宿毛城跡

所在地:高知県宿毛市宿毛中央2
別名: 一条氏館
築城年:1468年(応仁2年)
築城主:松田兵庫
廃城年:元和元年(1615年)
主な城主:松田氏、依岡氏、長宗我部氏、野田氏、山内氏(伊賀氏)
遺構:石碑、説明板・石垣、 土塁・曲輪
指定文化財:市指定史蹟
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:約5分
駐車場:近くの宿毛歴史館

築城年は不明ですが、松田城ともいわれ松田兵庫の居城であったが、のちに依岡伯耆守が城主となった。天正3年(1575年)には長宗我部氏によって攻められ落城した。一時は荒廃していたが、宿毛甚左衛門が修復して居城したが、慶長6年(1601年)山内可氏が入城しています。可氏(よしうじ)は、さらに城を改築し、麓を宿毛土居とした。その後、一国一城令により廃城となった。
現在城跡に石鎚神社が祀られています。『現地説明板・日本城郭大系15参照』




宿毛城説明板



本丸

櫓台の祠

石垣


宿毛城跡へのアクセス
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中村城跡

所在地:高知県四万十市中村(為松公園)
別名: 為松城
築城年:応仁2(1468)
築城主:為松氏
廃城年:元和元年(1615年)
主な城主:為松氏、土佐一条氏、山内氏
遺構:石碑、説明板・石碑・土塁・石垣
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:すぐ
駐車場:公園駐車場


城は西に四万十川、東に後川が流れ、中村平野を一望できる吉城山に築城され、現在ニの丸には中村城を模した資料館があります。遺構としてはほとんどなく山頂付近の土塁やところどころの石垣があるのみである。
『長宗我部地検帳』によると、吉城山は御城・為松白・中の森・・今城・東城の五群の城の統合されたものとして記載されています。御城について詰として「中村桑名弥ニ兵衛居」の名がある。おそらく代々の中村城監が在城したとおもわれます。詰の位置は桜の段付近と推定されます。
為松城については、四家老のひとり為松氏の居城であろう。詰城の下には郭があったようであるが現在は消滅しています。
中の森はもと為松氏の郭であったもので現在の二の丸から本丸にかけてのところで吉城山ではいちばん広い部分である。
公園工事中に、山内氏時代と推定される石垣が発見されました。今城は新しく構築された城のことであった。
東城は一条一族西小路氏の居城であり、三の丸付近と考えられる。『日本城郭大系15より抜粋』

東城(三の丸)
この城跡は中村城の城群のひとつで、一条氏一門の西小路氏の持城と考えられています。城はニ区画に分かれており、面積は約200平方米(約60坪)程度であったとおもわれます。16世紀後半一条政権が滅び西小路氏も退去すると城は荒廃し山畠となりました。(現地説明板より抜粋)

土塁

石垣と城跡石碑

二の丸付近にある郷土資料館

郷土資料館周辺の土塁

本丸

本丸


中村城跡へのアクセス

中村御所跡

所在地:高知県四万十市中村本町1-3(一條神社)
別名: 一条氏館
築城年:1468年(応仁2年)
築城主:一条教房
廃城年:不明
主な城主:一条氏
遺構:石碑、説明板
指定文化財:市指定史蹟
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

1468年(応仁2年)に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。教房の次男一条房家は京都に戻らず幡多荘の在地領主となり、中村御所を拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。天正年間に一條氏は中村を追われたが、慶長12年(1607)、遺臣により一條氏数代の霊をまつる祠が建てられた。『wiki参照」

一條神社

中村御所跡石碑

中村御所跡由緒書



咲かずの藤



御化粧の井戸
一条家が使ったと伝えられる7つの井戸の内、現存する唯一の井戸で、この奥にあります。女官・侍従たちが御化粧のために使用したのでこう呼ばれるようになったと伝えられています。
井戸の枠は一枚岩をくりぬいたもので当時の一条家の権勢を物語っています。 尚、深さは約5m、現在の井戸枠は境内拡張の際築き上げられていて、昔より高くなっています。井戸水は今日まで枯れたことがありません。『現地説明板より』


