葛葉城跡

所在地:大阪府和泉市葛の葉町(信太森神社)
別名:
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(日)晴
駐車場:参拝駐車場

葛葉城についての築城年などの詳細は不明です。

葛葉稲荷神社の伝説
昔、大阪阿倍野の里に安倍保名という若者がいました。家の再興を念じてこの信太の森の稲荷へ日参していました。ある日、お参りを終えて帰ろうとすると、一匹の白狐が走り寄って来ました。狩人に追いつめられて助けを求めてきました。保名は、草むらにキツネを隠し狩人達と争いになりました。傷を意識を失った保名が気が付くと、一人の美しい女性に介抱されていました。
名は葛の葉といいました。数日後、保名の家へ葛の葉が訪ねてきて二人は心を通わせ夫婦となり、男の子が生まれました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。この子が五つとなった秋、
子供に添い寝していた葛の葉は眠っているうち、神通力を失ってキツネの正体を現せてしまいました。
目覚めた子供はそれに気づく。もうこれまでと葛の葉は口にくわえた筆で歌を書き残して去りました。
その歌は、
「恋しくは たづねきてみよ 和泉なる 信太の森の
うらみくずの葉」
夫と子供に宛てたものです母を慕って泣く子を背にした保名は妻の名を呼びながら信太の森に来てみると、以前は見えなかっ
葛の葉っぱが社面一面に群がり茂っていました。
そしてそれらの葛の葉が夫と我が子の声に応えるように葉をそよかせ泣くがごとく、葉のうらを見せてざわめいていました。
その子は後、いろんな天皇に仕えられた、陰陽士”安倍晴明”です。









姿見の井戸
稲荷大明神第一の御命婦白狐が美婦人(葛の葉姫)と化現したときに、鏡に代えて姿を写した井戸












梟(ふくろう)の灯篭 千利休作の灯篭


葛葉城跡へのアクセス
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伯太陣屋跡

所在地:大阪府和泉市伯太町四丁目
別名:
築城年:享保12年(1727年)
築城主:渡辺基綱
廃城年:
主な城主:渡辺氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(日)晴
駐車場:なし

1727年(享保12年)、初代藩主の渡辺基綱が居所を和泉国大鳥郡大庭寺村(現・堺市南区大庭寺)から和泉国和泉郡伯太村に移し、伯太陣屋が築かれた。
陣屋は現在の和泉市伯太町3丁目から4丁目にかけて、信太山丘陵の西側斜面を利用して設置されており、丸笠山古墳の周濠をはじめとする大小のため池が、御殿および家臣団の居住区を取り囲んでいた。中心となる御殿は4丁目に所在し、信太山駅から伯太神社を経由して丸笠山に至る道路と熊野街道(小栗街道)の交点に大手口を設けていた。陣屋は明治以降に破却され、現在では痕跡もほとんど認められないが、陣屋裏門が小谷城郷土館(堺市南区豊田)に移築されて現存している。


伯太藩御殿跡




伯太陣屋跡へのアクセス
行ってませんが伯太町4丁目5の垣根に武家屋敷跡石碑があります。

国府城跡

所在地:大阪府和泉市府中町6丁目2
別名:
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:すぐ
駐車場:神社の無料駐車場

国府城は、築城年等詳細不明ですが、延文年間に細川顕氏が居城しました。その後、永正元年に根来衆に焼き払われたそうです。

泉井上神社 
当神社は井八神社・井戸ノ森八幡宮と称されることもあり、国土守護神又殖産興業の神として御神徳を示す。
神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后にしたがって朝鮮にわたった神々四十五座を加えた計四十八座を祭神とし、その神像四十八躯を蔵す。境内の清水は神功皇后渡韓の途次、一夜にして湧出したので霊泉と名づけられ、国名の源となる。
のち、王子神社・八幡神社・菅原神社・式内社和泉神社が合祀されていまにいたっているが、特に和泉国衙内の神社の神社であるところから和泉の総社(大鳥・穴師・聖・積川・日根の五社合祀)が勧請されて国司以下宮人の崇敬をあつめていた。
総社本殿は、慶長十年(西暦1605)豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されている。


泉井上神社総本殿



泉井上神社
IMG_3089.jpg
和泉國府廳趾碑 すぐ近くの御館山公園内にあります


国府城跡へのアクセス

観音寺城跡

所在地:大阪府和泉市弥生町1
別名:
築城年:延元3年(1338年)
築城主:北畠顕家
廃城年:不明
主な城主:
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

概要
延元3年/暦応元年(1338年)尊氏の命により、高師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・高氏らが北畠顕家軍討伐のため京に進撃するも決着しなかった。
顕家は大和を占領するが、般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。 河内国に退いた顕家は、戦力再建を図り、天王寺の戦いで勝利します。 だが、顕家率いる奥州軍は朝方と再び天王寺等で戦い敗れ和泉国に転戦します。軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かった。奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え各地に進撃し、北朝方と交戦を続けた。顕家軍は和泉で奮戦していたが石津の戦いにて顕家は落馬し、ついに討ち取られます。





