杉原城跡

所在地:大阪府豊能郡能勢町杉原(仏称寺)
築城年:天文~永禄期(1532~1570)
築城主:長沢氏?
廃城年:不明
訪城日:2014年3月21日

ここ杉原地区は、能勢町の東の端に位置し、往古より「摂丹」つまり「摂津」と「丹波」の国境にあって、軍事上の要衝の地とされてきた。「・・・能勢郡吉野村へ越ス峠マデハ、堀越峠ヨリ山尾ニテ吉野村東山尾ヨリ桑田郡加舎村定杭ヘ見通ス国境ニ有之候事。慶長七年三月」と当時の国境について、「犬甘野村由緒書」に見える。
また、杉原村を通過する北西への街道は、国境に添って歌垣山の東山麓を通り吉野へ出て、そこから摂津路へ、丹波路へとするのが本街道であった。戦国乱世において、このような土地に城が築かれるのは当然なことである。
ここ杉原城址は村の中央の高台にあって、鎮守の森として八幡社が祀られているが、その一帯が、まぎれもなく戦国時代の山城の跡である。天保年間の村の古地図に、小字名として「城山」の名をとどめているし、遺構としても顕著に残っている。 八幡社へほぼ登りつめたところに、屈曲した「虎口」(入口)が見られ、そこを過ぎると、広い「郭」跡に出る。こうした郭跡は、西から押し出した尾根上に六ヶ所残っている。城址の最も高い所には、二ヶ所の「堀切り」と「土塁」が築かれ、さらに「竪堀」の施設があるなど、重要な防御点を示唆している。いうまでもなく、尾根続きの敵兵を遮断するためのものである。「本郭」の両袖には、「武者出し」か「武者かくし」を思わせる遺構もあり、あちこちに残る虎口には、「枡形」を思わせる複雑なものも見られる。
もともと杉原村には、慶長七年(1602)ごろまでは、丹波国桑田郡犬甘野村(現亀岡市西別院町犬甘野)であった。犬甘野といえば、口丹波に台頭した長沢一族の本拠地であり、杉原城は、その境目城、あるいは砦ではなかったかと思われるが、高橋成計氏は、丹波の数掛城(現亀岡市本梅町)の出城として、吉野城(現能勢町吉野)・杉原城が築かれたという説である。築城は、天文~永禄期(1532~1570)の頃と推定されるが、いずれにしても、杉原城は町内の山城の中でも中規模の城郭に入り、遺構としては、氏神の鎮座もあって当初の姿がよく残っている。 『杉原城跡案内板』より


仏称寺本殿

説明板


杉原城跡へのアクセス
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丸山城跡

所在地:大阪府能勢町地黄
別名:地黄古城、天王丸、城山城、能勢城
築城主:能勢頼国
築城年:長元年間(1028~36年)
廃城年:1602年(地黄城築城に伴い廃城)
訪城日:2014年3月21日

摂津国能勢郡の丸山城は、地黄の北西に突き出した尾根先端の標高278メートル、比高約40メートルの丸山という残丘上に位置する。
ここは、摂津から丹波国へと通じる街道に面した交通の要衝で耕作地も広く、長元年間(1028年-1036年)にこの地に入部した豪族能勢氏の本拠地となった。能勢氏は、近在で産出した銀や銅の流通を把握して勢力を拡大し、周辺武士団の惣領として武威を振るったという。
丸山にはすでに平安時代末には城館が営まれたとみられ、大手登り口付近には多くの平坦地を確認している。能勢氏はその平坦地に居館をおいたと考えられる。
なお、鎌倉時代の石造九重層塔や南北朝時代の石造宝篋印塔が現在も残っている。

