所在地::兵庫県朝来市和田山町竹田古城山
別名:天空の城、虎臥城、安井ノ城
築城年:1431年(永享3年)(伝承)
築城主:山名宗全(伝承)
廃城年:1600年(慶長5年)
城主:太田垣氏、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀
遺構:石垣、堀、井戸など
訪城日:2016年7月19日(火)晴
駐車場:山城の郷を利用(無料)
入城料:大人500円
所要時間:駐車場より徒歩約40分
築城に関しては不明な点が多い。『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年 - 1443年)に丹波国、播磨の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのものをさす。竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし永享3年(1431年)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。
嘉吉の乱により、幕府から追討令を受けた山名宗全は播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨に入国し、城山城にいる満祐を滅ぼした。恩賞として播磨守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。
嘉吉3年(1443年)に赤松教政が、文安元年(1444年)に赤松満政が、康正元年(1455年)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。
応仁元年(1467年)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。
応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488年)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522年)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。
天正7年(1579)秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。
最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。
東軍の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い、家康の命によって慶長5年に鳥取真教寺にて切腹。広秀の居城であった竹田城は、家康の命により 山名豊国が受取りに行き、入城した。
その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。
駐車場にある山城の郷

竹田城案内図

登城道(一般車は通れません)

登城口にある模擬山門

竹田城関係年表

遺構と石垣について

竹田城石碑


大手門

北千畳

景観

三の丸

北千畳から見える本丸付近

二の丸


天守への階段

天守


南二の丸

櫓跡

南千畳



竹田城へのアクセス