が見つからず結構迷いました。私は、松尾山南側の聖蓮寺側から登城しましたが、北側の登城口は、国道21号線松尾交差点を南進し、みちなりに進み名神を越えると案内板があるので分かるかと思います。
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大谷吉継陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町大字山中
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:西軍
兵数:3000
駐車場:無料駐車場
所要時間:5分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

慶長5年(1600年)、家康は会津上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、三千の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。
西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。
月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子・織田信吉と長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていた。吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。

正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てから小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。






大谷吉継陣跡説明板

陣跡からの景観



大谷吉継陣跡へのアクセス

不破の関跡

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町松尾
指定史跡:町・国指定史跡
駐車場:あり
所要時間:すぐ
訪城日:2016年5月22日(日)晴

672年に発生した壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)の命により美濃国の多品治によって「不破の道」が閉鎖される。この近辺が激戦地となっている。 よく誤解されるが、壬申の乱で閉鎖されたのは「不破の道」であり、不破関ではない。
673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置される。
701年(大宝元年)、大宝律令によって正式に定められる。
789年(延暦8年)、天皇・太上天皇の死や病などを契機として三関封鎖され、廃止される。非常時に関の封鎖を命じる「固関」(こげん)の儀式が江戸時代まで続いた。徳川幕府により東山道が中山道として整備されたころと推測される。その以前から関所の機能はなくなっていた。








不破の関跡へのアクセス

福島正則陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町松尾
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:東軍
兵数:6000
駐車場:なし
所要時間:すぐ
訪城日:2016年5月22日(日)晴

正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだった。
慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。

関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7000と戦闘を行った。 宇喜多勢の前衛8000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。
やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は次々に崩壊した。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8000石を得た(広島藩)。




福島正則陣跡へのアクセス

藤堂高虎・京極高知陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原2490−101
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:東軍
兵数:藤堂高虎 2500 京極高知 3000
駐車場:なし
所要時間:すぐ
訪城日:2016年5月22日(日)晴

藤堂高虎
慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。
戦後、これらの軍功により家康から宇和島領を含む今治20万石に加増されている。

京極高知
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊と戦うなどの戦功を挙げた。戦後は丹後12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称した。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。

陣跡碑は関ケ原中学校の敷地内にありますので、中には入らず門前での撮影になります。





宇喜多秀家陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ヶ原町関ヶ原4146-1(天満神社)
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:西軍(副大将)
兵数:約17000
駐車場:なし
所要時間:3分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が、豊臣家における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。

慶長5年(1600年)、家康が会津征伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃した後、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。

関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。そこで落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿った。その後は、島津義弘などを頼って落ち延び牛根(垂水市)の豪族平野家に二年三か月潜居した。慶長8年(1603年)島津・前田両藩主は、徳川家康公に秀家公の助命を嘆願し許されて久能山(静岡県)に移され二年間幽閉された。慶長11年(1606年)4月、八丈島へ配流となった。



宇喜多秀家公陣跡碑

天満神社社殿


陣跡案内板


小西行長陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ヶ原町
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:西軍
兵数:4000
駐車場:無料駐車場あり
所要時間:1分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

慶長5年(1600年)の家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられた。その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。
9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われた。行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はこれを受けず、竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行った。
10月1日に市中引き回しの後、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。その際、行長はキリシタンゆえに浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶。ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後に首を打たれたと伝えられる。処刑後、首は徳川方によって三条大橋に晒された。

小西行長陣跡

小西行長陣跡説明板

小西行長陣跡

小西行長陣跡


開戦地

開戦地案内板


小西行長陣跡へのアクセス

島津義弘陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ヶ原町
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:西軍
兵数:6000
駐車場:無料駐車場あり
所要時間:1分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した。
だが石田三成らは、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼したため、義弘や甥の島津豊久は無礼である」と激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともされている。

小早川秀秋の寝返りにより、西軍は総崩れとなり敗走を始めた。この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。



島津義弘陣跡へのアクセス

脇坂安治陣跡

所在地:岐阜県不破郡関ヶ原町藤下
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:本戦開戦時は西軍 途中より寝返り東軍へ
兵数:約1000
駐車場:なし
所要時間:1分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立。安治は徳川邸に駆けつけた。会津征伐では、家康の元に息子・安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。この際、安治は旧友・山岡景友を通じ事情を家康に伝え、家康から引き返したことに対して了解を得る一方、戦いに向けて防備を固めるように指示を受けた(慶長5年8月1日安元宛徳川家康書状)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約11000名の兵を率いて西軍に付いたとされる。

9月15日の本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、秀秋が黒田長政と通じていたのと同様に、安治もまた藤堂高虎より工作を受けており、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させた。戦後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の3大名と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。



脇坂安治陣跡

脇坂安治陣跡碑

脇坂安治陣跡案内板


脇坂安治陣跡へのアクセス
結構道が狭いので,もし行かれる方は気をつけて下さい。

島左近・石田三成陣地跡及び最後決戦跡

所在地:岐阜県不破郡関ヶ原町関ヶ原(笹尾山)
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
所属:西軍
兵数:石田三成 6900 島左近 500
駐車場:無料駐車場
駐車場からの時間:5分
訪城日:2016年5月22日(日)晴

島清興
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないはずの家康の美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に勝利した。しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、三成に受け入れられずに終わった。
関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立った。その最期については、
・黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去した。
・正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は再び出陣。正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、敵の銃撃により討ち死した。
とする説がある。

石田三成
家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。
兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名らを強引に西軍に引き込んだ。三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止されます。
毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。
西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻め落城。
合戦当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れたが、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

島左近陣跡

関ヶ原合戦案内板

島左近陣跡
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島左近陣跡案内板

石田三成陣地

石田三成陣地

石田三成陣地案内板

笹尾山からの景観

関ヶ原合戦陣系図


最後決戦の地
国指定史跡

案内板
IMG_0939.jpg

石田三成陣跡へのアクセス
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Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。