座喜味城跡

所在地:沖縄県中頭郡読谷村座喜味708−6
別名:読谷山城
築城年:1416年~1422年
築城主:伝・護佐丸
廃城年:16世紀
城主:護佐丸ほか
遺構:石垣、郭
案内板:あり
指定文化財:世界遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
所要時間:すぐ
駐車場:無料駐車場
観覧料 無料

1416年から1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。
沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されたが、城壁の復元が行われた。
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定されたが、米軍基地として使用されていた部分は指定し得なかったため、返還を機に追加指定された。ただし、現状変更のあった部分(西側道路部分)についてはのちに指定を解除している。
2000年11月には首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は座喜味城跡)。城内で演劇が行われるなど、広く利用されている。城跡の高台から西側を望むと残波岬や、晴れた日には慶良間諸島も眺めることができる


高倉

説明板



厨子甕

説明板











砂糖車(サーターグルマ)

説明板


座喜味城跡へのアクセス
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今帰仁城跡(なきじんじょう)

所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101
別名:北山城
築城年:13世紀頃?
築城主:湧川按司 ?
廃城年:1665年(寛文5年)
城主:北山王、第一尚氏
遺構:城壁、石垣
案内板:あり
指定文化財:世界遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
所要時間:約5分
駐車場:無料駐車場
開所時間:8:00~18:00(最終入場17:30)
観覧料 大人:400円 中、高校生:300円 小学生以下:無料

今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。
城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。


券売所

各グスクに使用されている石材





今帰仁ノ口殿内火の神の祠

説明板



大隅の城壁

大隅の城壁説明板

正門(平郎門)



カーザフ
カーザフは、平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをいいます。ここは、一段と低い所でその両側は切り立った「谷底」になっています。この地名の語義は「川迫(さこ)」つまり、川の谷間として理解されています。露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったものと想像することが出来ます。

旧道

説明板

大庭
平郎門からまっすぐ伸びた七五三形式の階段を登りつめると開けた広場に出ます。ここは大庭(ウーミヤー)とよばれ、南側には南殿があったと推定され、北の一段高くなったところが北殿跡とされます。その建物の跡と見られる礎石が今も残っています。

城内下之御嶽(ソイツギ)
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説明板



御内原

説明板

城内上の御嶽(テンチジアマチジ)

主郭

主郭にある火之神の祠

火之神の祠説明板

主郭



志慶真門郭

志慶真門郭説明板





カラウカー

カラウカー説明板

古宇利殿内(フイドゥンチ)

古宇利殿内(フイドゥンチ)説明板

レコーラウーニ

レコーラウーニ説明板




今帰仁城跡へのアクセス

首里城跡

所在地:沖縄県那覇市首里金城町1丁目2
別名:御城(ウグシク)
築城年:14世紀末(推定)
築城主:不明
廃城年:1879年(明治12年)(首里城明け渡しの年)
城主:第一尚氏、第二尚氏
遺構:石門、石垣
案内板:あり
指定文化財:世界文化遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
所要時間:約5分
駐車場:有料駐車場
開所時間:期間により異なるので首里城公園を参照下さい
観覧料 大人:820円 中、高校生:620円 小学生:310円 6歳以下は無料

首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなく、史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。消失する度に再建されてきたが毎回木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている。『首里城wiki参照』

守礼門

守礼門説明板

園比屋武御嶽石門

歓会門

歓会門説明板

瑞泉門

瑞泉門説明板

漏刻門

漏刻門説明板

広福門



景観

万国津梁の鐘のある「供屋」

首里森御嶽(すいむいうたき)

系図座・用物座(けいずざ・ようもつざ)

奉神門

正殿

正殿内部の玉座(復元)

京の内

景観
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首里城跡石碑


首里城跡へのアクセス

斎場御嶽(せーふぁうたき)

所在地:沖縄県南城市知念字久手堅
案内板:石碑・説明板
指定文化財:世界文化遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
所要時間:駐車場より約10分
駐車場:無料駐車場を利用
入館料:大人(高校生以上) 300円 小人(小・中学生) 150円 団体 200円(※団体20名以上)


御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で斎場御嶽は琉球開びゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。
御嶽の中には、六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある建物や部屋と同じ名前をもっています。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。
はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。その中でも、最も大きな行事が、聞得大君の就任式である「お新下り」でした。斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」(アガリウマーイ)の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。


久高島(くだかじま)遥拝所

御門口(ウジョウグチ)
御嶽内へ入る参道の入り口です。右側には、六つの香炉が据え置かれていますが、これは内部にある拝所の数を示すものです。


参道

大庫理(ウフグーイ)
御門口から登っていくと左手に見える最初の拝所です。大広間や一番座という意味を持っており、前面には、磚(せん)の敷かれた祈りの場(ウナー)があります。


