城ヶ市城跡

住所 :兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷
築城年:不明
築城主:不明
城主 :不明
訪城日:2014年5月11日

登城口


主郭

主郭にある秋葉神社


城ヶ市城跡へのアクセス
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出合城跡

所在地:兵庫県神戸市西区中野1、2丁目
築城年:不明
築城主:不明
城主:明石氏?
訪城日:2014年5月11日

詳細はわかりません





出合城跡へのアクセス

菅野城跡

所在地:兵庫県神戸市西区櫨谷町菅野
別名:朝堀城・玉造城
築城年:不明
築城主:不明
城主:明石越前守尚行
訪城日:2014年5月11日

明石越前守尚行は、1429年前後(永享元年前後)に枝吉城を築き、後に支城である菅野城や伊川城・下津橋城などを築き一族を配置したと思われる。

明石尚行(越前守)は応仁の乱で東軍に属し、山名方の勇者、片山備前守を1467年(応仁元年)に討ち取り、その子祐実は兵庫で大内政弘と戦っている。16世紀半ば以降は三好氏と行動を共にし、その滅亡も三好信吉(豊臣秀次)に殉じている。




岩嵩神社
昔から菅野の主といわれる白いヘビがいるという謂れにより、祠が建てられ、昭和初期に神社として祀ったとされます。


ほとんどの城跡サイトさんが、岩嵩神社周辺を紹介しているのですが、神戸市が菅野城跡としている場所は少しずれていまして、岩嵩神社より南西に種苗園があり、その裏山が城跡地になっています。


菅野の集落が経済的に困った時は城跡を掘れと言う昔からの言い伝えがありました。また、欲を出して掘った人が何人か死んだとも言われています。現在城跡は少し掘り下げられており、立ち寄る人も少ないようです。(実際、中まで進入して探索していませんので、どうなのか定かではないのですが、こちらの方が信憑性があるような気がします。)


菅野城跡へのアクセス(神戸市推定地)

太山寺城跡

所在地:兵庫県神戸市西区伊川谷町前開
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
訪城日:2014年5月11日

詳細は不明

こちらが登城口です。

大堀切

大岩の上に建つ帝釈観音堂

頂上の削平地(主郭かな?)

頂上にある石仏往来安全と彫られた仁王像等石仏


登城口にある車止めの向こう側の道には、兵庫県下最古の太山寺磨崖不動明王がありまして、 こちらを訪れた際には城跡と併せて見るのがいいかと思います。ちょっと判りにくいかもです^^;

説明板


太山寺城跡へのアクセス

西盛城跡

所在地:兵庫県神戸市西区押部谷町西盛
別名:近江寺砦
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
訪城日:2014年5月11日

詳細は不明 城は四郭に区画されており、主郭の大きさは東西45m、南北十八mで、空堀が残っている。


少し登って行くと次郎地蔵があります。


空堀

主郭


西盛城(近江寺砦)跡へのアクセス

押部城跡

兵庫県神戸市西区押部谷町福住
別名:福住(古)城
築城年:室町時代
築城主:不明
城主:押部弥太郎
訪城日:2014年5月11日
駐車場:なし

押部城は、神戸電鉄押部谷駅の裏山(通称城山)が城跡である。押部弥太郎が城主であったらしく、「三木法界寺文書」の「別所御内押部弥太郎孫伝聞之趣」に「押部谷一万石納む者也」とある。




押部城跡へのアクセス

端谷城跡

所在地:兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷923(満福寺)
別名:衣笠城
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:衣笠氏
廃城年:1580年(天正8年)
駐車場:なし
訪城日:2013年1月23日

