稲城跡

所在地:大阪府八尾市南木の本7丁目(光蓮寺)
別名:
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:物部守屋
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏の軍勢は強盛で、守屋自身も朴の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけ、大いに奮闘した。皇子ら追討軍の軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。
迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺し、総大将を失った物部軍は総崩れとなる。この好機に追討軍の寄せ手は攻めかかり、守屋の一族らを殺し、結果守屋の軍は敗北して離散した。「丁未の乱」(ていびのらん)











稲城跡へのアクセス
スポンサーサイト



神宮寺城跡

所在地:大阪府東大阪市神宮寺5丁目
別名:
築城年:不明
築城主:神宮寺氏?
廃城年:正平3年(1348年)頃
主な城主:神宮寺小太郎兵衛正師
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

神宮寺城について詳細は不明です。
字垣内山に東西540m、南北327m余りにあたる地域で殆んど方形を示した神宮寺城跡と称する所が在している。
神宮寺小太郎は恩智城の恩智左近らと共に楠方に属し南朝の為に尽くしたと言われています。延元元年(1336年)湊川で楠木正成が戦死した時、これに殉じた人々の中に神宮寺小太郎兵衛正師という人があります。神宮寺太郎兵衛は同じく一族と考えられます。神宮寺太郎兵衛は、その後、正平3年(1348年)四条畷の戦いに於いて楠正行と共に戦死した為、北朝方より落城し廃墟と化したという。字石塚に神宮寺小太郎の塚と称するものが伝えられています。
「八尾市史 前近代 第四節戦国時代の八尾より抜粋」







神宮寺城跡へのアクセス

萱振城跡

所在地:大阪府八尾市福万寺町4丁目13(三十八神社)
別名:
築城年:延元2年(1337年)
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:萱振飛弾守賢継
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

南北朝の延元三(1338)年に南朝方の高木遠盛が北朝方の萱振城を攻め焼き払ったことが和田文章、田代文章に記されており、既にこの時期には城構えがあったことが知られている。文明二(1470)年 には、本願寺第八世法主蓮如上人の布教の後、蓮如の第六子蓮淳を初 代住持として、萱振城内に浄土真宗本願寺派の萱振御坊恵光寺が創建されている。戦国期の天文三(1534)年 には、大坂の石山本願寺と対立していた木沢長政との戦いの戦場となりこの戦いで萱振が焼かれたと伝えられている。天正三・三(1574・ 1575)年 には、織田信長の河内平定に反抗し て、恵光寺を中心とした門徒衆を中心とした戦いが行われており、大坂石山本願寺の河内での拠 点として萱振が大きな役割を果たしたものと推定される。 室町時代前期以降に成立していたと推定される萱振環濠集落は、長瀬川と玉串川に挟まれた低 地部を南北に縦断する主要街道(後に河内街道)が集落内を通り、さらに萱振集落の北には大坂玉 造から大和竜田へ通じる十三街道と合流する交通の要衝であつた。このため、南北朝期から戦国 期にかけて河内での戦いの戦場となった北の若江や南の人尾、久宝寺と比較的近い地点に位置し ていたことにより、絶えず戦乱に備えた防御的な集落形態を執らざるを得ない状況の中で環濠集 落化が計られたものと推測される。 「八尾市文化財調査研究会報告書より抜粋」


恵光寺山門



石板の説明文)
大徳寺と号し真宗西本願寺末である。寺院の西南の地は字城土居と呼ばれ萱振城の跡と伝えられる。南北朝時代から室町時代にかけてこの附近一帯はたえず戦場となり荒廃したが文明二年(一四七〇)蓮如上人が河内布教のあとその子蓮淳を開基としてここに恵光寺を建立し、萓振寺内町を形成した。南に念仏橋があり、帰依する者も多く河内若江二郡五十二ヵ寺の触頭(ふれがしら)をつとめ萓振御坊(柳の御坊)とも呼ばれる由緒深い寺院である。出典『史跡の道・説明石板』八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1987年】
*石板の説明には一部現状と異なる場合があります

蓮如上人像


萱振城跡へのアクセス

福万寺城跡

所在地:大阪府八尾市福万寺町4丁目13(三十八神社)
別名:
築城年:文和年間(1352年~55年)
築城主:佐々木盛恵
廃城年:不明
主な城主:佐々木氏
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

