白川城跡

所在地:兵庫県神戸市須磨区白川
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
訪城日:2014年5月13日

埋蔵文化行政マップでは、山伏山神社が城跡のようですが・・・詳細は不明です。


神社鳥居

社殿

境内にある祠


白川城跡へのアクセス
スポンサーサイト



鷹尾山城跡

所在地:兵庫県芦屋市
築城年:1511年(永正8年)
築城主:瓦林正頼
主な城主:瓦林正頼
廃城年:1570年(元亀元年)
城郭構造:山城、平城
訪城日:2014年3月21日

鷹尾城(たかおじょう)は兵庫県芦屋市にある城。山城部分を「鷹尾城山城」平城部分を「芦屋城」と区別していうこともある。阿波の細川澄元の畿内進出の防衛最前線基地として、細川高国が「鷹尾山の天険を利用して、早急に山城を築け」と瓦林正頼に命じたと言われている。
鷹尾城は築城後よりすぐに芦屋河原の合戦の中心となり、赤松義村軍の猛攻にあい瓦林正頼らは鷹尾城からおちのびたが、船岡山合戦より赤松義村軍が兵をひいたのを見計らい、瓦林正頼は鷹尾城を改修すると共に越水城を築城しこれを本城とし、鷹尾城は家臣の鈴木与次郎に守らせ越水城の支城とした。その後記録が残っていないので、越水城が廃城となった同時期に鷹尾城も廃城になったと思われる。

説明板

ここから登城します。

堀切

土橋かな?

曲輪(テレビの中継局が建っています。)

中継局がある所からの眺望

ここから先へは行ってません。

鷹尾山城と芦屋城について
鷹尾城とは鷹尾山城と芦屋城の平城から成り立っていたのではないかと思われている。
山城の基本は、山頂部に食料、武具を保管する建物を作り山全体を要塞化し防御に優れている反面、居住には不便である。鷹尾山城もそれにならったものであったと思われるが、山腹部に芦屋城を作り居城としていた。

鷹尾山城へのアクセス

芦屋城跡

所在地:兵庫県芦屋市山芦屋町周辺
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
訪白日:2014年3月21日

芦屋城には建物跡があることから、鷹尾山城にも何らかの建造物があった可能性がある。この2つの城を機動的に使用し敵の侵入を防ごうとしたと思われる。永正8年(1511年)7月26日の芦屋河原の合戦で「外城を攻め落とす・・・」という記録が残っており、この外城が山腹にあった芦屋城のことではなかったかと見られている。

芦屋城跡推定地

芦屋城推定地周辺



芦屋城跡へのアクセス

山路城跡

所在地:兵庫県神戸市東灘区田中町3丁目
築城年:南北朝時代
築城主:赤松範顕
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

『摂津志』には「田中村に在り、観応年間赤松範顕ここに拠る。」とある。、『本山村誌』では赤松範資であるとなっており定かではない。ここは平時の居館だった。
現在の本山中学校付近が本丸跡で、手水公園が二の丸跡と言われています。

山路城跡とされる本山中学校風景

二の丸跡とされる手水公園


山路城跡へのアクセス

五百山城跡

所在地:兵庫県神戸市東灘区岡本6丁目(岡本梅林住宅)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

五百山(いおやま)城は赤松氏の支城で戦時の城であるという。現在、岡本梅林住宅が建っているが、開発の際に古井戸と甲冑が見つかった。




この付近からの風景


五百山城跡へのアクセス

平野城跡

所在地:兵庫県神戸市東灘区御影山手(阪急御影駅一帯)
築城年:南北朝時代
築城主:平野忠勝
主な城主:平野忠勝
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

平野城は阪急御影駅一帯にあったと云われている。『摂津誌』に「御影村の城、観応年間平野氏ここのここに拠れり」と記されており、観応年間(1350~1352年)に平野忠勝が在城したが、戦いに敗れ、南西にある郡家に退いて農業に従事していたことが平野氏の古記録に残っている。

赤松家臣の氏族
摂津国兎原郡御影郡家(神戸市東灘区御影)の氏族。大江氏の後裔で、鎌倉幕府政所筆頭の大江広元の流れを汲むとも、次項の摂津源氏の源頼重(平野頼重)の流れを汲むともいわれる。また、上記の坂上氏族平野氏と同族ともされる。家紋は「丸に剣片喰」。御影北小学校の東に塁壕の跡らしい地形があります。