観音寺城跡へのアクセス
弥生4号公園に石碑が建っています。

貝吹山城跡

所在地:大阪府岸和田市野田町1
別名:久米田貝吹山城・貝吹山陣所
築城年:不明(永禄4年(1561年)か)
築城主:三好実休
廃城年:不明(永禄5年(1562年)か)
主な城主:三好実休
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:すぐ
駐車場:久米田寺無料駐車場利用

貝吹山古墳は、行基が開基したとの伝承がある久米田寺のすぐ隣に位置する。そのことより貝吹山古墳には久米田寺との縁が深い橘諸兄の墓ではないかという古くからの伝承があり、諸兄塚とも呼ばれる。永禄4年(1561年)から翌永禄5年(1562年)に行われた久米田の戦いで三好実休の陣所となる。この戦いでは、高屋城を追われた畠山高政が再起を期して下向先の紀伊から三好勢を攻め、この戦いで実休は戦死する。貝吹山という地名は陣貝を吹いた事が由来ではないかと伝承がある。







貝吹山古墳

貝吹山古墳

貝吹山古墳の濠


貝吹山城跡へのアクセス

岸和田城跡

所在地:大阪府岸和田市岸城町9-1
別名:岸ノ和田城・滕城・蟄亀利城・千亀利城
築城年:応永年間(1394年~1428年)
築城主:信濃泰義
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:三好実休、小出秀政、岡部宣勝
遺構:石垣・堀
指定文化財:大阪府史跡・名勝(本丸庭園)
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:すぐ
駐車場:有料駐車場
開館時間:午前10時
閉館時間:午後5時(入館は4時まで)
休館日:毎週月曜日
年末年始(12月30日~1月4日)
入館料:大人300円 中学生以下無料

概要
建武元年(1334年)前後に、和泉国守護であった楠木正成が甥の和田高家を岸和田に派遣して岸和田古城を築かせた。その後、守護が楠木正成から山名氏清に代わり、和田氏もその一族と思われている信濃氏を入れたと伝わっているので、『日本城郭大系』によるとおそらく応永年間に現在の地へ移築されたと解説している。応永15年(1408年)細川頼長と細川基之が和泉国の上下半国守護となり岸和田城の城主となったようで、明応9年(1500年)には、和泉上守護細川元有と和泉下守護細川政久が畠山尚順に攻められ岸和田城で討ち死にした。その前後から松浦氏が守護代となり松浦盛・松浦守父子が岸和田城に在城した。

永禄元年(1558年)には、三好長慶の実弟・三好実休、十河一存、安宅冬康が岸和田城に入った。永禄3年(1560年)には三好実休が大規模な改修をし、十河一存、安宅冬康を総大将に2800兵を籠城させた。この時には岸和田城も相当な規模となっており、阿波国、讃岐国、淡路国などから摂津国、京への交通の要となっていた。現在の二の丸(二の丸公園)にある市民道場「心技館」の建設時に、今の石垣の内側に更に古い石垣の列が発掘されたことにより、当時は海に面した二の丸周辺が主郭ではないかと思われ、海を背負った城郭の基礎がこの時に完成したのではないかと推測されている。

永禄5年(1562年)畠山高政との久米田の戦いで三好実休が戦死すると、安宅冬康は岸和田城を退き代わって守護・細川刑部(細川晴貞)が城主となった。しかし同年の教興寺の戦いで畠山高政が大敗すると、再び三好長慶軍が岸和田城を回復し、松浦虎が城主になった。だが、当時松浦氏は一族に内紛を抱えていたらしく、この時城主になった松浦虎(孫五郎)は松浦万満(孫八郎)の対立者であったと推定され、後に同じ肥前守と名乗った松浦光(孫八郎)に城主が交替したことが確認できるなど、三好氏と畠山氏の狭間にあって松浦氏は混乱のうちにあったと考えられます。

元亀年間において松浦光が岸和田城主となっており、天正3年(1575年)に家来であった寺田又右衛門、寺田安太夫(松浦宗清)兄弟に討たれ、松浦宗清が城主となった。天正5年(1577年)、織田信長は紀州征伐を行い、紀伊方面の抑えとして織田信張を佐野砦に置いた。その後、織田信張は岸和田城へ移った。天正10年(1582年)、和泉一国が蜂屋頼隆に与えられ、岸和田城がその居城とされた。

天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じる。

天正12年(1584年)根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。これに対して中村一氏と松浦宗清は城兵8000兵で守り切った。この功により松浦宗清は加増されて、伊勢国に転封となった。

