所在地:兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷923(満福寺)
別名:衣笠城
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:衣笠氏
廃城年:1580年(天正8年)
駐車場:なし
訪城日:2013年1月23日
衣笠氏がいつ頃に櫨谷の地に居住し、どこにその居館を定めたのかは不明であるが、端谷城の近くにあるといわれている。文応元年(1260年)以前の鎌倉時代中頃には櫨谷の荘園管理の任務についていたという説が有力である。また、『如意寺寺社改』には、文永年間に衣笠法眼が寺谷村に満福寺、福谷村に宝福寺を、衣笠左衛門佐が友清に新長谷寺を建立したとあり、一族は櫨谷川沿いの村々にそれぞれの居館を設けていたともいわれている。
端谷城を築城した年代は不明だが、衣笠法眼以来、衣笠氏は端谷城を本城として代々櫨谷の地を領有し、勢力を保っていたようである。嘉吉の乱では衣笠政重が、応仁の乱では衣笠祐盛が赤松氏に属して活躍している。祐盛は応仁の乱の戦功によって赤松政則から衣笠姓を与えられたと伝えられているが、鎌倉時代からすでに衣笠姓を名乗っていたとも考えられている。さらに『赤松記』には三石城主だった浦上村宗の乱に際し永正17年(1520年)12月に『公方様義晴将軍、御ともにて小塩御のきなされ、明石の沖にはし谷(端谷)と申所に衣笠五郎左衛門館にて御としをめされ』とある。これは、次期将軍足利義晴を奉じた赤松義村が端谷城に一時身を隠して、戦力の回復を図ったときのことを記したもので、衣笠氏の勢力を知る唯一の史料でもある。史料中の衣笠五郎左衛門というのは、最後の端谷城主となった衣笠範景の父範弘のことである。 そして、この範弘は櫨谷荘など18ヶ村を支配し、領民から『士民を愛すこと子の如し、士民の親しむこと父母の如し』と慕われていたという。
端谷城は衣笠範景のときに、三好長慶の攻撃を受け、別所方七ヶ城の1つとして天文23年(1554年)に落城した。その後、衣笠氏は長慶に属して各地の戦いに参戦している。
天正6年(1578年)、織田信長の家臣であった羽柴秀吉による三木合戦が開始された。その時範景は淡河城主淡河弾正忠定範、魚住城主魚住頼治、福中城主間嶋彦太郎らと共に人質を別所長治に送り、別所方についた。しかし善戦及ばず、織田家の侍大将織田信澄、生駒甚介、浅井新八、明石与四郎ら500騎以上の攻撃を受け、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となった。なお、範景の最期はわかっていないが、端谷城内にある満福寺に墓碑が残っている。
端谷城跡碑

端谷城跡案内板

三の丸跡(満福寺本殿)

三の丸跡案内板

衣笠範景公碑

本丸等に行っておらず、中途半端な訪問になっていますのでまた再訪したいと思います。
端谷城跡へのアクセス