柳生城跡

所在地:奈良県奈良市柳生町
別名:なし
築城年:不明
築城主:柳生氏
廃城年:不明
主な城主:柳生氏
遺構:曲輪・土塁・堀切
指定文化財:なし
訪城日:2019年2月9日(土)晴
駐車場:柳生観光駐車場(有料 600円)

概要
柳生城は南北朝時代に大和柳生荘の豪族柳生氏が山上に城を築いたのが始まりとされています。城域は、芳徳寺の東南の山頂を主郭とし芳徳寺境内も城域に含んでいたようである。主郭の50m×60mの琵琶形の台地で畑地となって土塁などの遺構はないが堀切を隔てた郭には土塁を残している。主郭一段下に細長い郭には浄水施設がある。その南の堀切はよく残っています。

永珍から六代目の家厳(いえよし)の時、天文5年(1536年)、畠山氏重臣の木沢長政が信貴山に城を構え、大和国攻略に乗り出す。家厳は長政に従い、、筒井氏や二木氏らと戦った。しかし、木沢長政が天文11年(1542年)に河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭は柳生へ攻め込んできた。その兵力は一万余と言われる。柳生勢は善戦の末、家厳は宗厳を人質に出して順昭に降伏した。その後大和に三好長慶の重臣松永久秀が進出すると松永久秀に寝返り、大和攻略戦で活躍する。 松永久秀が織田信長に従属し大和に攻めこんだときにも久秀に属して筒井順慶を攻めた。後に筒井氏も信長に降り、大和の戦乱は収まった。家厳はこの直後、家督を宗厳に譲り、隠遁した。


市営観光者用駐車場からの登城口

芳徳寺



石舟斎塁城址の碑 左後方には土塁

登城口

登城口から山中に入ると堀切があります。

郭跡



土塁

郭跡

主郭



南郭




芳徳寺歴代住職の墓所

柳生家墓所


柳生城へのアクセス
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旧柳生陣屋跡

所在地:奈良県奈良市柳生町
別名:
築城年:1642年(寛永14年)
築城主:柳生宗矩
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:柳生氏
遺構:曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年2月9日(土)晴
駐車場:なし

江戸時代初期に将軍家の兵法指南役となった大和柳生藩初代藩主・柳生宗矩(むねのり)が、新陰流を創始した父柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の菩提を弔うために芳徳禅寺を建てたのち、寛永14年(1642年)に3年かけて完成させたという。『柳生藩日記』によると、坪数は1374坪(454㎡)、表は竹の枝門と記されている。その後、宗冬に増築整備されるものの、延享4年(1747)の火災により全焼し、仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。



















旧柳生藩家老屋敷
柳生藩の幕末の家老小山田主鈴の旧邸です。



長屋門



旧柳生藩家老屋敷説明板



旧柳生陣屋跡へのアクセス

柳生古城跡

所在地:奈良県奈良市柳生下町
別名:
築城年:元弘三年(1331年)
築城主:柳生永珍(ながよし)
廃城年:不明
主な城主:柳生永珍(ながよし)
遺構:曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年2月9日(土)晴
駐車場:なし

概要
柳生古城の詳細は不明ですが元弘三年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと計画していたが後醍醐の側近である吉田定房が幕府に密告した。後醍醐天皇は笠置山に潜行して挙兵した。弟の笠置寺衆徒中坊源専は笠置山の南一の木戸の将として、播磨守永珍は柳生に拠って幕府軍を迎え撃ったとされる。この時期に柳生永珍が築いた城とも伝えられる。
戦いは奮戦もむなしく、天皇方の敗北となり柳生一族は柳生の地を没収されました。

柳生の里
柳生の里については、古くは平安時代藤原氏や春日社が所領していたが、鎌倉時代に大膳永家が神領として奉行することとなるがこの時柳生を名乗ったようである。その後の柳生氏の動向は分からないが柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。


登城口

柳生の里説明板

郭跡



空堀

郭跡

堀切



主郭下の郭と土塁

主郭

剣塚

剣塚北側下

北郭

堀切

城域はこの辺あたりまでかも?


柳生古城跡へのアクセス

乙若城跡

所在地:奈良県奈良市月ヶ瀬嵩
別名:
築城年:南北朝時代
築城主:藤原義政
廃城年:不明
主な城主:藤原義政
遺構:曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年2月9日(土)晴
駐車場:待避所に止めれます

乙若城は、南北朝時代に南朝方の北畠親房の命により藤原義政が築きました。織田信長が伊勢の北畠具教を攻めた頃、廃城になったようです。


城山公園入口

藤原義政公碑と祠

藤原義政公碑

本郭

本郭



公園入口付近の景観


乙若城跡へのアクセス

石打城跡

所在地:奈良県奈良市月ヶ瀬石打字西広
別名:稲垣氏城、西広城
築城年:室町時代後期
築城主:稲垣氏
廃城年:不明
主な城主:稲垣氏
遺構:曲輪・土塁・横堀(空堀)・堀切・案内板・城跡石碑
指定文化財:県史跡(石打城跡)
訪城日:2019年2月9日(土)晴
駐車場:奥の神社付近に止めれます

概要
石打城は別名稲垣城とも呼ばれ文献上にはみられなかった城であり、三重県とはわずが1kmしかなく伊賀国の影響を強く受けていた地区でもあります。城主の家系といわれる稲垣家が江戸時代初期に火災に遭って古文書を焼失したことと稲垣氏が小村の土豪で主だった事績もなかったためと考えられる。
城跡は、四方土塁で囲まれた本郭を中心に南に、二の郭、三の郭と二の郭下に桝形を設けて、門口の両横には土塁を築き防御を固めている。また、東側には東の郭,本郭西には二条の堀と西の郭があります。この城は伊賀の築城形式の影響を受けて全く類似した形となり遺構をほぼ完全に残した貴重な城跡であります。 『日本城郭大系11より抜粋』


県道83号線脇に案内板があります。



城跡石碑

石打城説明板

伝屋敷跡

伝屋敷跡

登り口を入るとすぐに三の郭になります

三の郭



大手口

二の郭

本郭

本郭

本郭土塁

北虎口

南郭

郭跡と土塁

窪んでいるところが井戸跡?

東の郭

東の郭

一の堀切

空堀

西の郭

二の堀切


石打城跡へのアクセス
         
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播磨河内守

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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。