神社境内

中村御所館跡説明板
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一條神社由緒

神社境内


中村御所跡へのアクセス

栗本城跡

所在地:高知県四万十市具同
別名:
築城年:不明
築城主:栗本氏
廃城年:不明
主な城主:栗本氏、一条氏
遺構:石碑、説明板
指定文化財:市指定史蹟
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:すぐ
駐車場:スペースあり

城史に関しては詳細不明です。城主は時代により異なりますが、津島勘助、のちの鳥屋源兵衛ともいわれている。
天正3年(1575年)、豊後から中村を目指す一条兼定は、伊予西海岸の法華津城主の法華津氏らの援護を得て幡多回復を目指した。幡多の諸将の中には兼貞に加担するものも出、宿毛付近の回復は実現した。しかし中村には一条氏圧迫の首謀者吉良左京進親貞が居城していた。兼定の帰国は長宗我部元親の知るところとなり、大軍を率いて中村を目指した。一条勢は兵を揃えてこの城に進出し、四万十川をはさんで一戦を交えたが、一条方は敗北し中村奪還の夢は消え、伊予に退かねばならなかった。これが世に言う渡川の合戦であった。『日本城郭大系15参照』

本丸

説明板



説明板の裏には遺構配置図



石積み

頂上からの景観




栗本城跡へのアクセス

蓮池城跡

所在地:高知県土佐市蓮池
別名:吉良峰城
築城年:嘉応2年(1170年)
築城主:蓮池権守家綱
廃城年:1600年頃
主な城主:蓮池氏・大平氏 ・一条氏・本山氏・吉良氏
遺構:石碑、説明板
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:駐車場より5分
駐車場:公園駐車場

ここに城が定められたのは、嘉応2年(1170)平氏の家人近藤家綱(蓮池権頭)が、平氏荘園の守護として居城したのに始まり、その後源頼朝の討手に滅ぼされた。
建久3年(1192)藤原国信が居城して大平氏を名乗り、広大な勢力圏を形成し、文化面でもすぐれた活躍をした。
天文15年(1546)、幡多一条氏が東進し、大平氏を滅ぼし、一条氏の番城となったが、弘治3年(1557)には本山氏が一条氏を撃退して城を奪った。
永禄3年(1560)、長宗我部氏と本山氏の争いが起こり、これを機に一条氏が城を奪回した。永禄12年(1569)弘岡城主吉良親貞が一条氏を追い、その子親実が城主となったが、長宗我部盛親の継嗣問題で元親の逆鱗に触れ、親実は自刃し、こうして400年余、戦国武将が興亡を繰り返してきた蓮池城の歴史は、幕を閉じた。『現地説明板より』
城山公園入り口



二の丸?





公園案内図

本丸



蓮池神社
蓮池権守家綱を祀っているそうです。




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蓮池城跡へのアクセス

吉良城跡

所在地:高知県高知市春野町弘岡上
別名:吉良峰城
築城年:不明
築城主:土佐吉良氏
廃城年:不明
主な城主:土佐吉良氏、本山氏、長宗我部氏
遺構:郭・堀切・案内板
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:麓より20分
駐車場:なし

