今治城跡

所在地:愛媛県今治市通町3-1-3
別名:吹上城・吹揚城
築城年:慶長7年(1602年)
築城主:藤堂高虎
廃城年: 明治6年(1873年)
主な城主:藤堂氏・松平(久松)氏
遺構:石垣・堀・案内板
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2018年3月19日(月)雨
所要時間:駐車場から天守まで約10分
駐車場:
2018年3月現在の料金
天守観覧券:一般:500円 学生:250円
営業時間:午前9時~午後5時
名城スタンプ設置場所:天守

慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。
寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令施行前の明治2年(1862年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却された。このとき二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されたが、明治4年(1871年)に火災が発生した際、内部の火薬に引火して爆発炎上し破壊された。


天守




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天守と山里櫓


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山里櫓

武具櫓

鉄御門



鉄御門



城内案内図

藤堂高虎像と天守

藤堂高虎像

蒼吹の井戸

二の丸

御金櫓

二の丸御殿跡にある吹揚神社



天守からの景観



天守からみる吹揚神社

本丸跡




今治城跡へのアクセス
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怪島城跡

所在地:愛媛県今治市大西町別府
別名:毛島城
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:神野左馬允
遺構:曲輪・堀切・竪堀
指定文化財:なし
訪城日:2018年3月19日(日)雨
所要時間:すぐ
駐車場:対岸に駐車場

怪島城は毛島城とも言い、標高42.5mの小さな島です。島全体が城砦化された水軍城でした。築城及び廃城年などは不明ですが、 天正年間(1573年~1592年)の城主は神野左馬允で来島城主村上通康の家臣であった。 左馬允は侍五騎、足軽二十人を預かる身分であった。天正13年1585年に小早川隆景に降伏して以降は廃城となったため、無人島となり現在に至ります。なので当時のままの姿を残しているようです。

この時点でかなりの雨が降っています。




怪島城跡が見える地点
ここで撮影するのがいいと思います。

松山城跡

所在地:愛媛県松山市丸の内1
別名:金亀城・勝山城
築城年:慶長7年(1602年)
築城主:加藤嘉明
廃城年: 明治6年(1873年)
主な城主:加藤氏・松平氏
遺構:天守・櫓・門・塀・井戸・石垣・土塁・堀
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2018年3月19日(月)雨
所要時間:二の丸駐車場から天守まで約20分
駐車場:二の丸駐車場(無料)
2018年3月現在の料金
ロープウェイ往復券 大人 510円(天守観覧券+往復券 1020円)
天守観覧券:大人 510円
営業時間:松山城HP参照してください。
名城スタンプ設置場所:天守

1602年(慶長7年)、伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に
加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城
の築城に着手しました。
1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
1619年(元和5年)、武家諸法度違反による福島正則の改易により、幕府の命を受け、嘉明が広島城受領のため赴く
1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主
になる。
1634年(寛永11年)8月、蒲生忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶する。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城
を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。
1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城。
1642年(寛永19年)、創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。
1784年(天明4年)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。
1854年(安政元年)2月8日、第12代藩主勝善が大天守以下、本丸本壇を再建。
1873年(明治6年)、廃城令に廃城。
                              「日本城郭大系16より抜粋」

三の丸

三の丸

キャラバンカー みきゃん



黒門口登城道

説明板

桝形





二之丸多聞出入り口

番所跡



南門

二の丸庭園

四足門
大きな柱と控えの柱計4本を一つの屋根の下に入れた形の薬医門であったと考えられます。

米蔵
築城当初は勘定部屋とされていましたが、松平期後半には塩味噌蔵となっていました。
藩邸が、二之丸から三之丸に移行し、二之丸の政治的機能が低下した一つの証拠とされます。