寄満(ユインチ)
大庫理の岩をぐるりとまわった反対側にあります。寄満とは、王府用語で「台所」を意味しますが、貿易の盛んであった当時の琉球では、世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と解釈されています。


三庫理(サングーイ)
二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分は、それぞれが拝所となっています。また、東側には海の彼方に久高島を望むことができます。












斎場御嶽(せーふぁうたき)へのアクセス





護佐丸の墓

所在地:沖縄県中頭郡中城村字久場842-2
護佐丸盛春
案内板:石碑あり
指定文化財:なし
訪城日:2017年4月17日(月)曇
所要時間:中城城より約10分
駐車場:なし 中城城の無料駐車場を利用

中城グスクの城主であった護佐丸の墓で、台グスクのガケ下にあります。現存する亀甲墓としては、県内で最も古いものの一つといわれています。護佐丸の墓は、護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれたもので、 護佐丸をはじめ第7代までの子孫の遺骨が安置されており、8代目からは識名の墓に納骨している。 護佐丸の墓は、現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のもので、 歴史や文化的にも貴重な墓である。

護佐丸(ごさまる、生年不詳 - 1458年)は、15世紀の琉球王国(中山)の按司。恩納村出身。大和名は中城按司 護佐丸 盛春(なかぐすくあじ ごさまる せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)。ただし何れも後世に付けられたものである。第一尚氏王統建国の功臣で、尚氏6代の王に仕えながら晩年に謀反を疑われて自害し、忠節を全うしたと伝えられる。毛氏豊見城殿内の元祖。


普天間教習所の前の146号線を南東に進むと左に入る道があり、50m程歩くとここに辿り着きます。

護佐丸王の墓




護佐丸の墓へのアクセス

中城城跡(なかぐすくじょう)

所在地:沖縄県中頭郡中城村泊1258番地
別名:なし
築城年:14世紀後半
築城主:先中城按司?
廃城年:1458年
城主:先中城按司 護佐丸盛春
遺構:石門、城壁、石垣
案内板:あり
指定文化財:世界遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
所要時間:約20分
駐車場:無料駐車場
開所時間午前9時~午後17時(5月~9月:午前8時半~午後18時)
観覧料 大人:400円(団体300円)中、高校生:300円(団体200円)小学生:200円(団体100円)
      ※保護者が同伴する小学校就学前の子供は無料

創始は明らかではないが、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。 増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害して滅びる。その後、「中城王子の居城」→琉球征伐(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
また、1609年以後の薩摩の植民地時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。
日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた彼の一行は城を見て、城壁、アーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。





裏門

北の郭
護佐丸が井戸を取り込み増築したとされる北の郭。井戸を取り込む事により、長期の籠城にも耐えられるようにしたとされる。



大井戸
北の郭にある大井戸。また、西の郭には「夫婦井戸(ミートゥガー)」と呼ばれる2つの井戸がある。
城郭内に水を確保していることが、この城の特徴である。




西の郭
兵馬の訓練をしたといわれている西の郭。長さが120mある。


拝所



景観





案内板

一の郭
中城城で最も広い一の郭。正殿があった。後に間切番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した。


シライ冨ノ御イベ



雨乞イノ御獄

小城ノ御イベ

南の郭
首里の王を拝む首里遙拝所がある。他にも神の島・久高島を拝む久高遙拝所など場内には8つの拝所がある。今も拝む人が絶えない。


拝所 御冨蔵火神




西の郭

正門
南西に向けられて建てられた正門(やぐら門)。門を挟むように両側に石垣がせり出している。
また、正門の近くには城壁の一部を取り除いた部分があるが、これは第二次世界大戦当時、日本軍が防空壕を作ろうと工事を始めたが、石垣の構造がとても堅固で作業が難航したため、諦めて撤退したとされている。




カンジャーガマ(鍛冶屋跡)
鍛冶を行っていたところとされているが、城のためか集落のためか定かではない。一説によれば護佐丸が阿麻和利に備えるために武具を造っていたとも伝えられている。

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中城城跡へのアクセス
那覇空港より車で約40分

勝連城跡

所在地:沖縄県うるま市勝連南風原3908
別名:なし
築城年:13世紀-14世紀
築城主:伝・茂知附按司
廃城年:1458年
城主:茂知附按司、阿麻和利
遺構:石垣、郭
案内板:あり
指定文化財:世界遺産
訪城日:2017年4月17日(月)曇
駐車場:無料駐車場
所要時間:15~20分
開所時間午前9時~午後6時年中無休 入場無料

城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置し、南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されています。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。
13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。
城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろそうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。
城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。

勝連城跡休憩所

防御田地
かつて付近一帯は「底なし沼」といわれるほど水量豊富な湿地帯でした。クグス時代には争いごとが頻発していたことから、侵入者が湿地帯に足をとられる”防御ライン”としての機能が想定されていたようです。『現地案内板より』



