高井城跡

所在地: 大阪府貝塚市名越
別名:
築城年:1585年(天正13年)
築城主:根来衆・雑賀衆
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:行左京・熊取大納言
遺構:
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:主郭まですぐ
駐車場:なし

この地は、高井天神社(菅原神社)が祀られていたが、明治41年に森の稲荷神社に合祀された。 これまでに平安時代の軒丸瓦や水煙の破片などが出土していることから神宮寺の存在が推測される。
この寺は、天正13年の豊臣秀吉の根来攻めの際には、高井城として根来方の出城に取り立てられ、近傍の農民約200名が立て籠もったが、秀吉方の武将福島正則によって攻められ落城した。
(現地説明板より)





説明板

道路を隔てた城跡地




高井城跡へのアクセス
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千石堀城跡

所在地: 大阪府貝塚市橋本
別名:今城
築城年:安土桃山時代
築城主:根来衆
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:大谷左大仁
遺構:曲輪、横堀跡など
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:主郭まで約10分
駐車場:なし

千石堀城は、室町時代末期、根来・雑賀衆が近木川沿いに築いた中世城郭の一つです。
正確な築城年代は不明ですが、織田信長が紀州雑賀を攻めた1577年(天正5年)以前には築城されていたようです。江戸時代の地誌には、信長と本願寺が戦った石山合戦(1570~80年)の際に、根来・雑賀勢1万騎余りが「和泉国貝塚、畠中、千石堀城の要害」に入り本願寺方に助力した、という記述が見られます(要家文書「和泉詳誌」)。
羽柴(豊臣)秀吉の時代になると、根来・雑賀衆は千石堀城ほか5つの城に立て籠もり、1583年(天正11年)から翌年にかけて、泉南・紀州地域の押さえとして岸和田城に入城していた中村一氏軍と戦闘を繰り返していました(『中村一氏記』)。1585年(天正13年)3月、秀吉は本格的に紀州攻めを決行し、最初に攻撃されたのが千石堀城でした。『日本城郭大系12参照』






説明板






千石堀城跡へのアクセス

積善寺城跡

所在地: 大阪府貝塚市橋本
別名:
築城年:1558年(永禄元年)
築城主:根来衆
廃城年:1585年(天正13年)
主な城主:出原右京
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:
駐車場:なし

概要
もとは和泉国の四長者の一人、郡吉長者の仏観音堂であったものを永禄元年(1558年)に根来衆と三好氏との戦いの時に、砦をこの地に築き先陣としたのが最初とされる。
天正5年(1577年)雑賀侵攻の時には積善寺城はみえないが、天正9年(1581年)高野攻めには「城郭取立也」とある。また天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは、中村一氏を岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、中村城、沢城、田中城、積善寺城、千石堀城を5城を付城として岸和田城の5町ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小競り合いが続いたが、同年1月16日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり鳥羽城、中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。 この戦い後積善寺城は破却され廃城となった。 『日本城郭大系12参照』



説明板

城郭の東側を流れる近木川

本丸跡があったとされる安楽寺

こちらも本丸跡とされています(明教寺)


積善寺城跡へのアクセス
案内板のある場所になります。

畠中城跡

所在地: 大阪府貝塚市畠中2丁目
別名:
築城年:天文12年(1543年)
築城主:神前宗行・是光
廃城年:不明
主な城主:神前氏・根来衆
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:
駐車場:なし

天文12年(1543年)頃、神前清実の屋敷のあった場所に、根来衆の支城として神前是光の屋敷を補強して畠中城を築城。 規模は東九十五間(171m)、西93間、南106間、北65間で、本丸は縦25間、横18間の大きさだった。
神前氏は奈良時代の氏族の名簿「新撰姓氏録」788年の項によれば、神前氏の祖先の神前連(こうざきのむらじ)は百済からの渡来人で、奈良時代の721年に正六位下の位を得ている。
平安時代末期の1186年には、源義経の味方をして頼朝に追われた源行家を当主の神前清実が自宅にかくまったという記録も残る。
1577年、織田信長の紀州雑賀討伐戦に雑賀衆に味方して篭城。天正13年(1585年)秀吉の紀州征伐に城主神前宗行は根来衆に味方し籠城するが、3月21日夜、中村一氏・福島正則らに攻められ落城する。
江戸時代は神前宗行の子孫で庄屋を務めた要源太夫の屋敷となった。現在も門丸跡に土塀囲みの屋敷地が残されている。














畠中城跡へのアクセス

雨山城跡

所在地: 大阪府泉南郡熊取町
別名:
築城年:貞和二年(1346年)
築城主:橋本正高
廃城:元和三年(1617年)
主な城主:橋本氏
遺構:本丸二の丸・月見櫓・井戸・馬場跡・説明板
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:雨山登山口より山頂の城跡まで片道約30分 
駐車場:無料駐車場あり

雨山城は、標高312mの雨山山頂に存在した中世の山城で築城年は諸説あるが、貞和二年(1346年)南朝方の橋本正高が築いたとされます。当城は泉佐野市にある土丸城の山も含めて城の山を土丸城と称し雨山城の三の丸と伝えられています。嘉慶二年(1388年)南朝方の広橋経泰らが兵を起こし雨山城に拠ったが山名義理が来攻し南軍利あらずと記録に見える。のちに根来衆の拠る所となり、元和三年(1617年)に城郭が取り払われています。『日本城郭大系12より』

雨山登城口



五町付近

馬場跡

馬場跡にある東屋

馬場跡にある東屋

馬場跡から関空方面を望む

馬場跡から少し進むと鳥居があります。

一町付近



千畳敷

千畳敷からの景観

月見櫓跡

井戸跡

主郭

説明板
IMG_2981.jpg
山頂にある雨山神社
IMG_2982.jpg
主郭



縄張り図



郭跡からの景観

郭跡から主郭を見る

土丸城跡へ向かう道


雨山城跡へのアクセス

淡輪城跡

所在地:大阪府泉南郡岬町淡輪字城の藪
別名:
築城年:鎌倉時代
築城主:不明
廃城:不明
主な城主:淡輪氏
遺構:土塁・説明板
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

概要
淡輪城は西林寺の向かいの城の藪と呼ばれる所で土塁の一部が残っています。文禄四年(1595年)、淡輪氏が関白秀次の事に塁座して、豊臣秀吉から所領を没収されるまでの居館跡とされています。

淡輪氏は、源義経の家臣であった佐藤忠信の末といわれているが、橘氏の後裔とみられる。
建武三年(1336年)、助太郎重氏は足利氏に従い南朝方と戦っていたが観応元年(1350年)南朝方の招きによって南朝方に属した。長禄四年(1460年)には、守護細川有に属し畠山退治に功を立てています。
安土・桃山時代、大和守良重(隆重、徹斎)の娘こよは、関白豊臣秀次の側室となったことが確認できる。
のちに秀次が太閤秀吉により追放・切腹させられた折り、こよも三条河原で処刑された。さらに、淡輪家も所領没収されます。
その後、大和守良重の長男新兵衛重利は、後年紀州浅野氏に仕え、次男六郎重政は、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で大阪方として活躍しましたが和泉・樫井方面に出撃し討死している。『日本城郭大系12より』










淡輪城跡へのアクセス
         
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。