番所

井戸屋形
井戸を保護し、水を汲む人を日照りや風雨から守るための建物

大井戸遺構
露出していたのは西半分だけで、東半分はいろりで火をおこしていた「焚火之間」が覆っており、その基礎部分が残存しています。
石段を上ったところにある一段低いところが床下通路跡で、火災の際、木桶で水をくみ上げ、地下通路を経て運搬していたものと考えられます。

俎板

俎板説明板

鳴かずの蛙

槻門跡

説明板



登城道
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登り石垣

登り石垣

登り石垣

登り石垣説明板






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石垣

待合番所跡



戸無し門

筒井門

筒井門東続櫓

筒井門西続櫓

隠門続櫓

隠門



巽櫓

巽櫓と太鼓門

井戸

馬具櫓



玉薬土蔵跡





紫竹門

紫竹門塀

野原櫓

乾櫓



乾門東続櫓

乾門

一の門

二の門

三の門

三の門南櫓

筋鉄門東塀
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筋鉄門
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小天守

多門櫓と南隅櫓

十間廊下と玄関多門櫓

穴蔵

内門

仕切門内塀

仕切門

天守からの景観



天神櫓


松山城へのアクセス

湯築城跡

所在地:愛媛県松山市道後町
別名:湯月城
築城年:建武2年(1335年)頃
築城主:河野氏
廃城年: 1585年(天正13年)
主な城主:河野氏・小早川氏・福島氏
遺構:土塁・水堀・郭
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:
駐車場:有料駐車場
展示施設:9時〜17時 入館料無料
休館日:毎週月曜日
名城スタンプ設置場所:資料館


湯築城は、風早郡河野郷から出た、伊予の豪族河野氏が道後に築いた城である。源頼朝と結び勢力を伸ばしたが、承久の変(1221年)で没落した河野通信、弘安の役(1281年)の活躍で勢力を回復した河野通有と浮枕を繰り返した河野氏は、通盛の代に伊予国守護に任じられ、全盛期となった。この通盛が、建武年間(1334年~1338年)に築城した湯築城は、江戸時代の『湯築古城図』によれば、内堀と外堀をもち、丘陵頂部の「本壇」と北方の「杉の壇」、東方の「中壇」の郭や家臣居住空間等を構えた、堂々とした平山城である。築城後も、河野氏は諸国との戦いや内紛をくりかえし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景に降り、城もやがて廃城となった。


湯築城

案内板

坊ちゃん列車



搦手門跡

説明板

土塀

武家屋敷

内堀土塁

内堀

内堀

下級武士居住地区

外堀土塁

外堀礎石

ゴミ捨て穴

遮蔽土塁

大手門跡

湯釜

杉の壇

説明板

本壇



本壇からの景観


湯築城跡へのアクセス

港山城跡

所在地:愛媛県松山市港山
別名:湊山城
築城年:1334年から1338年など諸説あり
築城主:河野通盛など諸説あり
廃城年: 1585年(天正13年)
主な城主:河野氏
遺構:案内板
指定文化財:なし
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:麓から約10分
駐車場:奥に入った防波堤付近

1467年(応仁元年)に河野予州家の武将河野通春が築城して居城としたとする説と 1334年から1338年の頃、河野通盛が風早郡河野郷(現在の松山市北条付近)から湯築城に移ったが際に海の守りとして築城したとの説がある。 また河野通信が1186年(文治2年)に築いたとの説もある。
河野氏本宗家と予州家との内訌(内戦)においては予州家の河野通春の居城となり、重見飛騨守が1465年にこの城で討死し予州家の勢力が弱まる中、河野通春が病没(1482年)。本宗家に攻められあえなく落城する。 本宗家の手に渡った湊山城には河野氏の水軍衆が置かれ(湊山衆)忽那氏が統率し、伊予にたびたび侵入した大友氏や毛利氏との争いにおいては防衛の要として重要な役割を果たす。 1585年(天正13年)6月の豊臣秀吉の四国征伐に伴って、伊予に攻め寄せた小早川隆景の伊予平定軍の攻撃で落城し廃城となった。 落城と同じ年、長宗我部元親が伊予を制圧してほぼ四国統一を果たしていたとされており、四国征伐の際には港山城も長宗我部氏の支配下にあった可能性がある。
河野氏の本宗家が居城とした湯築城から距離があり、水軍衆と本宗家の内訌の原因になったという。 宮前川が注ぎ込む三津の内湾が城の直下にあって天然の港となっていて地の利は覆しがたく、廃城ののち江戸時代になってからも松山藩の船奉行と軍用船が置かれるなど水軍の根拠地でありつづけた。
港山城の城兵が毎朝、三津の渡しを渡って須崎の浜(現在の三津浜)で米穀や魚を買い求め、それが現在まで続く三津の朝市の始まりになったと言われている。

