小山城跡

所在地:大阪府藤井寺市津堂1丁目44(津堂城山古墳)
別名:三好の城山、志貴城
築城年:南北朝時代
築城主:志貴右衛門
廃城年:天正3年(1575年)
主な城主:畠山氏・安見氏・三好氏
遺構:曲輪、堀(周壕)
指定文化財:国指定史跡
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
河内小山城は、南北朝時代の初頭、八尾の別当兼幸と対抗した南朝方の志貴右衛門が拠った城と伝えられており、創築年代は南北朝以前かと思われるが、その当時は砦であったといわれている。その後、畠山義就が重臣安見備中守清時を小山城主とし、以後、安見氏が数代居住した。永禄九年(1566年)、小山城は三好康重に攻められ落城した。その後、小山城は三好氏の支配下に入ったが、天正元年(1573年)、織田信長軍の若江城攻めの時、小山城も攻撃され落城した。同三年、信長の河内の諸城破却によって廃城になったと思われる。『日本城郭大系12参照』

津堂八幡宮参道

津堂八幡宮由緒略記

津堂八幡宮

本丸跡

二の丸跡

周濠跡






小山城跡へのアクセス
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半田城跡

所在地:大阪府大阪狭山市半田1
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:土塁
指定文化財:なし
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:狭山神社

概要
半田城跡は、狭山神社に北接し、その広さは、東西二町、南北三町とされ中位段丘崖の落差を防御地形として利用する中世城郭である。この城は、南北朝時代には北朝方の拠った砦で、建武4 年・延元 2年(1337年)河内国高木遠盛や佐備正忠が南朝方として手兵が半田城を攻めています。また、明応年間(1492~1501)には埴田右近が半田城を居城したとも 伝えられるが、詳細は不明である。 『日本城郭大系』第12巻より








半田城跡へのアクセス

狭山藩陣屋跡

所在地:大阪府大阪狭山市東池尻3丁目
別名:なし
築城年:元和2年(1616年)
築城主:北条氏信
廃城年:1871年(明治4年)
主な城主:北条氏
遺構:曲輪、案内板
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2019年8月13日(火)晴
駐車場:なし

概要
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐により、後北条氏5代当主北条氏直が高野山にて蟄居を命ぜられ、これに氏直の叔父にあたる北条氏規も従った。翌年赦された氏直は秀吉から1万石を与えられたが、程なくして死去し、後北条氏の本家筋は絶えた。
立藩前夜、氏直から家督を相続した氏規は河内国に7千石を拝領し、大坂屋敷で政務を執っていた。慶長5年(1600年)に氏規が没すると、氏規の嗣子である北条氏盛は、遺領7千石と下野国に拝領していた自身の4千石を併せて1万1千石の外様大名となり、狭山藩が立藩され、初代狭山藩主となった。
陣屋は広大な狭山池の東畔に築かれた。元和2年(1616年)、2代氏信の代に陣屋を池尻村に設置し、3代氏宗の代に本丸にあたる上屋敷が完成した。5代氏朝の代には東除川対岸の半田村に下屋敷が完成した。以後12代氏恭の代まで続き、明治維新を迎える。 御殿は天明2年(1782年)に焼失し、天明6年(1786年)に再建された。 現存門は堺市の西本願寺別院に移築されています。



狭山陣屋説明板(こちらは小学校裏手にある説明板です)





残念ながら御殿跡の小公園は未訪問です。

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