福万寺城は、文和年間(1352年~55年)に、佐々木盛綱8世の孫、佐々木二郎盛恵の居城であったとされますが詳しいことはわかっていません。現在の三十八神社が城跡とされています。







IMG_2663.jpg

福万寺城跡へのアクセス

彦坂陣屋跡

所在地:大阪府東大阪市上四条町9
別名:彦坂民之助陣屋
築城年:慶応元年(1865年)
築城主:彦坂重礼
廃城年:明治元年(1868年)
主な城主:彦坂壱岐守重紹
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

彦坂陣屋は、彦坂民之助陣屋とも呼ばれ、慶応元年に彦坂重礼(民之助)によって築かれました。2代目重紹の時大阪西町奉行に就任し四条村と五条村で1千石を加増されました。


IMG_2656.jpg







彦坂陣屋跡へのアクセス
この辺り一帯が彦坂陣屋跡らしいですが、非常に道幅が狭く車だと駐車するのも困難かと思います。

客坊城跡

所在地:大阪府東大阪市客坊町
別名:
築城年:不明
築城主:不明
廃城年:不明
主な城主:不明
遺構:なし
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:駐車スペースあり

客坊城について市杵姫神社が城跡とされていますが築城年など詳細は不明です。
室町時代に、若江城の戦い(応仁の乱)において畠山政長方(東軍)が守っていましたが、西軍の畠山義就勢に攻められ文明九年(1477年)落城しています。





客坊城跡へのアクセス

水走氏館跡・墓塔

所在地:大阪府東大阪市五条町5
別名:
築城年:不明
築城主:水走氏
廃城年:不明
主な城主:水走氏・杉原周防入道
遺構:なし
指定文化財:市指定史跡
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:なし

水走氏は、古くより枚岡神社の祀官をつとめるとともに、現在の東大阪・大東・八尾にかけて土地の領有や中世の支配権をもった中世領主です。
水走文書によれば、屋敷は五条にあり、寝殿・廊・惣門・中門・土屋・厩屋・倉等を有していたことが記されています。
昭和48年、水走氏館跡の一部と伝える墓塔北側の水田において発掘調査が実施され、建物の柱穴や池泉跡、溝状遺構などがみつかりました。
墓塔は、文化8年(1811)9月に水走飛騨守忠良によって建てられた高さ3.18mの五輪石塔で、墓地は市の史跡に指定されています。
方形3段の基礎と、請花・反花座をふまえて立つ五輪前面に「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ァ」の梵字、基礎石西面に水走忠道以下6名と法名3人の合計8名の名が刻まれています。
北面には、1行8字、19行に及ぶ銘文があり、磨滅のため全文を判読することはできませんが、先世の墓が荒廃していたため、この石搭を後世のため造立したことが記されています。
造立者の水走飛騨守は忠良と号し、宝暦3年(1753)河内国茨田郡の生まれで、享和2年(1802)水走忠堅の養子となり飛騨守に任じられた人物で、医学を学び、詩文や俳諧にもつうじた近世河内が生んだ学者の一人です。
『現地案内板より』


現地案内板




水足氏館跡へのアクセス

足立氏館跡

所在地:大阪府東大阪市善根寺町6丁目3
別名:
築城年:不明
築城主:足立氏
廃城年:不明
主な城主:足立昌成
遺構:水堀
指定文化財:なし
訪城日:2018年5月5日(土)晴
所要時間:すぐ
駐車場:無料駐車場あり

足立氏は古代氏族和気氏の末裔と伝えられる。戦国時代末期足立又助昌成は、はじめ織田信長に仕え尾張国に住んでいたが、のち豊臣秀吉に仕え、大阪城築城にあたって石奉行に任ぜられ、この地河内郡善根寺村に移り住んで、周辺の山々から築城用の石材を多量に切り出した。その子仁兵衛宗佐も父の死後、普請奉行を命じられ、徳川幕府のもとに大阪城の修築用石材を切り出し以後、安達氏は在地の豪族として栄えました。足立氏の屋敷跡は、今も完全な姿を残し広壮な周濠と石垣で囲まれた敷地は、東西110m南北85m面積約9400㎡を測る大規模な城郭的色合いのこいもので、石奉行であった足立氏の力を偲ばせます。延宝8年(1680年)の屋敷図によると周囲に各種の蔵を配し、中央に庭をもつ大規模な本屋を構えていたことがわかります。
(現地案内板より)