登城口

説明板



整備の時に積んだと思われる石垣







曲輪

本郭

本郭

本郭からの景観


港山城跡へのアクセス
港山集会所前のこそだて地蔵横から登城出来ます。

松前城跡

所在地:愛媛県伊予郡松前町
別名:正木城・真崎城・松崎城
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:慶長8年(1603年)
主な城主:大森氏・合田氏・栗野氏・加藤氏
遺構:案内板
指定文化財:なし
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

松前城の築城年月は不明です。 南北朝時代には、大森彦七や合田弥四郎が城主だったという記述があります。 戦国時代には河野氏の拠点の一つであったが、天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で、河野通直は敗れ、松前城は粟野秀用が城主となりました。 しかし、粟野秀用は、豊臣秀次事件に連座し除封され、文禄4年(1595年)、加藤嘉明が城主となった。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、加藤嘉明は、東軍に従い城を留守としていたが、西軍の毛利軍と、河野氏の残党が松前城を襲ったが、佃十成らが撃退した(三津浜夜襲)。戦後、慶長8年(1603年)に嘉明は、松山城に移ったため、城は廃城となった。



松前城説明板



塙団左衛門説明板


松前城跡へのアクセス

縦渕城跡

所在地:愛媛県松山市東石井五丁目13番14号(城山神社)
別名:
築城年:不明
築城主:河野通久
廃城年:不明
主な城主:河野氏
遺構:案内板・城跡石碑
指定文化財:なし
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

この城は、小野川(縦渕川)の南、高さ8メートル、東西47メートル、南北86メートルの丘の上にあったが、明治21(1888)年、土佐街道(今の国道33号線)がつくられたとき、取り崩された。このとき切り石垣が出てきたという。
伊予の豪族河野氏は、源氏と結んで勢力を伸ばしたが、承久の変(1221)により没落した。このとき、鎌倉の味方をした庶子の通久は、功により久米郡石井郷をもらって家督を継ぎ、縦渕城を築いた。その後、同母弟の通継を経て、河野通有が跡を継いだ。
通有は、弘安の役(1281)において「河野の後ろ築地」と呼ばれる勇気や蒙古の軍船に乗り込む等の勇猛振りで、全国に名を轟かせて勢力を回復した。その後、通盛の代になって、湯築城を築き、伊予平野の中心地に出て勢力を伸ばし、国司に任じられるようになった。  『縦渕城跡案内板』より





縦渕城跡へのアクセス

荏原城跡

所在地:愛媛県松山市恵原町
別名:恵原城・会原城・柵居城・平岡城
築城年:不明
築城主:平岡氏
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:大森氏・平岡氏
遺構:曲輪・土塁・水堀・案内板
指定文化財:県指定史跡 
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:主郭まですぐ
駐車場:駐車場スペースあり


