高橋城跡

所在地:兵庫県姫路市香寺町溝口
別名:手城山城
築城年:不明
築城主:不明
城主:小川幸三藤原秀高
廃城年:天正13年(1585)
遺構:なし
訪城日:2014年11月3日

城跡は東西20間 南北15間。創築年代は明らかではありません。

頂上付近にある愛宕神社祠

主郭かな?



高橋城跡へのアクセス
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城戸の関

所在地:兵庫県姫路市夢前町山之内
築城年:不明
築城主:不明
城主:不明
遺構:説明板、標柱
訪城日:2014年6月26日

前之庄と山之内の境、木戸のダムの辺りには夢前川の流れに両側から山々が迫っている。中世にはここに城戸関があったという。元弘3年(1333年)後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して京都に還幸する途中に書写山へ立ち寄った際、ここから山之内に入って土地の豪族の元に滞在したという伝承が残っています。

標柱と案内板

案内板



城戸の関跡へのアクセス

三森城跡

所在地:兵庫県姫路市安富町三森
築城年:不明
築城主:不明
城主:三森範治
遺構:城跡碑
訪城日:2014年6月26日

中世の山城の遺構で、山頂部に数段の段構が残っている。『赤松家播備作城記』には見えないが、宝暦5年(1755)の『播磨古跡孝』に「三森古城 安志庄三森村に有 三森近江守と云う人 住之と云」とあるのが初見である。
長水城の東の出城と推定される。東から敵が攻めてきた場合、下河峠を中継点として狼煙によって長水城へ知らせるのが、第一の任務であったと推測される。三森城-下河峠-長水城は一直線上にあって、それぞれ合図の確認距離内にある。小規模ではあるが、安富町域唯一の中世の山城の遺構である。

麓にあるあごなし地蔵

三森城跡碑
跡碑付近からの登城になるようですが金網で封鎖されています。


三森城跡へのアクセス

菅生代官構跡

所在地:兵庫県姫路市夢前町菅生潤(善照寺)
築城年:不明
築城主:不明
城主:鳥井氏、本条氏、芦田氏
遺構:構跡碑、石垣
訪門日:2014年6月26日

赤松家は大永年間(1521-28)鳥井、白国、嵯峨山の三氏を郡代官に任じた。菅生代官は鳥井弥五郎。のち本条十郎左衛門、鳥井弥五郎、芦田与助を。天文十年(1541)には鳥井丹波守信薫、白国備前守宗轍、嵯峨山隼人正正棟の三氏を郡代官に任じた。(現地案内碑より)


本堂

屋敷跡だと思われる所にある石垣

このような石垣がると箇所が、周辺に結構あります。

菅生代官構跡へのアクセス

佐野邸

所在地:兵庫県姫路市夢前町新庄1262
訪城日:2014年6月26日

佐野家は初代清佐衛門が、榊原康政に仕え、二代目清佐衛門は康政の孫忠次に仕え、慶安2年(1649)忠次の移封に従って姫路へ移ってきた。清佐衛門と長子四郎左衛門は、ゆえあってともに榊原家の臣籍を離れ、その時、玄意近春はまだ幼少であったので、伯父の中根善次郎貞成に預けられた。正徳元年(1711)中根氏は新田開発の要請をし、藩主はこれを認めて賀野庄新庄村での開発を許可した。佐野玄意の子、権太郎が新田開発人となって、田約八町歩、畑山林四十五町歩、宅地一町二反歩を開発し、「佐野新田」と名付けられた。その後、荘右衛門周春、円治芳近、玄意精春、杢弥春重、円治満方、富松直信、芳之、信雄とつづき、その信雄氏が、昭和62年10月、建物、敷地等を夢前町に寄贈し、公共のために役立てたいと遺言を遺され、遺族より寄贈を受けた。江戸時代中期に建てられた主屋は、夢前町内稀少の庄屋風の造りとして、平成5年11月に夢前町文化財に指定された。

