所在地:沖縄県うるま市勝連南風原3908
別名:なし
築城年:13世紀-14世紀
築城主:伝・茂知附按司
廃城年:1458年
城主:茂知附按司、阿麻和利
遺構:石垣、郭
案内板:あり
指定文化財:世界遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
駐車場:無料駐車場
所要時間:15~20分
開所時間午前9時~午後6時年中無休 入場無料
城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置し、南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されています。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。
13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。
城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろそうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。
城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。
勝連城跡休憩所

防御田地
かつて付近一帯は「底なし沼」といわれるほど水量豊富な湿地帯でした。クグス時代には争いごとが頻発していたことから、侵入者が湿地帯に足をとられる”防御ライン”としての機能が想定されていたようです。『現地案内板より』


石垣

門口の力一
大きな川の少ない沖縄では「力一」という泉が水源であり、人々の暮らしの中心となっていました。ここは旧暦の二月・八月の村の除災招福を願う行事が行われる場所でもあります。城内に入る際に手足を清める為に使用していたと言われています。
『現地案内板より』

右旋回の階段
勝連城かつれんじょうの各曲輪くるわを結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっています。これは、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられています。
階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があります。また、敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もあります。このように、勝連城の階段が描く美しい曲線には、古いにしえの人々の工夫が込められているのです。
『 現地案内板より』


ウタミンガー
「ウタミシ」はお試し、「カー(ガー)」とは泉を意味する沖縄の言葉です。
旧暦元旦の初拝はつうがみの際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、「ウタミシガー」という名前が付いたと伝えられています。この泉の水量が豊富にあるときは「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは「ユガフーの年(豊作の年)」と言われています。 『現地案内板より』

ミートゥガー
かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びのカー(泉)」と伝えられています。女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になりえたのでしょう。
一方で「この泉のそばで恋物語をするな」という言い伝えもあります。ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからです。泉は命の源であり、聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれません。
『現地案内板より』


三の曲輪くるわ城門(四脚門しきゃくもん)
四の曲輪くるわから細く長い石畳道を上りつめたところに、かつて内郭ないかくの門がありました。発掘調査したところ、礎石と壁には“ほぞ穴”と考えられる、四箇所のくぼみが確認されました。このことから三の曲輪くるわ城門は、四本の柱で屋根を支える四脚門(薬医門やくいもん)であったと考えられています。薬医門は、東京大学の通称“赤門あかもん”(正式名称:旧加賀屋敷御守殿ごしゅでん門/国指定重要文化財)が有名ですが、16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造です。『現地案内板より』
沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方があります。自然石を大まかに加工して積んだ「野面のづら積み」、四角い切石を水平に積み上げた「布積ぬのづみ」、多角形の石を亀甲型に積んだ「相方積あいかたづみ」があり、野面のづら積み→布積ぬのづみ→相方積あいかたづみと発達したと考えられています。
勝連城かつれんじょうの石積みは、そのほとんどが「布積ぬのづみ」で積まれています。また、鈎かぎ状に組むことで、強度を増した工夫も見られます。 『現地案内板より』

二の曲輪基壇(くるわきだん)
基壇きだんとは、建物の基礎になる石や、土で一段高く築いた場所のことです。二の曲輪くるわと三の曲輪の境は、石灰岩切石積きりいしづみで築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線に造られています。
南側では約2m奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測されます。これにより、二の曲輪くるわに存在した舎殿しゃでんは、長い歴史の中で、少なくとも二度の建て替えがあったと考えられています。『現地案内板より』

肝高きむたかの御嶽うたき/トゥヌムトゥ
神人かみんちゅと呼ばれる女性祭司を中心に行われる、王国時代から続く「ウマチー」という年中行事の拝所うがんじゅです。旧暦二月と三月に「麦」、五月と六月には「稲」の、それぞれ初穂や豊作を祈ります。
御嶽うたきの近くには、神人かみんちゅたちが腰掛けたと言われる石列(トゥヌムゥトゥ)があります。以前は、ウマチーの際に神人かみんちゅたちの前で若者が「イユコーイミソーリー(魚を買って下さい)」と呼びかけて回ったと言われています。
『現地案内板より』

二の曲輪

二の曲輪案内板

ウミチムン
「ウミチムン」とは「三個のかまど石」を意味する言葉です。琉球古来の信仰で、火の神が祀られています。この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に「火の神ひぬかん」を祀り、家内安全を願う風習が残されています。
また、藪地島やぶちじま、浜比嘉島はまひがじま、久高島くだかじま、津堅島つけんじまなど、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあります。 『現地案内板より』

ウシヌジガマ

ウシヌジガマ案内板

一の曲輪階段

一の曲輪階段案内板

玉ノミウヂ御嶽
一の曲輪くるわのほぼ中央にある、勝連かつれんを守護する大きな霊石をご神体とする御嶽うたきです。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。
霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿ほうもつでんのような建物があったことが分かっています。
また、霊石脇にある洞穴は 「かつては二の曲輪くるわのウシヌジガマと繋がっており、有事の際の避難路として使用されていた」 という伝説が残されています『現地案内板より』


景観

景観

仲間ヌウカー(カンジャガー)
12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋かじや(カンジャー)であった「仲間家が使用していた泉である」という伝説から、「カンジャーガー」とも呼ばれています。周辺の発掘調査で、鍛冶屋かじや跡は現在のところ発見されていませんが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋かじやの場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われています。
『現地案内板より』

マチダ・ナケージガー

マチダ・ナケージガー案内板

勝連城跡へのアクセス
那覇空港近くのレンタカー会社から約1時間掛かりました。高速は使っていません。