古宮砲台場跡

所在地:加古郡播磨町古宮
駐車場:付近に駐車出来ます
遺構:案内板
訪城日:2013年2月3日

十八世紀の末ごろから、鎖国状態の日本に対し通商を求めるロシヤ(現ソビエト連邦共和国)やアメリカ合衆国など欧米諸国の異国船の出現が頻繁になり、幕末の世論が「攘夷か開国か」で沸騰するなか、幕府は海岸に大砲を備えるなどして防備を厳重にし、文政八年(1825)には外国船打払令を出して、あくまでも鎖国を守ろうとした。そこで、姫路藩も、幕府の命により、嘉永三年(1850)、家島、室津に砲台を築き、さらに、文久三年(1863)に飾磨、福泊(的形)、高砂、古宮に砲台場を築いた。この砲台場跡は、姫路藩の東端に位置し、大阪湾を経て姫路領沿海に近づこうとする異国船を発見すれば大砲で威嚇する一方、姫路城に急を知らせるために設置されたもので、三門の大砲を備え、藩士によりこれを守らせていたと伝えられている。
この砲台場に異国船が近づいて、砲撃したという記録はない。しかし安政元年(1854)九月十五日にロシヤの使節プチャーチンが天保山沖(大阪湾)に現れ、十月三日に下田港へ向けて出航したが、その間の九月二十二日に代官中村五右衛門が兵を率いて当地で警備にあたった記録が残されている。
ここは、地方の人たちから砲台場が変化したのか「オダイバ」と呼ばれていた。

現在は工場が建っています。
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古宮砲台場跡案内板
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古宮砲台場跡へのアクセス
県道718号線望海公園北交差点を南下約100m
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本庄構居跡

所在地:兵庫県加古郡播磨町北本荘7丁目1-33 (蓮花寺)
築城年:嘉吉年中(1441~1443年頃)
築城主:不明
主な城主:菅原十三郎 古川次郎左衛門
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月15日

本庄構居 阿閇庄在本庄村領主ハ菅原十三郎 古川次郎左衛門 嘉吉年中(1441~1443年頃)(播磨鑑より)
阿閇の里(町制施行町制20周年記念誌)の中に少しだけ触れられており、その昔蓮花寺の周りには堀があったようです。また野添の野添の館の事も書かれていました。

蓮花寺山門前
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蓮花寺本殿
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ジョセフ・ヒコが家族のために建てたお墓
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ジョセフ・ヒコの説明板
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本庄構居跡へのアクセス



野添の館跡

所在地:兵庫県加古郡播磨町西野添
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:阿江三郎太夫
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月13日

野添の館跡 は何も情報が無く、築城年などの詳細は不明です。唯一、阿閇の里と言う書物に以下の文があったのみです。『阿江三郎、赤松の正繁の野添の館』

『志方町誌』で、加古郡阿江 阿江城主阿江三郎太夫という記述があるのですが、この阿江城がもしかしたらこの地なのかもしれません。よくわかりません。

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かなり古そうな石碑
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石碑の南側にある祠
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堀跡?のようにも思えます
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野添の館跡へのアクセス

西岡構居跡

所在地:兵庫県明石市魚住町西岡1636 (薬師院ぼたん寺)
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:不明
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:ぼたん寺参拝者用)
訪城日:2012年12月22日


「備前屋敷」といわれ、ボタン寺で有名な閼伽寺西方の大地に城跡がある。(日本城郭大系12巻)
領主不詳里人備前屋敷ト云傳フ(播磨鑑)

ぼたん寺由緒

五輪の塔

案内板

ボタン寺(閼伽寺)の西隣にある天王神社

天王神社案内板


西岡構居跡へのアクセス

大蔵谷城跡

所在地:兵庫県明石市大蔵本町 大蔵院
築城者:赤松祐尚
築城年:嘉吉元(1441)
主な城主:赤松祐尚、小松原永春
廃城年:不明
駐車場:大蔵院参拝者用
訪城日:2012年11月8日


大蔵院山門
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嘉吉元年(1441)赤松円心の孫、祐尚は大蔵谷に陣を構えた。居城を三木城に移すにあたり、陣屋のあとを寺院にしたといわれている。(案内板より)

天正6年(1578年)には秀吉の毛利攻めの一環として高山右近が大蔵谷城攻めの兵火により、近隣にある稲爪神社も焼失しています。

院内にある赤松祐尚夫婦のお墓

赤松祐尚夫婦のお墓標柱


大蔵谷城跡へのアクセス

明石城跡

所在地:兵庫県明石市明石公園
別名:喜春城、錦江城
築城年:1618年(元和4年)
築城主:小笠原忠真
主な城主:松平氏(越前系)
廃城年:1874年(明治7年)
駐車場:数箇所あり(有料)
訪城日:2012年11月8日