長屋門

説明板

公開日は、土曜・日曜日および祝日(12月29日~1月3日は除く)、午前10時~午後4時
平日だったので閉館していました。

佐野邸へのアクセス

瓦山構居跡

所在地:兵庫県姫路市下手野2丁目
訪門日:2014年6月26日

領主は、山名大膳氏弘。氏弘は山名宗全の家臣で、応仁の乱(1467~1477年)の頃この地を守った。

官兵衛本陣跡 土器山の戦い
永禄12年(1569年)6月、3000の兵を率いた赤松政秀は小丸山に布陣、対する黒田軍は土器山に陣を張った。戦闘があったのは裾野の土器坂である。戦闘は赤松軍の土器山の黒田軍への夜襲に始まった。兵150の孝高は叔父(職隆の実弟)の井手友氏(いで ともうじ)や母里小兵衛などの有力な武将を失い窮地に陥ったが、夜が明けると英賀城主の三木通秋が率いる280の兵が南から赤松軍を攻撃、さらに姫路から職隆が出撃して赤松軍の後背を突いたことで救われた。
黒田軍は孝高が先鋒、職隆が殿という布陣で同夜に小丸山の赤松軍を強襲した。昼までの戦闘での戦果から黒田軍の反撃を予想していなかった赤松軍はこの夜襲をうけて混乱し敗走した。 敗走した赤松軍のうち衛藤忠家・島津蔵人と4人の弟が笹峠(現・山田峠)で討死した

土器山史蹟説明板

金比羅宮

本陣跡

眺望


官兵衛本陣跡

深志野構居跡

所在地:兵庫県姫路市御国野町深志野
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:小寺官兵衛
訪城日:2014年4月6日

『飾磨郡誌』に「播陽里翁説」として「深志野の構居は御着の枝城にて、領主は小寺孫四郎又小寺官兵衛といふ。三木の城主別所孫三郎が、官兵衛の館に逆に押し寄せるといふは即ち此構居也。官兵衛は御着小寺の家臣にて一時は深志野の構居に居住するといへり、今此構居跡の南に馬場の跡ありとある。」五社宮神社近辺に「門前」「構居所」という地名、裏山の竹林には深壕や石垣が現在も残っている。地元では裏山麓に家老屋敷や侍屋敷があったといわれ、別所軍を撃退したといわれる。深志野が大村千軒に含まれていた可能性を指摘しており、興味深い。中近世移行期に姫路周辺で経済的な活動も行ったとされる、土豪の深志野氏の存在形態も興味深い。

深志野構居跡案内板

社殿



深志野構居跡へのアクセス

蒲田城跡

所在地:兵庫県姫路市広畑区西蒲田(城山神社)
別名:蒲田構
築城年:大永年間(1521~28年)
築城主:別所右衛門
訪城日:2014年4月13日


お社

城山神社由緒

登城口

最初は登城口がわからず左手の山を目指して行きましたが、どうやら違ったようで、右側の山からみたいです。たぶんこの供養塔のあるところから登るのだとおもいます。なんだかよくわからなかったので断念しました。(ちなみに蒲田城へはいくつかのルートがあるようです)

蒲田城跡へのアクセス

岡田構居跡

所在地:兵庫県姫路市岡田
築城年:不明
築城主:岡田一武
主な城主:岡田氏
訪城日:2014年4月13日

英賀城の家臣岡田一武が築きました。子孫の清太夫通躬の時に英賀城に入り、秀吉の軍と戦って討死しました。(日本城郭大系12より)
DSC02414.jpg
DSC02415.jpg
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岡田構居はこの辺にあったみたいです。完全に宅地化されており面影はありません。

岡田構居跡へのアクセス

恒屋城跡

所在地:兵庫県姫路市香寺町恒屋
築城年:嘉吉年間(1441~43年)
築城主:恒屋刑部少輔重氏
主な城主:恒屋伊賀守光氏、恒屋対馬守政直
廃城年:天正五年(1577年)
訪城日:2014年4月10日

頂上の北側が後城(標高236メートル)、南側が前城(標高199メートル)です。この城は嘉吉年間(紀元1441~1443)に恒屋氏が築城し天正四年(紀元1576)羽柴秀吉のちの(豊臣秀吉)によって落城しました。その折に恒屋氏は滅亡したようです。城の遺構本丸、出丸、土塁、堀、など中世の山城の典型的機構が残り城の下には堀をめぐらした居館跡も見受けられます。(現地案内板より)

恒屋城跡案内板

前城にある畝状堅堀

お堂
城主だった恒屋光氏が祀られています

五輪塔(通称ごーりんさん)
戦国時代、野戦で死んだ無縁仏になった侍の霊を祀った石塔

三の郭付近の虎口

三の郭
主郭を護衛する前線拠点(見張業務)

土塁

横堀(空堀)奥には横矢掛かりがあります。

二の郭(日常業務と保管拠点)

水の手
敵の攻撃を防ぐのが主であるが一時的に雨水を貯めて、城で使用する水を確保する目的もある。両側が高くなっているのが特徴です。

堀切

虎口

本丸(後城)

盗掘跡

右手の建物(香寺荘)周辺が、恒屋氏居館跡です。

中村構居跡(画像左手の森林内)
永禄の頃、恒屋城の家老花村将監が居住したところ。


恒屋城跡へのアクセス
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2017年3月よりEOS M5で撮影しています。