上ノ山公園

上ノ山公園にあった由来

平野家の墓がある中勝寺(神戸市東灘区御影郡家2丁目4−7)

中勝寺縁起

平野家の墓所

平野忠勝公の由来

平野忠勝公参り墓碑

堀跡とされる深田池

深田池公園にある説明板


平野城跡へのアクセス

住吉城跡

所在地:神戸市東灘区住吉山手6丁目1−1(白鶴美術館裏手)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

赤松氏の支城とだけしか判りません。詳細不明



白鶴美術館の裏手付近


住吉城跡へのアクセス

北山城跡

所在地:兵庫県神戸市灘区篠原(祥龍寺背後の山)
築城年:不明
築城主:荒熊武蔵守興定
主な城主:荒熊武蔵守興定、若林隼人尉範房
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

『摂津名所図会』には「原此地は荒熊武蔵守興定という者の居城なり。前は海、後ろは山にして要害第一の城域なり。数代ここに居住しけるが建武の城主討死し、この後荒廃しける所、村上源氏の末流若林隼人佑勝岡、有緑に尋いでここに来り」とあり、また若林氏家の記録に「荒熊武蔵守北山の城主成るところ保元の頃戦に打ち負け、落城に及び、すなわちその地を居城致し、若林隼人尉範房と改名」とある

祥龍寺山門

祥龍寺由諸

背後にある厳島神社

厳島神社本殿
P1010548.jpg
備考:現在この付近一帯は宅地化され、昔の面影はありません。勿論遺構もです。

北山城跡へのアクセス

一王山十善寺跡(赤松砦?)

所在地:兵庫県神戸市灘区曾和町1丁目(神戸大学経済学部キャンパス内)
築城年:南北朝時代
築城主:赤松則村
主な城主:赤松則村
駐車場:なし
訪城日:2013年1月26日

正慶2年(元弘三 1333年)に大塔宮護良親王(おおとうのもりみやながしんのう)の令旨を受けた赤松則村は、六波羅勢と戦ったときに一王山十善寺を城塞として利用したと考えられている。
明治41年(1908年)、旧高羽村山中で建物の遺構や石垣跡が検出された。これこそが大山寺文書の親良親王令旨に「今月二十五日寅一点に軍勢を率いて、当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」とある赤松城にちがいないという郷土史家の意見から、神戸大学構内に「赤松城之址」という標柱も立てられ、昭和7年9月に赤松町と名づけられた。
しかし、実際の赤松城は播磨国佐用郡の苔縄城であり、ここにあったのは一王山十善寺の跡であることが判明。赤松氏は戦いの際、寺院を城砦として使用することが多く、円心が摩耶山城に拠った時、当寺も利用したため戦火で焼けた。

キャンパス内(正門前より撮影)

備考:赤松城跡碑がキャンパス内にあるそうなんですが、中には入れませんでした。

一王山十善寺跡(赤松砦?)へのアクセス

生田陣屋跡

所在地:神戸市中央区下山手通1丁目2-1
築城年:1184年、建武3年、天正年間
築城主:平氏、新田氏、池田氏
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:有料駐車場あり(500円)
訪城日:2013年1月23日

一の谷の合戦では平氏、建武3年の湊川合戦では新田義貞、天正年間の花熊合戦には池田恒興(信輝)が陣を築いた。(日本城郭大系12)

生田神社桜門

生田神社御由緒

梶原井

梶原井説明板

生田神社本殿


生田の森
生田神社拝殿の背後には楠で覆われた生田の森が広がり、昔は生田川まで広がる大きな森であったと言われ、枕草子、平家物語、源平の合戦など歴史の舞台となってきました。
源平一ノ谷合戦の際、平家軍はこの生田の森を東の城戸(きど)として、生田川に逆茂木(さかもぎ)を並べて陣を張り、平(たいらの)知盛(とももり)を大将として源氏の範頼(のりより)軍を迎え撃ちました。


生田の森案内板


生田陣屋跡へのアクセス
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

総訪問者数

プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
なんとなく城跡巡りへようこそ!

○写真などの無断転載を禁止します。
○相互リンク募集中です。リンクはフリーです。
○当ブログの掲載内容につきまして参考資料などを見て掲載はしていますが、情報が古かったり、間違っていたりするかもしれません。ご容赦願います。
○掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。

開閉式カテゴリ一覧

人気ランキングに参加しています。

撮影機種

2017年3月よりEOS M5で撮影しています。