築城以前は柿本人麻呂を祀る人丸塚があったといい、嘉吉の乱(1441年)ではここは激戦の地になったほどに要衝の地を占めている。

この城は大阪の役の戦功により1617年(元和3年)7月、明石十万石を賜わって信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真(初代は忠政)が船上城に入り、2代将軍徳川秀忠より築城命令された。

明石築城時の資材は一国一城令で廃城になった三木城、高砂城、船上城、枝吉城などが解体使用されたという。

本丸跡(約3000坪)

二の丸跡(約1500坪)



本丸の西南に天守台の広さは約152坪がある。広さから推察すると5重の天守が築かれる予定だったが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設された。『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守閣の代用となっている」としている。そのうちの南側の2棟すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されている。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)とした。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めた。

巽櫓(伏見城の遺構)
本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりである

坤(ひつじさる)櫓(船上城の遺構)
桁行6間(10.90m)、梁間5間(9.09m)、高さ7間2尺9寸(13.60m)、の入り母屋づくりで、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓とまったく異なっている。

艮櫓跡

艮櫓跡案内板


明石城跡へのアクセス
JR山陽本線、明石駅、または山陽電鉄、明石駅下車、北へ徒歩1分。

織田家長屋門跡

所在地::兵庫県明石市大明石町2丁目
訪城日:2012年11月8日

明石藩歴代の家老や重臣達が住む屋敷がこの辺りに並んでいました。現存しているのは織田家の表門(明石市指定文化財)だけです。門の扉に使われている装金具は、室町時代の様式です。

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廃城となった船上城の侍屋敷の長屋門を使用と伝えられる。
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織田家長屋門跡へのアクセス
JR「明石」又は山陽電車「山陽明石」駅下車、県立明石公園のお堀沿いに、西へ徒歩約8分

和坂(かにがさか)構居跡

所在地: 兵庫県明石市和坂一丁目(坂上寺)
築城年:延元年間(1336~1340年)
築城主:赤松信濃守範資
主な城主:赤松信濃守範資、赤松教康
廃城年:不明
駐車場:境内に駐車
訪城日:2012年11月8日

延元年間(1336~1340年)赤松信濃守範資が、和坂に築いた。嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱において、赤松満祐の子、赤松教康が陣を敷いた場所です。


坂上寺本殿
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赤松範資について

鎌倉時代から南北朝時代の武将、守護大名。摂津・播磨守護。赤松則村(円心)の嫡男。兄弟に貞範、則祐、氏範、氏康らがいる。子に光範、朝範、直頼、師範、則弘、則春、範実。官位は信濃守、左衛門尉。
初め弟の貞範と共に摂津長洲荘(大阪府尼崎市)の代官に派遣されたが、元弘3年(1333年)、父が鎌倉幕府討幕のために挙兵した時に父に従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏は播磨国守護を与えられたにすぎなかったしかも播磨国の国司長官である播磨守には園基隆が任ぜられその補佐である播磨介には新田義貞補任(ぶにん)された。父、円心(則村)には不満の残る行賞であった。その後、都で1つの事件が起こる。”護良親王事件”である。建武元年(1334年)十月、後醍醐天皇は突如、護良親王を捕縛、幽閉し、12月には足利直義(ただよし)に命じて鎌倉に配流させた。それと連動して円心(則村)は播磨国の守護職を取り上げられ佐用庄のみが与えられた。建武2年(1334年)7月、『中先代の乱』が起こる。この時、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより室町幕府成立後、尊氏から摂津守護に任じられた。
正平5年/観応元年(1350年)、父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では尊氏・師直側に与して直義軍と戦い、打出浜の戦いに参戦している。しかし翌年、京都堀川七条の自邸にて急死。摂津は嫡男の光範が、家督と播磨は弟の則祐が継いだ。他の息子達はそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる。
光範の系統は七条氏として存続、この家系は戦国時代の明応5年(1496年)に赤松義村が惣領家に復帰し、以後関ヶ原の戦いの赤松則英、斎村政広まで4代続く事になる。また、傍流の赤松氏満の家系が江戸時代に大身旗本として幕末まで存続した。
円心の弟という説もある。また、義村の代まで則祐の家系と交互に家督を相続したという説もある。