吉良城は、前方には吾南平野が一望でき、後方には250mの吉良ヵ峰がそびえるの要害の城である。土佐南学発祥の地。 土佐吉良氏の代々の居城として知られるが、築城年は不明である。築城主は吉良氏と云われる。吉良氏は平治の乱の後、土佐に配流された源希義の子孫といわれ、その子、吉良八郎が築いた平山城だと伝えられる。 吉良宣常の頃が全盛で、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かった。
吉良宣直が5千貫領し、戦国時代に土佐七雄の1人に数えられた。
天文9年(1540年)本山城を拠点に持つ本山氏は吉良城から僅か10km北に朝倉城を築いた。それにおそれた宣直は土佐一条家を頼り、一条氏は森山砦を築いて、本山氏に対抗。2月、本山茂辰は宣直が仁淀川で鮎漁に興じる隙を見て奇襲。吉良城は落城し、仁淀川の如来堂で宣直は落命し、名門吉良氏は滅亡した。
吾南を手にした本山氏は吉良姓を名乗り(吉良式部少輔茂辰)、森山、秋山を含めて土佐中央部を支配する。しかし、東方で勢力を拡大した長宗我部氏の勢力に押される。両氏の対立は長浜の戦いの戸ノ本の戦いから始まり、永禄6年(1563年)、本山氏は朝倉城、吉良城から撤退する。長宗我部元親は弟の長宗我部親貞を入城させ、吉良親貞と名乗らせた。しかし、親貞の子吉良親実は後継問題で元親の怒りを買い、切腹する。この城は後に元親の子、盛親に与えられたが程なくして、廃城になった。
『日本城郭大系15参照』


登り口

登り口を進むとわりとすぐに石積みがあります。

途中にある案内図

南の段

南の段

南の段にある祠

景観

井戸跡

竹の橋

竹の橋下の大堀切

石積

北の段

土塁


吉良城跡へのアクセス

波川城

所在地:高知県吾川郡いの町波川
別名:葛木城・波川玄蕃城
築城年:天正初年(1573年)頃
築城主:波川玄蕃頭清宗
廃城年:不明
主な城主:本山氏
遺構:土塁・郭・案内板・石碑
指定文化財:町指定史跡
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:駐車場より約10分
駐車場:駐車場あり

城主波川玄蕃は、元親に降伏後は、元親の妹を妻とし重用されていました。元親の伊予大洲城攻めに際し、玄蕃は軍を率い参戦したが、敵小早川方の甘言にのせられ和睦した。ところがこれが元親の怒りに触れ、幡多山地の城は没収され、果ては波川の城に追い戻されるという厳しい処罰をうけた。それにより玄蕃の元親への不満、激憤は日増しに大きくなり遂に捨て身の反抗へと発展する。しかし事は事前に発覚し、天正8年(1580年)裏切りの烙印と共に自刃させられる結果となった。
『日本城郭大系15参照』

駐車場



主郭への階段

二の丸?


説明板

説明板と城跡石碑

土塁

土塁

土塁

展望


波川城へのアクセス

朝倉城跡

所在地:高知県高知市朝倉丁
別名:
築城年:大永年間(1521~28年)
築城主:本山梅慶
廃城年:不明
主な城主:本山氏
遺構:郭・堀跡・井戸・案内板・石碑
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2017年7月22日(金)晴
所要時間:麓より約20分で詰の段
駐車場:公民館駐車場利用

朝倉城は本山梅慶が大永年間(1521~28年)に築いたものといわれています。梅慶は天文9年(1540年)弘岡吉良城を襲ってこれを破り蓮池城も攻略して高岡郡の一部も領しました。それから間もなく梅慶は朝倉城で死去した天文24年のことと伝えられている。跡を継いだ茂辰は、永禄3年(1560年)長宗我部国親と長浜・浦戸で戦ったが敗北し、ついに朝倉合戦が起こった。
永禄6年(1563年)茂辰は諸将の多くが元親に降りた現状を見て朝倉城を焼き、領家宿城に退いたのち、本山城に退却した。
しかし、永禄7年本山城を退いて瓜生野に移りました。こうして瓜生野籠城の間に茂辰は病死し子の親茂が後を継いだと伝えられています。『日本城郭大系15参照』


登り口手前の北城山公民館

朝倉城張り図



西登り口
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詰の段案内木標



石積み

土橋?