天正13年(1585年)根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、豊臣秀吉は岸和田城に入城しそこから貝塚の諸城を落城させ最後に積善寺城、沢城を開城させた。この合戦の後、豊臣秀吉は小出秀政を岸和田城の城主とした。
小出秀政の知行も、文禄4年(1595年)3万石に拡大、この年から天守が築城され慶長2年(1597年)に竣工したと記している。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、のちに北条氏重、その後は小出吉英、元和5年(1619年)松平康重が城主となったようである。その後寛永8年(1632年)に伏見城が破却されると矢倉などが移築され城郭が強化された。その松平康重も山崎城へ転出すると寛永17年(1631年)、高槻城より岡部宣勝が入城し、6万石の城主となった。以後岡部長職の時代まで岡部氏13代の居城となる。明治4年(1871年)廃藩置県により岸和田城も廃城となる。



二の丸公園





残念ながら休館日で中には入れませんでした。
本丸へ虎口(復興多聞櫓)







本丸南東側の犬走り






岸和田城へのアクセス

岸和田古城

所在地:大阪府岸和田市野田町1
別名:岸の城
築城年:建武元年(1334年)前後
築城主:和田高家
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

概要
通称「照日山」と呼ばれている小さな高まりがあったこの地には、大正10年(1921年)に大阪府により「和田氏居城伝説地」と刻まれた石柱が設置されていました。
14世紀前半に楠木正成の一族である和田高家が「岸」と呼ばれていた当地に城郭を築いたことから「岸の和田」すなわち「岸和田」という地名が起こったという伝承にちなんだものですが、この伝承は江戸時代になってからいわれはじめたようです。江戸時代につくられた「岸和田古城図」(大阪歴史博物館所蔵)には、「本城」・「二ノ郭」・「二之郭」などが記載されています。
平成18年から翌19年にかけて高まり部分の発掘調査が行なわれ、濠や土塁、カマドなどが見つかりました。
発掘調査の結果は、古城図と合致する部分が多く、この場所が古城図の「本城」にあたる可能性が高いこともわかりました。
「本城」部分は、15世紀後半に築造され16世紀初頭には廃絶していたと考えられます。
また「岸和田古城図」を参考にすると、古城の範囲は東方の岸城中学校付近まで広がっていたことが推測されます。

平成22年2月 岸和田古城跡を考える会 岸和田市・岸和田市教育委員会(現地案内板)








岸和田古城跡へのアクセス

松尾寺城跡

所在地:大阪府和泉市松尾寺町
別名:
築城年:南北朝時代
築城主:松尾寺門徒
廃城年:
主な城主:松尾寺門徒
遺構:曲輪、石垣
指定文化財:大阪府指定史跡
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:主郭まで5分
駐車場:松尾寺駐車場

672年(天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まる。その後、泰澄が中興し、熊野、吉野、白山の権現を勧進した。
平安時代には当寺に住んでいた河内国の僧尋祐にまつわる奇瑞が『日本往生極楽記』や『今昔物語』などに記されており、鎌倉時代には源頼朝が祈祷所として保護している。
松尾寺の最盛期は、南北朝時代から室町時代であり、寺領7000石、寺坊308名、僧兵は数千人を数えたという言い伝えが残っているが、それを裏付ける文書等は現在のところ発見されていない。また、南朝との関係が深く、1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたという。南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。下って、織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束したのだが、織田信長は、4年後の1581年(天正9年)紀州高野山攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。 その後、豊臣秀頼の寄進などにより再建されたものである。













松尾寺城跡へのアクセス

稲葉城跡

所在地: 大阪府岸和田市稲葉町
別名:
築城年:文明5年(1473年)
築城主:稲葉元春
廃城年:
主な城主:稲葉氏・
遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財:府指定(菅原神社)
訪城日:2018年10月29日(月)晴
所要時間:主郭まで5分
駐車場:神社前

稲葉城跡は、文明5年(1473年)稲葉元春によって築かれたと云われる。城跡は神社西の裏手にあります。
天正8年(1577年)本願寺に与した稲葉弥治郎は紀州に応援に行った留守に織田軍の一隊に攻められて稲葉城が落城しました。この時に菅原神社も灰燼に帰したという。

菅原神社由緒
本社は文明十年九月九日元の稲葉城主稲葉元春氏により京都北野神社より勧請して鎮祭し奉りし所に依る 古来より稲葉天神と尊称して霊験弥々顕著遠近諸人は信仰浅からざりしが天正八年織田信長の兵火に罹り殿宇並びに一切旧記等烏有に帰し荒野となる 嘗て稲葉天神を信仰せし人々の協力奉仕に依りて社殿を再建し累代稲葉一村の氏神と仰ぎつゝ今日に至れり 明治四十二年十月二十一日神餅幣帛供進の神社に指定せられ昭和二十一年五月十七日宗教法人令に依って神社規則登記を届出て更に昭和二十四年八月二十七日國尊境内地譲與を許可せらる 昭和二十二年一月二十五日古来より存続の本座南座を含める氏子会を結成し互いに協心戮力神職を補佐して神社の維持経営と赫々たる神徳の発揚に努め中就両座の座老は氏子会を代表して各祭毎に必ず参列し哀心報賽の誠を表し居れり現地(由緒書より)




















極楽寺


稲葉城跡へのアクセス
         
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播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。