撫養城

所在地::徳島県鳴門市撫養町林崎北殿
別名:岡崎城・林崎城
築城年:天正13年(1585)
築城主:益田内膳正忠
廃城年:寛永15年(1638年)
城主:益田内膳正忠・真下飛騨守(長宗我部氏配下) 、蜂須賀氏
遺構:本丸跡・石垣・(模擬天守)
訪城日:2016年3月5日
所要時間:駐車場から5分

築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。
その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、天正10年(1582年)、長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を長宗我部元親の配下である真下飛騨守が守備する。
天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた。
一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。

ここから登城

模擬天守裏側に着きました。

景観

撫養城模擬天守

門は閉まってます。

妙見神社

案内板

妙見神社境内左側の石垣

妙見神社境内右側の石垣


撫養城へのアクセス
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木津城

所在地:徳島県鳴門市撫養町木津
別名:なし
築城年:永禄年間(1558~70)
築城主:篠原備前守入道自遁
城主:大代掃部介・東条関之兵衛
廃城年:天正10年
遺構:なし
訪城日:2016年3月5日
所要時間:山頂まで15分強

永禄年間(1558年 - 1570年)から三好氏の武将篠原自遁が守っていた。1582年(天正10年)の長宗我部元親による阿波侵攻では、十河存保方についたものの、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの織田信長が本能寺の変で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し淡路へ逃走した。
長宗我部元親領有後は腹臣である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる。1585年(天正13年)、羽柴秀吉による四国攻めでは、羽柴秀長の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた。

現状
太平洋戦争中には徳島航空隊の特攻隊基地や退避壕によるトンネルが掘られ、1958年には山頂に配水池が作られるなど、遺構の保存状態は良くない。1963年に鳴門市史跡に指定され、2004年から発掘調査と城山の公園整備が進められ、2009年頃に木津城山公園が完成した。

木津城登城口

ほぼ直登ぽいです。堀跡

削平地

頂上付近の石垣?

本郭にある配水池

降りてきたのはこちら。こちらからの方が登りやすいかもです。

木津城山公園

木津城山公園内


木津城へのアクセス

大代城

所在地:徳島県鳴門市大津町大代字宮代
別名:大代塁
築城年:天正年間(1573~92)
築城主:大代掃部介
城主:大代掃部介
廃城年:天正10年
遺構:なし
訪城日:2016年3月5日
所要時間:なし

勝端城の外城として木津城の西方およそ一km、加久美神社の社市地周辺にありました。木津城篠原自遁の娘婿(一説には妹婿)
大代掃部介が30貫を領しました。四方が深田と沼で、要害の地といわれた。天正六年(1578年)、十河存保が勝端城へ入城しようとした時、弟、三四郎共々、篠原自遁の尖兵となって戦ったが、結局は破れ、存保の軍門に降った。その子、内匠は天正十年、中富川の合戦で討死し、大代城は落城しました。

加久美神社

加久美神社境内

加久美神社社殿


神社裏手



大代城へのアクセス
         
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