石積み



二の段

尾根

詰の段にある城八幡宮

朝倉城跡平面図

詰の段

詰の段

土塁

井戸

説明板


朝倉城跡へのアクセス
登城道はいくつかあるようです。朝倉駅前を南下し県道38号線に入り道なりに進み歩道橋を越えるとすぐに道標があります。

高知城跡

所在地:高知県高知市丸ノ内一丁目2番1号
別名:鷹城
築城年:南北朝時代(14世紀頃)
築城主:大高坂氏
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:山内一豊、山内豊敷
遺構:現存天守・御殿・櫓・門石垣・堀 ・案内板・石碑
指定文化財:国指定史蹟
訪城日:2017年7月21日(木)晴
所要時間:
駐車場:高知公園有料駐車場
高知城天守・懐徳館・東多門・廊下門の利用料:430円(2017年7月現在)

大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城(または大高坂城)があったとされる。付近の豪族・大高坂氏によって築かれたとされるが、定かではない。興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦って敗北、大高坂山城は落城した。その後文献に名がなく、廃城となったと考えられる。
天正15年(1587年)、長宗我部元親は、豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築いた。ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある。
天正19年(1591年)、水はけが悪かったため元親は3年で大高坂山城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。ただし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。しかし、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は長宗我部氏が一旦築城を断念した大高坂山の地に新城を築くこととした。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで、2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。


山内一豊銅像
土佐藩の初代藩主山内一豊の銅像は、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日をとして再建除幕されたものです。






追手門
高知城の表門。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっている。


石垣

石垣


石樋(ジャンプ台のような所)
高知は、雨の多い土地柄であり、高知城には排水のための様々な工夫が見られる。この水路遺構は、三ノ丸に降った雨水を集めて2か所の石樋から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう設けられたものと考えられる。


水路遺構

山内千代像

三の丸石垣

杉の段
「井戸ノ段」とも呼ばれた。「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物があった。

鉄門跡
門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったことから、こう呼ばれたという。三ノ丸入り口付近の防衛上非常に重要な位置にある。

三の丸
かつては三ノ丸御殿が建っていた。



二の丸庭園と池

二の丸
藩主の居住空間である二ノ丸御殿があった。

懐徳館

天守
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詰門内部

西多聞

天守

黒鉄門

天守からの展望


高知城へのアクセス

神森城跡

所在地:高知県高知市福井
別名:鴻ノ森城・高ノ森城
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:神森出雲
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2017年7月21日(木)晴
所要時間:麓より約15分
駐車場:スペース有

築城年など城史については詳細不明。城主は神森出雲で伊予の河野の一族と伝えられる。本山氏に属し、本山の出城として守備していたという。永禄3年(1560年)に始まる長宗我部、本山両氏の激突は、土佐中央の運命を決する戦いであったが、永禄4年(1561年)頃、元親は、武将福留隼人・中島大和らをして神森城を攻撃させた。
弔意曽我部軍は城を囲んだが、天然の要害である為、長い間のにらみ合いが続きぬくことができなかった。福留隼人は城中の水路を絶つことを考え城に通ずる谷から運ばれる水を監視すべくこれを囲んだ。城中では苦境に立ったが、出雲は夕方、馬を西の郭上に出し
白米を馬に注いで水があるように見せかけたという。
長宗我部軍は水があると思って守兵を退却させた。たまたま五人の勇者がひそかに北側からよじ登り城に火を放ったので城中は混乱に陥り、ついに出雲は自刃して城は落ちたと伝えられる。
『日本城郭大系15より』

登城口(ここに駐車スペースあり)

分岐点(坂をのぼります。)

石積み







右端に土塁跡


神森城跡へのアクセス
ゴルフガーデンクレッセント旭へ行く道をみちなりに進んで行くとT字路になるので左折してみちなりに進むと登城口に着きます。
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
なんとなく城跡巡りへようこそ!

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。