荏原城跡は、松山市の南方、旧荏原村にあり、戦国時代の城跡として今日も名を知られている。周囲に高さ5mほどの土塁を築いた方形の平地で、東西130m、南北120m、四周に濠をめぐらせ、南側に土橋で城外と連絡をとっている。土塁の上にあった建物は不明であるが、四隅に櫓があったらしく、特に西南の隅に石積みがあり、櫓の存在が考えられる。矢竹が植えられているのは、この時代の城塁に共通する特色であろう。
築城年代は不明であるが、建武2年(1335年)、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前である。
この城は、河野氏の家臣平岡氏の居城で平岡城ともいわれ、天正13年(1585年)、平岡通倚のとき、豊臣秀吉の四国征伐により落城した。その後、慶長5年(1600年)、平岡善兵衛がこの城で河野氏再興をはかって失敗し、城は廃墟となって今日に至っている。

水堀



説明板

土塁

本郭

土塁上

土塁上にある祠





水堀


荏原城跡へのアクセス

千里城跡

所在地:愛媛県伊予郡砥部町川登
別名:芹城・世梨城・施里城
築城年:平安時代
築城主:河野氏
廃城年:1615年(慶長20年)
主な城主:河野氏・大森氏
遺構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・案内板
指定文化財:町指定史跡 
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:駐車場から主郭まで20分
駐車場:駐車場スペースあり

千里城址は、砥部川上流の千里山(城山)の頂上にあり、千里山は、千里口から眺めると富士山に似た美しい標高581メートルの山である。
予陽旧蹟漫遊記には世梨山とあり、保元、平治の乱のころ(1156年~1159年)には河野通清の弟新三郎通豊の居城、また、元弘建武のころ(1331年~1335年)には大森次郎佐衛門盛清やその子彦七盛長の居城があったと記されている。豊臣秀吉の四国平定後も、松山の湯築城や壬生川城などとともに伊予十城の一つとして残されていたが、徳川時代の一国一城令により廃城となった。現在も、山頂に東西約90メートル・南北約40メートルの平地があり、城隍も見られる。
南麓には、上所・中通り・備中屋敷・茶屋・下所・寺屋敷などの地名が多数残っており、この城が華やかであった
頃の遠い昔をしのばせてくれる。   平成四年八月砥部町教育委員会 「現地案内板より」

登城口



頂上まであと100m





主郭

主郭




千里城跡へのアクセス
国道379号線から銚子ダム公園に向かって入っていく細い道があり、しばらく上っていくと登山道入口の標柱があります。

大洲城跡

所在地:愛媛県大洲市大洲
別名:比志城・地蔵ヶ嶽城・大津城
築城年:元徳3年(1331年)
築城主:宇都宮豊房
廃城年:明治3年(1871年)
主な城主:宇都宮氏・藤堂氏・脇坂氏・加藤氏
遺構:櫓・堀・石垣・案内板
指定文化財:国指定重要文化財 愛媛県指定史跡 
訪城日:2018年3月18日(日)晴
所要時間:駐車場から天守まで10分
駐車場:無料駐車場あり
営業時間:9:00~17:00 (札止16:30)
入館料:大人 500円 小人 200円
名城スタンプ設置場所:天守

この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。
その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守[2]をはじめとする建造物が造営された。
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。

三の丸南隅櫓(大洲城最古の建築物)

三の丸南隅櫓

加藤家住宅(旧藩主加藤家が大正14年に建築した住宅)

三の丸から見える大洲城天守

二の丸大手門跡

説明板

下台所

説明板



二の丸御殿跡(工事中の為中に入れず)



二の丸跡

御門番長屋

説明板

かま櫓跡

説明板
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暗がり門跡

説明板

天守と高欄櫓

加藤貞泰顕彰碑

本丸廻り櫓跡

説明板



天守からの景観

下りの階段上に設置された注意書き

井戸丸

説明板

玉櫓跡

説明板

二の丸からみた天守と台所櫓

鉄砲櫓跡

鉄砲櫓跡説明板

北菱御門跡

北菱御門跡説明板

内堀跡

苧綿櫓

苧綿櫓

左から高欄櫓 天守 台所櫓


大洲城跡へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
なんとなく城跡巡りへようこそ!

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。