三原城跡
所在地:広島県三原市城町1丁目1
別名:浮城、玉壺城
築城年:永禄10年(1567年)
築城主:小早川隆景
廃城年:不明
主な城主:小早川氏、福島氏、浅野氏
遺構:城跡石碑・説明板・石垣・堀
指定文化財:国指定史蹟
訪城日:2017年7月31日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし
永禄10年(1567年)頃に、小早川隆景によって整備が始められたとされる。
隆景は、現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、いわゆる砦を築き水軍の拠点とした。これが三原城の原型を成したものと思われ、三原要害とも呼ばれていたようである。
天正8年(1580年)~10年にかけて、三原要害は隆景によりさらに整備が進められ、いよいよ海城としての偉容を現した。そして隆景は、新高山城から三原城へと本拠を移したのである。 三原城は、瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられた城である。三原城の縄張りは梯郭式であり、壮大な天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南の三方に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた台形状の城郭であった。
天正15年(1587年)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城(福岡県福岡市)に居城を移した。やがて文禄4年(1595年)、養子の秀秋に家督・筑前国を譲り、三原城に戻り隠居したが慶長2年(1597年)に三原城にて病死した。
隆景の死後、関ヶ原の戦いの後には福島正則が安芸・備後に入封した[7]。正則は広島城に、そして三原城には養子正之を入れた。この時正則は、広島城の西側に12基の二重櫓を新設している。三原城の海に面した10基の二重櫓も、その共通性から正則による改築の可能性が示唆されている。
元和5年(1619年)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。この間、寛文3年(1663年)には本丸御殿を建て替えている。宝永4年(1707年)には、地震の影響による石垣修理などが成されている。
江戸時代には、脇街道としての山陽道(近世山陽道:西国街道)が三原城下を通る形で整備された。三原には本陣が東の城外に置かれ、宿場としての機能をも成していた。

石列跡

後藤門跡


小早川隆景像



本丸天守台



天守台からの景観



三原城跡へのアクセス
別名:浮城、玉壺城
築城年:永禄10年(1567年)
築城主:小早川隆景
廃城年:不明
主な城主:小早川氏、福島氏、浅野氏
遺構:城跡石碑・説明板・石垣・堀
指定文化財:国指定史蹟
訪城日:2017年7月31日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし
永禄10年(1567年)頃に、小早川隆景によって整備が始められたとされる。
隆景は、現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、いわゆる砦を築き水軍の拠点とした。これが三原城の原型を成したものと思われ、三原要害とも呼ばれていたようである。
天正8年(1580年)~10年にかけて、三原要害は隆景によりさらに整備が進められ、いよいよ海城としての偉容を現した。そして隆景は、新高山城から三原城へと本拠を移したのである。 三原城は、瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられた城である。三原城の縄張りは梯郭式であり、壮大な天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南の三方に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた台形状の城郭であった。
天正15年(1587年)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城(福岡県福岡市)に居城を移した。やがて文禄4年(1595年)、養子の秀秋に家督・筑前国を譲り、三原城に戻り隠居したが慶長2年(1597年)に三原城にて病死した。
隆景の死後、関ヶ原の戦いの後には福島正則が安芸・備後に入封した[7]。正則は広島城に、そして三原城には養子正之を入れた。この時正則は、広島城の西側に12基の二重櫓を新設している。三原城の海に面した10基の二重櫓も、その共通性から正則による改築の可能性が示唆されている。
元和5年(1619年)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。この間、寛文3年(1663年)には本丸御殿を建て替えている。宝永4年(1707年)には、地震の影響による石垣修理などが成されている。
江戸時代には、脇街道としての山陽道(近世山陽道:西国街道)が三原城下を通る形で整備された。三原には本陣が東の城外に置かれ、宿場としての機能をも成していた。

石列跡

後藤門跡


小早川隆景像



本丸天守台



天守台からの景観



三原城跡へのアクセス
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