衣笠氏がいつ頃に櫨谷の地に居住し、どこにその居館を定めたのかは不明であるが、端谷城の近くにあるといわれている。文応元年(1260年)以前の鎌倉時代中頃には櫨谷の荘園管理の任務についていたという説が有力である。また、『如意寺寺社改』には、文永年間に衣笠法眼が寺谷村に満福寺、福谷村に宝福寺を、衣笠左衛門佐が友清に新長谷寺を建立したとあり、一族は櫨谷川沿いの村々にそれぞれの居館を設けていたともいわれている。
端谷城を築城した年代は不明だが、衣笠法眼以来、衣笠氏は端谷城を本城として代々櫨谷の地を領有し、勢力を保っていたようである。嘉吉の乱では衣笠政重が、応仁の乱では衣笠祐盛が赤松氏に属して活躍している。祐盛は応仁の乱の戦功によって赤松政則から衣笠姓を与えられたと伝えられているが、鎌倉時代からすでに衣笠姓を名乗っていたとも考えられている。さらに『赤松記』には三石城主だった浦上村宗の乱に際し永正17年(1520年)12月に『公方様義晴将軍、御ともにて小塩御のきなされ、明石の沖にはし谷(端谷)と申所に衣笠五郎左衛門館にて御としをめされ』とある。これは、次期将軍足利義晴を奉じた赤松義村が端谷城に一時身を隠して、戦力の回復を図ったときのことを記したもので、衣笠氏の勢力を知る唯一の史料でもある。史料中の衣笠五郎左衛門というのは、最後の端谷城主となった衣笠範景の父範弘のことである。 そして、この範弘は櫨谷荘など18ヶ村を支配し、領民から『士民を愛すこと子の如し、士民の親しむこと父母の如し』と慕われていたという。
端谷城は衣笠範景のときに、三好長慶の攻撃を受け、別所方七ヶ城の1つとして天文23年(1554年)に落城した。その後、衣笠氏は長慶に属して各地の戦いに参戦している。
天正6年(1578年)、織田信長の家臣であった羽柴秀吉による三木合戦が開始された。その時範景は淡河城主淡河弾正忠定範、魚住城主魚住頼治、福中城主間嶋彦太郎らと共に人質を別所長治に送り、別所方についた。しかし善戦及ばず、織田家の侍大将織田信澄、生駒甚介、浅井新八、明石与四郎ら500騎以上の攻撃を受け、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となった。なお、範景の最期はわかっていないが、端谷城内にある満福寺に墓碑が残っている。
端谷城跡碑
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端谷城跡案内板
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三の丸跡(満福寺本殿)
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三の丸跡案内板
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衣笠範景公碑
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本丸等に行っておらず、中途半端な訪問になっていますのでまた再訪したいと思います。

端谷城跡へのアクセス






岡之屋形跡

所在地:兵庫県神戸市西区櫨谷町松本
駐車場:なし
訪城日:2013年1月23日

「源氏物語」第13帖に出てくる岡之屋形(岡部の館ともいわれる)は、明石の辺りを治めていた明石入道の娘で光源氏の恋人の明石の君が住んでいたとされている。明石入道は、光源氏が須磨で寂しく過ごしているのを知り、自分が住んでいた「浜辺の宿」に迎えた。その浜辺の宿から光源氏は岡辺の館にいる明石の君の所に通うようになった。
石碑には「月影の光る君住む跡とえは里の屋敷にしげる蓬生」と記されている。この地を「明石の史跡」にした第5代明石藩主・松平忠国の歌である。

岡之屋形跡石碑
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岡之屋形跡全景
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岡之屋形跡へのアクセス





池谷城跡

所在地:兵庫県神戸市西区櫨谷町池谷
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:別所祐盛・範弘
廃城年:不明
遺構:なし
駐車場:なし
訪城日:2013年1月23日・2014年5月11日

『赤松記』に「永正17年(1520年)12月16日の夜、公方様義晴将軍、御ともにて御塩御のきなされ、明石の沖にはし谷と申す所に衣笠五郎左衛門館に御にて御としを召され・・・・」とあり、『衣笠氏族譜』に衣笠範景、山頂に一城を築き之に移るとある。衣笠五郎左衛門というのは衣笠五郎左衛門尉範弘のことで、赤松氏の一族である。範弘の父は別所祐盛(すけもり)という。祐盛は赤松政則から応仁の乱の戦功によって「衣笠」の姓を与えられたと云われている。この祐盛・範弘父子らのいた城が池谷城である。

城の概要
標高102mの最高所に本丸・物見台を配し、随所に小さな削平地(郭)を設けている。土塁、堅堀、空堀、堀切など良好な姿で残っている。また大手口が北正面の平地に面してあったらしく虎口が竹林の中に残っている。
備考:再訪致しました。

池谷城跡登城道
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堅堀
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主郭にある2つの祠
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主郭
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池谷城跡へのアクセス



福谷城跡

所在地:兵庫県神戸市西区櫨谷町福谷(秋葉神社)
築城年:不明
築城主:衣笠五郎左衛門範弘
主な城主:
廃城年:天正8年
遺構:郭
駐車場:なし
訪城日:2013年1月23日

端谷城の衣笠五郎左衛門範弘により築城された支城の一つ。三木合戦に別所長治に付き、秀吉により天正8年には端谷城と運命をともにして落城した。福谷城は秋葉神社のある標高126mの尾根上に削平地(郭)が残っている。
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秋葉神社由緒
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福谷城跡へのアクセス


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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。