水堀

水堀

石垣

石垣

石垣




足立氏館跡へのアクセス

若江城跡

所在地:大阪府東大阪市若江北町・若江北町 若江公民分館
築城年:永徳・弘和2年(1382年)
築城主:畠山基国
主な城主:畠山氏、遊佐氏
遺構:跡碑、案内板
駐車場:なし
訪城日:2012年11月27日

若江城は、南北朝時代の争乱期(14世紀末)に、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取締りのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳2年(1382)から天正元年(1573)までの約二世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たしました。 畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就の義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永録11年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主としました。 城は、石山本願寺攻撃の拠点として使われましたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになりました。 若江城の跡は、昭和47年以来の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民分館を中心として、周辺から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や、瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。
(東大阪市若江公民分館案内板より)

若江の戦いについて
天正元年(1573年)に河内国若江城で行なわれた織田信長軍と三好義継軍の合戦いで元亀4年(1573年)4月に武田信玄が死去すると、信長包囲網は織田軍の反攻を受けて一気に崩れ、信長包囲網の黒幕である室町幕府第15代将軍・足利義昭は京都から河内の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追放された。
しかし足利義昭は追放されたにも関わらず、諸国の大名に対して信長討伐令の御内書を乱発し、三好義継も義兄に当たる義昭に次第に同調する動きを見せた。このため、信長は天正元年(1573年)11月4日に上洛し、三好義継の討伐を決めたのである

三好家ではこの頃、内紛が起こっていた。義昭に同調して信長に反抗的な姿勢を見せる義継に対して、家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三衆らは信長の実力を恐れて信長に誼を通じ、義継にも信長への従属を進めていた。このため義継はこの3人を遠ざけ、寵臣の金山駿河守を家老にして反信長の姿勢を固めていた。
そして信長が派遣した佐久間信盛率いる大軍が若江城に攻めてくる。義継は籠城して迎え撃ったが、肝心の足利義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡したために士気が奮わず、さらに主家もろとも滅ぼされることを恐れた若江三人衆が金山駿河守を殺害し、佐久間の軍勢と内通して城門に引き入れてしまった。このため、義継の敗戦は決定的となる。
義継は妻子一族を自ら殺害し、10日以上も奮戦して三好家当主としての意地を見せたが、11月16日に至って遂に力尽き、近臣の那須久右衛門に介錯させて自害した。
•「三好左京大夫(三好義継)殿非儀を相構へらるるに依つて、家老の衆多羅尾右近(常陸介)・池田丹後守(教正)・野間佐吉(長前)、両三人別心企て、金山駿河万端一人の覚悟に任せ候の間、金山駿河を生害させ……(中略)……天主の下迄攻逃候処、叶ひ難く思食し、御女房衆・御息達皆さし殺し切て出、余多の者に手を負せ、其後左京大夫殿腹十文字に切、比類なき御働き、哀れなる有様なり」(信長公記)(若江城Wikiより)


近隣の史跡:木村陣屋・飯島三郎右衛門の墓・木村重成墓・木村重成像・山口重信墓
備考:信号を渡った真向かいに神社があり石碑が一杯ある場所があるのですが時間的にかなり遅くなり、また帰途の事が気になり寄らずに帰りました。機会があればその他の史跡と併せて再訪したいと思います。

若江城跡へのアクセス

久宝寺城跡

所在地:大阪府八尾市久宝寺6丁目一帯
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:渋川満貞、安井定継
廃城年:天正五年
遺構:跡碑、案内板
訪城日:2012年11月27日

久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。
満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。「久寶寺村誌」より
(久宝寺城跡案内板)

長宗我部盛親物見の松跡
八尾の戦いで、長宗我部盛親隊が物見をした松があったと言われる場所。松はすでに無く、碑があるのみである。

長宗我部盛親物見の松跡碑

城跡碑

説明石碑





土塁跡


久宝寺城跡へのアクセス
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

総訪問者数

プロフィール

播磨河内守

Author:播磨河内守
なんとなく城跡巡りへようこそ!

○写真などの無断転載を禁止します。
○相互リンク募集中です。リンクはフリーです。
○当ブログの掲載内容につきまして参考資料などを見て掲載はしていますが、情報が古かったり、間違っていたりするかもしれません。ご容赦願います。
○掲載内容について不備等御座いましたらご指摘いただけたら幸いです。

開閉式カテゴリ一覧

人気ランキングに参加しています。

撮影機種

2017年3月よりEOS M5で撮影しています。