能勢頼道と丸山城
1578年(天正6年)、それまで織田信長に出仕していた有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重は突然信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが起こった。このとき、丸山城の21代城主であった能勢頼道は、高槻城(高槻市)の城主高山右近、茨木城(茨木市)の城主中川清秀と同調し、荒木村重に従った。しかし、その後高山右近、中川清秀はともに信長方の説得に応じて開城している。翌天正7年(1579年)4月、有岡城の攻城中に織田信忠、津田信澄を両大将に、筒井順慶、丹羽長秀、蜂屋頼隆、原胤広、金森長近、中川清秀ら1万5,000の兵が能勢に出軍してきた。このとき、能勢郡の西郷の諸城は次々に落城し、織田信長の支配下へ入っていったが、東郷の丸山城については不明である。『能勢町史』によると「能勢頼道はあくまでも反信長の態度を維持することができたのか、その動きを知りうる史料はない」として、この間の能勢頼道の動きを不明としている。
1579年(天正7年)、第二次黒井城の戦いで丹波国を平定した信長は、中国攻めのための補給線上にあるとして丸山城を重要視し、山下城(兵庫県川西市)の城主で信長方の塩川国満を通じて織田氏に帰属するように勧めたが、能勢頼道は、これに応じなかった。翌天正8年(1580年)9月17日、塩川国満は能勢頼道を山下城に招きいれ、殺害してしまった。
能勢頼道の弟能勢頼次は、頼道が謀殺されたとき19歳であったが、塩川氏打倒の兵を挙げ、大槌峠で戦闘となり塩川国満軍を破った。しかし、天正8年9月19日、明智光秀軍に属していた河原宣勝隊が大軍を率いて丸山城周辺に迫ってきた。これに危機感を覚えた能勢頼次は、翌1581年(天正9年)丸山城を捨てて能勢妙見堂に為楽山城を築き、織田信長軍の備えとした。しかしその後、明智光秀の交渉に応じて連携し、兄である能勢頼長に兵500をつけその幕下となった。翌1582年(天正10年)、本能寺の変の際、明智光秀に味方したため、羽柴秀吉軍に攻められ再び丸山城は落城した。為楽山城にいた能勢頼次は城を退去し落ち延びることとなった。


石造九重塔/丸山城の大手登り口付近に建つ

石造九重塔説明板

登城口

登城口すぐにある丸山城跡の標木

二の丸跡にある丸山神社

堀切跡

本丸跡


丸山城跡へのアクセス

地黄城跡

所在地:大阪府豊能郡能勢町地黄211
別名:地黄陣屋、丸山新城、能勢城
築城年:1602年(慶長7年)
築城主:能勢頼次
主な城主:能勢氏
廃城年:1869年(明治2年)
城郭構造:平城
訪城日:2014年3月21日

能勢頼次は、関ヶ原の戦いで軍功を上げ、旧領と数十か所の村領地が安堵され能勢に復帰し、能勢頼次とその一族の所領を合わせると7,800石余で、野間社を再建、地黄城の築城に着手した。1602年(慶長7年)より普請が開始され、山田彦右衛門なる人物が普請奉行をつとめ丸山城から石材、木材を移し、丸山城の麓にあった市場も地黄城に移し城下の町割りについても整備していった。石垣は丹波国印南村の村民が従事したようで「印南積」と呼ばれている。能勢頼次が印南村民の願いを聞き入れた礼だと伝わっている。元和元年(1615年)秋地黄城は完成する。
能勢頼次は元和7年(1621年)に隠居したが、その間も領民に善政を布き、用水の開墾や道路の改修、また日蓮宗に深く帰依し、領内の各宗の改宗も行っており、能勢氏中興の祖と言われている。しかし、その能勢頼次も寛永3年1月18日(1626年2月14日)江戸で没した。弓術に長けて知勇に優れ、徳川幕府の旗本として活躍した。65歳であった。徳川幕府は遺言によってその子孫に分与した。長男能勢頼重に3,000石、次男能勢頼高に1,500石、三男能勢頼之に1,000石、四男能勢頼永に846石、五男能勢頼平300石をそれぞれに与えた。地黄城は能勢頼重が引き継ぎ後の11代目能勢頼富まで続いた。明治2年12月(1870年1月)に上知し、地黄城は会議所に充てられ1879年(明治12年)3月には能勢郡役所庁舎となり1880年(明治13年)まで使用されていた。


大手門跡(食違虎口)

能勢氏古城址の石碑

地黄城跡の案内板



清普寺 (大阪府能勢町地黄815)
清普寺山門

清普寺本堂(地黄城大広間の遺構)

清普寺由緒

能勢氏代々の五輪塔・墓石

能勢頼次の墓

この他に頼次の妻、三女福(近江の局)、 能勢頼永、 能勢頼庸等の墓があります。

地黄城跡へのアクセス
         
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