丹南藩陣屋跡

所在地:大阪府松原市丹南3丁目4-10(来迎寺)
別名:なし
築城年:元和9年(1623年)
築城主:高木正次
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:高木氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:来迎寺

概要
初代藩主高木正次は関東、及び近江国に9千石を領する旗本であったが、元和9年(1623年)大坂城定番となる。この時、1千石の加増を受け、河内国丹南郡に1万石を与えられ、陣屋を築いた。 6代正陳の時、江戸定府となった。元禄12年(1699年)所領の一部を下野国足利郡に移された。 13代正善の時、明治維新を迎えた。
なお、陣屋の御殿の客殿の一部が来迎寺の奥座敷として明治維新後に移築現存されていたが、取り壊されてしまい、現存しない。(非公開となっている)。 陣屋の隣にある高木氏の菩提寺である来迎寺山門前に陣屋の碑と説明版がある。陣屋跡は現在工場敷地や民家となっていて、陣屋の遺構を見る事は出来ない。









丹南藩陣屋跡へのアクセス
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丹下城跡

所在地:大阪府羽曳野市南恵我之荘7丁目・大阪府松原市西大塚1丁目
別名:なし
築城年:鎌倉時代初期
築城主:丹下氏
廃城年:天正3年(1575年)
主な城主:丹下氏
遺構:曲輪、堀(周壕)
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
丹下城の創築年代は明確でないが、鎌倉時代初期、この地方に鎌倉より下向し土着した佐々木高綱の子孫の丹下氏が築造したものである。南北朝時代初年には、丹下氏は楠木方に属したが、建武四年(1337年)には北朝方に属し、南朝方の攻撃を受けている。また、翌年も南朝方の和田氏の攻撃えお受け、数日間の攻撃に耐えている。当時の城主は丹下八郎太郎といったようで、丹下氏は松原荘にも城郭を構え(支城か)、そこを攻められ息子が討たれている。
以後、戦国時代末期に至る間、丹下氏の動向は不明だが、天正三年(1575)の織田信長の河内国城郭破却令によって丹下氏は退城し、丹下城は破却された。この時丹下氏は島原の開墾を命ぜられ、帰農してその地に居住し、姓を吉村と名乗った。丹下城は大塚山古墳を利用したものだが、大塚山古墳そのものは、北面する三段造りの五世紀後半から末期にかけての大型前方後円墳である。一般の立入が禁じられているため、踏査はできないが、古墳そのものの墳丘・周濠が城に利用されているから、城郭らしい遺構はないと思われる。『日本城郭大系第12巻より』









丹下城跡へのアクセス

一津屋城跡

所在地:大阪府松原市一津屋5-8-19(厳島神社)
別名:なし
築城年:南北朝時代
築城主:和田氏
廃城年:天正3年(1575年)頃か?
主な城主:和田氏・三好氏
遺構:曲輪、堀(周壕)
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
一津屋城は、前方後円墳を利用した砦跡であり、南北朝時代には、楠氏の一族である和田氏が砦として守り、一津屋城と名づく。河内誌に一津屋城は戦国時代に三好駿河守の所有とある。伝説によると当時、村の西方にある「城の本」(現在の松原第七中学校あたり)に本城があり、その出城であった。急変があると、鐘を撞き、城内に知らせたことからその地名が残ったとの伝承がある。また、戦国時代に、三好駿河守がこの城に拠ったと伝えているが、駿河守とはだれかなど不確かである。廃城時期は、信長が河内国の諸城の破却を行わせた天正3年(1575年)の可能性が強いが正確なことは不明です。本丸と伝えられている所には、厳島神社が祀られており、現在、北側および東側に堀が残っている。







堀跡

堀跡




一津屋城跡へのアクセス

高屋城跡

所在地:大阪府羽曳野市古市5丁目から7丁目
別名:城山、畠山城
築城年:文明 - 明応年間(1469年 - 1501年)
築城主:畠山基国か畠山義就
廃城年:天正3年(1575年)
主な城主:畠山氏・安見宗房・三好氏
遺構:空堀、土塁等
指定文化財:高屋築山古墳部分が宮内庁治定
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
この城は、安閑天皇陵を本丸とし、その南側に二の丸さらに南に三の丸を有しここを舞台に数多くの合戦が繰り広げられています。通説では、応永年間(1394年 - 1428年)に畠山基国が築いたとされ守護代の遊佐氏が城代を務めていた。しかしこの時期の文献には高屋城との記載は見受けられず、古市城や誉田城との区別が明瞭でなく、高屋城が登場するのは、応仁の乱後文明11年(1479年)頃で、築城者は畠山義就によるものと考えられています。高屋城の城主は河内の守護を兼ねていた人物が多く、10名前後、30回以上入れ替わっており、交替が頻繁におこる。永禄元年(1558年)に安見宗房が畠山高政を追放し城主になったが、高政は三好長慶に援軍を頼み、永禄2年(1559年)に高屋城を落城させて安見宗房を追放し、高政を高屋城に復帰させた。しかし、長慶に救援してもらったにもかかわらず畠山高政は安見宗房を復権させました。これに憤慨した長慶は翌永禄3年(1560年)に再び高屋城を落城させ高政・宗房を追放し、河内の支配を手中にすると、弟の三好実休を高屋城に据えた。しかし、またしても翌永禄4年(1561年)に高政が高屋城を奪回、翌永禄5年(1562年)に高政が教興寺の戦いで敗れると長慶の甥の三好義継が城主となった。 三好三人衆と仲違いした義継は高屋城を離れ、翌永禄11年(1568年)に隙をつき三好康長が入城したが、芥川山城が織田信長によって落城すると、康長は阿波に落ち延びていった。畠山高政は永禄8年(1565年)家督を弟の畠山秋高に譲って秋高は高屋城に復帰した。しかし、義昭派の重臣遊佐信教によって攻められ自害した。 遊佐信教は三好康長を城に引き入れて籠城を行うも天正3年 (1575年)信長軍に攻められ開城。三好康長は信長の家臣となったが遊佐信教は大坂本願寺と共に以後も信長と闘った。 以後、城としては利用されなかったようで、この時に廃城になったと思われる。



安閑天皇陵






高屋城跡へのアクセス
城山北交差点東側にある城山姥不動明王周辺一帯が二の丸跡のようです。そこに高屋城跡の説明板もあります。
         
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