烏帽子形城跡

所在地:大阪府河内長野市喜多町
別名:押子形城
築城年:元弘2年/正慶元年(1332年)
築城主:楠木正成
廃城年:元和3年(1617年)
主な城主:楠木氏、甲斐庄氏(橘氏)
遺構:曲輪、空堀、土塁、井戸
指定文化財:国指定史跡、市指定文化財
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:烏帽子形公園駐車場(無料)

概要
烏帽子形城は、楠木正成が上赤坂城の支城として築いたものと伝わっています。城の創建は『平家物語』には源行家が播磨国の室山で平教盛らと戦って敗れ河内の長野城に篭城するが、寿永3年(1184年)木曽義仲の家臣樋口兼光を遣わし長野城を攻め落とすが、その間に木曽義仲は粟津の戦いで討ち死にした。元弘年間(1331~34)には、楠木正成の武将高向氏が拠っており正平年間(1346~70)には、正儀、正勝、正秀など楠木氏が居城したとあるが、北朝方の畠山国清も当城に拠り畠山義深も当城下で亡くなったといわれており北朝と南朝が争奪していたと思われる。畠山義就と畠山政長との家督争いの時には、石川氏、甲斐庄天文年間(1532~55年)には楠木正季の子孫である甲斐庄隆成が城主であったが畠山定国に攻められ落城する。弘治年間(1555~1557年)から永禄(1558~70年)初年にかけて 碓井定純、碓井定阿が城主となったが三好勢に攻められ落城。元亀年間(1570~73年)橘(甲斐庄)正治が、天正年間(1573~92年)には橘長治が城主となった。 甲斐庄正治は河内の錯乱により国を離れ、浜松で徳川家康に仕えたが、大坂の陣で甲斐庄正治の子正房が幕府方として河内の道案内を行ったことにより、甲斐庄氏は戦後加増されて旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくることが出来たという。この城は正房を最後の城主として、元和3年(1617年)に廃城になった。



烏帽子形八幡神社本殿

烏帽子形城説明板

平成30年9月4日に発生した台風21号の倒木等の影響により立ち入り禁止となっています。





公園側に回ってみました。



やはりこちら側も立ち入り禁止になってます。





烏帽子形城跡へのアクセス
行った約2週間後の令和元年8月24日付けで立ち入り禁止措置は解除されています。


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西代藩陣屋跡

所在地:大阪府河内長野市西代町
別名:
築城年:正徳元年(1711年)
築城主:本多忠統(ただむね)
廃城年:享保17年(1732年)
主な城主:本多忠統
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:西代神社

概要
西代陣屋は、長野小学校から長野中学校の敷地にあったことが江戸時代の絵図に描かれています。この西代藩は、近江膳所藩主・本多康将延宝7年(1679年)、父の隠居に伴い近江国高島郡・甲賀郡、河内国錦部郡の内1万石を子の本多忠恒に分与されたのが始まりです。忠恒は、宝永元年(1704年)に没し、跡を次男の忠統が継いだ。そして 正徳元年(1711年)本多忠統によってこの地に陣屋が置かれました。享保17年(1732年)に伊勢神戸藩に移封となり廃城となります。


陣屋の模擬門

説明板


西代藩陣屋跡へのアクセス
ラブリーホールの所にも説明板があります

金胎寺城跡

所在地:大阪府富田林市伏見堂
別名:
築城年:元弘2年(1332年)
築城主:楠木正成か
廃城年:16世紀後半
主な城主:佐備氏、甲斐庄氏
遺構:曲輪
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:使用されていなければ嬉町会館に駐車OK

概要
伝承では、正慶元年(1332年)もしくは元弘年間(1331年~1334年)に、楠木正成が築城し、佐備正忠が依ったとされる。また、正平年間(1346年~1370年)に、楠木正儀・和田正武らによって築城されたとも言われる。これらの伝承により、楠木七城や、楠公十七支城のひとつに数えられる。
史料としては、畠山義就が嶽山城に籠城した際、『新撰長禄寛正記』寛正2年(1461年)に「金胎寺と嶽山両城に兵をこめ」とあるのが初出である。翌寛正3年(1462年)に金胎寺で合戦があり、金胎寺城は天険の要害であったため、寄せ手の泉州勢を散々に打ち破ったという。しかし義就方は寡兵であり、また寄せ手の筒井勢の計略もあって、同年5月に金胎寺城は落ちた。義就は嶽山城から没落し紀伊に逃れたが、文正元年(1466年)9月に壷阪寺を経由して金胎寺城に入り、押子形城(もしくは升形城。烏帽子形城とされる)を落とした。
義就は事実上の守護として南河内を支配し延徳2年に病死した後は、嫡男の畠山基家があとをついだ。明応2年(1493年)、将軍足利義材や畠山政長が河内を攻めると、基家は誉田(高屋城)に籠城し、基家方の甲斐庄氏などが金胎寺城に入った。
『日本城郭大系12参照』


登城口の柵を開けて入ります。

イノシシ除けの鈴

大門跡
金胎寺を含む寺群の入り口として大門があり運慶作の仁王様がありました

金胎寺跡

金胎寺跡

馬廻

楠木軍兵舎跡

金胎寺城本丸

景観

金胎寺城跡説明板

景観

金胎寺城跡本丸


金胎寺城跡へのアクセス
嬉町自治会館を目指します。

嶽山城跡

所在地:大阪府富田林市大字龍泉
別名:龍泉寺城、岳山城、東条城
築城年:元弘2年(1332年)
築城主:楠木正成
廃城年:永正5年(1508年)
主な城主:楠木氏、畠山氏
遺構:曲輪、空堀
指定文化財:
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:かんぽの宿富田林

概要
嶽山城は、南北朝時代では南朝方の佐備氏が守将となって防衛に当たっていたが、延元2年/建武4年(1337年)、北朝方の細川顕氏の攻撃により激戦の末陥落した。その後、南朝方が奪還して楠木正儀・和田正武の軍が千人ほどいたが、正平15年/延文5年(1360年)に北朝方の細川清氏、赤松範実によって落とされた。以後は河内守護畠山氏の支城となる。
室町時代中期になると畠山氏にお家騒動が発生、畠山政長に家督や河内・紀伊・越中・山城の守護職を奪われた上に治伐の綸旨まで出され、朝敵にされた畠山義就が長禄4年(1460年)12月、籠城を開始する。ここに応仁の乱の前哨戦とも言える嶽山城の戦いが開始され、2年以上も細川勝元や政長を中心とする幕府軍を散々悩ませたが、寛正4年(1463年)4月15日、成身院光宣の計略によって嶽山城は陥落した。義就はひとまず高野山に逃れ、紀伊を経て最終的に吉野に落ち延びた。
永正5年(1508年)には義就の孫の義英は細川勝元の孫の澄元と合戦となり、嶽山城に立て籠もった。しかし、澄元の家臣である赤沢長経に攻め落とされて落城。義英は城を捨てて逃亡した。 城はこの後の畠山氏の没落と共に廃城になった。


かんぽの宿 富田林



テニスコートの脇を奥に向かって入ります

本丸


嶽山城址は南北朝時代、元弘2(1332)年、楠木正成によって築かれた城です。
「太平記」34巻(龍泉寺軍の事)によると、楠木正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせて守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。この時、木の梢などに旗を結わせ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山にいた奇手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒らに150日余りを過ごした。ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶や林に帰る烏が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360)年細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされました。その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場となり、永正5(1508)年に落城したといわれています。
「現地説明板より」

説明板と城跡碑

土塁かな?


嶽山城跡へのアクセス
         
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