石垣

門口の力一
大きな川の少ない沖縄では「力一」という泉が水源であり、人々の暮らしの中心となっていました。ここは旧暦の二月・八月の村の除災招福を願う行事が行われる場所でもあります。城内に入る際に手足を清める為に使用していたと言われています。
『現地案内板より』



右旋回の階段
勝連城かつれんじょうの各曲輪くるわを結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっています。これは、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられています。
階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があります。また、敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もあります。このように、勝連城の階段が描く美しい曲線には、古いにしえの人々の工夫が込められているのです。
『 現地案内板より』



ウタミンガー
「ウタミシ」はお試し、「カー(ガー)」とは泉を意味する沖縄の言葉です。
旧暦元旦の初拝はつうがみの際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、「ウタミシガー」という名前が付いたと伝えられています。この泉の水量が豊富にあるときは「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは「ユガフーの年(豊作の年)」と言われています。 『現地案内板より』


ミートゥガー
かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びのカー(泉)」と伝えられています。女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になりえたのでしょう。
一方で「この泉のそばで恋物語をするな」という言い伝えもあります。ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからです。泉は命の源であり、聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれません。
『現地案内板より』




三の曲輪くるわ城門(四脚門しきゃくもん)
四の曲輪くるわから細く長い石畳道を上りつめたところに、かつて内郭ないかくの門がありました。発掘調査したところ、礎石と壁には“ほぞ穴”と考えられる、四箇所のくぼみが確認されました。このことから三の曲輪くるわ城門は、四本の柱で屋根を支える四脚門(薬医門やくいもん)であったと考えられています。薬医門は、東京大学の通称“赤門あかもん”(正式名称:旧加賀屋敷御守殿ごしゅでん門/国指定重要文化財)が有名ですが、16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造です。『現地案内板より』


沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方があります。自然石を大まかに加工して積んだ「野面のづら積み」、四角い切石を水平に積み上げた「布積ぬのづみ」、多角形の石を亀甲型に積んだ「相方積あいかたづみ」があり、野面のづら積み→布積ぬのづみ→相方積あいかたづみと発達したと考えられています。
勝連城かつれんじょうの石積みは、そのほとんどが「布積ぬのづみ」で積まれています。また、鈎かぎ状に組むことで、強度を増した工夫も見られます。 『現地案内板より』


二の曲輪基壇(くるわきだん)
基壇きだんとは、建物の基礎になる石や、土で一段高く築いた場所のことです。二の曲輪くるわと三の曲輪の境は、石灰岩切石積きりいしづみで築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線に造られています。
南側では約2m奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測されます。これにより、二の曲輪くるわに存在した舎殿しゃでんは、長い歴史の中で、少なくとも二度の建て替えがあったと考えられています。『現地案内板より』



肝高きむたかの御嶽うたき/トゥヌムトゥ
神人かみんちゅと呼ばれる女性祭司を中心に行われる、王国時代から続く「ウマチー」という年中行事の拝所うがんじゅです。旧暦二月と三月に「麦」、五月と六月には「稲」の、それぞれ初穂や豊作を祈ります。
御嶽うたきの近くには、神人かみんちゅたちが腰掛けたと言われる石列(トゥヌムゥトゥ)があります。以前は、ウマチーの際に神人かみんちゅたちの前で若者が「イユコーイミソーリー(魚を買って下さい)」と呼びかけて回ったと言われています。
『現地案内板より』



二の曲輪

二の曲輪案内板

ウミチムン
「ウミチムン」とは「三個のかまど石」を意味する言葉です。琉球古来の信仰で、火の神が祀られています。この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に「火の神ひぬかん」を祀り、家内安全を願う風習が残されています。
また、藪地島やぶちじま、浜比嘉島はまひがじま、久高島くだかじま、津堅島つけんじまなど、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあります。 『現地案内板より』


ウシヌジガマ

ウシヌジガマ案内板

一の曲輪階段

一の曲輪階段案内板

玉ノミウヂ御嶽
一の曲輪くるわのほぼ中央にある、勝連かつれんを守護する大きな霊石をご神体とする御嶽うたきです。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。
霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿ほうもつでんのような建物があったことが分かっています。
また、霊石脇にある洞穴は 「かつては二の曲輪くるわのウシヌジガマと繋がっており、有事の際の避難路として使用されていた」 という伝説が残されています『現地案内板より』



景観

景観
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仲間ヌウカー(カンジャガー)
12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋かじや(カンジャー)であった「仲間家が使用していた泉である」という伝説から、「カンジャーガー」とも呼ばれています。周辺の発掘調査で、鍛冶屋かじや跡は現在のところ発見されていませんが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋かじやの場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われています。
『現地案内板より』


マチダ・ナケージガー

マチダ・ナケージガー案内板


勝連城跡へのアクセス
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播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。