赤松教康について

第6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教康と名乗った。
嘉吉元年(1441年)6月24日、父の満祐や叔父の赤松則繁と共に将軍・足利義教の暗殺に中心的な役割を果たした。そして父や叔父と共に播磨に帰国する。
その後、赤松氏は山名宗全や細川持常らを大将とした幕府軍の追討を受けた。8月24日に赤松軍を率いて和坂に陣を構えて、人丸塚にいた持常や赤松貞村、武田信賢らの幕府軍を破った。8月25日にも細川軍を破り、武将の吉川経信の侍大将らの多くを戦死させた。しかし8月26日、但馬方面から山名軍が播磨に侵入したため、坂本に撤退。このとき前日の雨で増水していた加古川を無理に船や筏で渡ったため、将兵の大半が溺死して一時は教康もこのとき溺死したと噂された。しかし坂本も落ち、赤松家居城の城山城に籠もる。しかし城山城は山名軍を主力とした総攻撃を受け、9月10日に父の満祐は自殺した。教康は満祐の命を受けて赤松氏存続のために17人の供回りと城の西南から脱出し、室津から船で妻の父にあたる伊勢多気城の北畠教具のもとへ逃亡した。教具は3日ほど城内に滞在させたが、やがて厄介者として馬場城に身柄を移した。そして教具は幕府からの討伐を受けることを恐れて教康を匿うことを拒絶。
これにより絶望した教康は9月28日に伊勢で自殺して果てた。享年19。その首級は10月1日に京都に送られ、幕府によって赤松屋敷に晒された。
(『播磨赤松一族』より抜粋)

大蟹伝説
平安時代初期、和坂村には二つ池と云う池があり、その池の中には大きな岩がありこれを蟹ヶ岩と云いました。この岩には大蟹が住んでおり行きかう人々を襲って苦しめていたそうです。そこへ諸国を巡礼していた弘法大師が大蟹の事を知り、その岩に封じ込めたそうです。それ以来この村は蟹和坂村と云い後に蟹の文字が略され和坂村(かにがさかむら)になったと云うそうです。

和坂構居へのアクセス

魚住城跡

所在地:兵庫県明石市大久保町西島
別名:西嶋城
築城年:14世紀半ば
築城主:小出吉英
主な城主:魚住氏
廃城年:天正8年(1580年)
駐車場:なし(近くのグランドに駐車)
訪城日:2012年10月31日

播磨五泊の一つ魚住泊の元に発展した地に14世紀中頃に魚住長範が築いた城。その後代々の居城となっている。
三木合戦のおり魚住頼治が城を魚住中尾付近から西嶋へ移し毛利側の別所氏についたが、天正8年(1580年)三木城の落城の後に廃絶。近年の発掘調査によって城の遺構の一部が発見された。
魚住長範は姫路城主小寺頼秀の三男で、足利義詮が足利尊氏と共に山名時氏と戦った。文和4年(1355年)長範は摂津神南の合戦で戦死している。

↓すいませんボケた写真ですね^^;
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魚住城跡へのアクセス





船上城跡

所在地:兵庫県明石市新明町
別名:明石城、明石古城、林ノ城
築城年:永禄年間か1586年(天正14年)
築城主:別所吉親
主な城主:蜂須賀正勝、高山右近、池田利政
廃城年:元和2年(1616年)
駐車場:なし
訪城日:2012年10月31日

この城の築城については二説ある。別所吉親が林ノ城として築いた城と、高山右近が船上城として築城した城とがある。林ノ城が一旦廃城となり、その後右近が新たに築城しなおしたのではないかと考えられている。
永禄年間に三木城主別所氏の支城となり、別所長治の叔父別所吉親が築城したと言われている。この城の城下にある浄蓮寺に別所吉親が本尊と伝わる観音像が安置されている。その後大屋肥後守が城主となり天正6年(1578年)の三木合戦に織田信長方の稲田植元に占領され、天正8年(1580年)に蜂須賀正勝に与えられ、生駒政勝に城主が移り天正13年(1585年)に一旦廃城となった。
豊臣秀吉は四国征伐で長宗我部元親を降して関白となり、大規模な国替えを実行することになる。「天正の国替え」と呼ばれている。この時の国替えで明石与太郎則実に代わって明石郡を与えられた高山右近重友は、高槻城から船上城の築城と城下町建設に取り掛かる。
船上城は水城でもあった。船上川の河口部に港を築き、秀吉から大船二艘(もしくは小舟二百艘との説もある)を与えられ、宣教師から便も含め、瀬戸内航路を利用して堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていた。
その後天正15年(1587年)に発令されたバテレン追放令によって船上城を追放されてしまった。築城後わずか2年間で退城したことになる。右近の追放後は秀吉の直轄領となり何人かの城番が置かれたようである。
慶長20年(1615年)の大坂の陣で大坂城が落城すると、江戸幕府は「一国一城令」で船上城は支城としての機能は失ったと思われている。そして翌元和2年(1616年)には池田光政らは鳥取城に移動(鳥取藩)、代わって小笠原忠真が船上城に入城し東播磨に明石藩が新設される。元和5年(1619年)に明石城を築城したため、船上城は廃城となった。右近が船上城としてから29年間のことであった。


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船上城跡案内板
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船上城跡へのアクセス
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プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。