地黄城跡
所在地:大阪府豊能郡能勢町地黄211
別名:地黄陣屋、丸山新城、能勢城
築城年:1602年(慶長7年)
築城主:能勢頼次
主な城主:能勢氏
廃城年:1869年(明治2年)
城郭構造:平城
訪城日:2014年3月21日
能勢頼次は、関ヶ原の戦いで軍功を上げ、旧領と数十か所の村領地が安堵され能勢に復帰し、能勢頼次とその一族の所領を合わせると7,800石余で、野間社を再建、地黄城の築城に着手した。1602年(慶長7年)より普請が開始され、山田彦右衛門なる人物が普請奉行をつとめ丸山城から石材、木材を移し、丸山城の麓にあった市場も地黄城に移し城下の町割りについても整備していった。石垣は丹波国印南村の村民が従事したようで「印南積」と呼ばれている。能勢頼次が印南村民の願いを聞き入れた礼だと伝わっている。元和元年(1615年)秋地黄城は完成する。
能勢頼次は元和7年(1621年)に隠居したが、その間も領民に善政を布き、用水の開墾や道路の改修、また日蓮宗に深く帰依し、領内の各宗の改宗も行っており、能勢氏中興の祖と言われている。しかし、その能勢頼次も寛永3年1月18日(1626年2月14日)江戸で没した。弓術に長けて知勇に優れ、徳川幕府の旗本として活躍した。65歳であった。徳川幕府は遺言によってその子孫に分与した。長男能勢頼重に3,000石、次男能勢頼高に1,500石、三男能勢頼之に1,000石、四男能勢頼永に846石、五男能勢頼平300石をそれぞれに与えた。地黄城は能勢頼重が引き継ぎ後の11代目能勢頼富まで続いた。明治2年12月(1870年1月)に上知し、地黄城は会議所に充てられ1879年(明治12年)3月には能勢郡役所庁舎となり1880年(明治13年)まで使用されていた。

大手門跡(食違虎口)

能勢氏古城址の石碑

地黄城跡の案内板

清普寺 (大阪府能勢町地黄815)
清普寺山門

清普寺本堂(地黄城大広間の遺構)

清普寺由緒

能勢氏代々の五輪塔・墓石

能勢頼次の墓

この他に頼次の妻、三女福(近江の局)、 能勢頼永、 能勢頼庸等の墓があります。
地黄城跡へのアクセス
別名:地黄陣屋、丸山新城、能勢城
築城年:1602年(慶長7年)
築城主:能勢頼次
主な城主:能勢氏
廃城年:1869年(明治2年)
城郭構造:平城
訪城日:2014年3月21日
能勢頼次は、関ヶ原の戦いで軍功を上げ、旧領と数十か所の村領地が安堵され能勢に復帰し、能勢頼次とその一族の所領を合わせると7,800石余で、野間社を再建、地黄城の築城に着手した。1602年(慶長7年)より普請が開始され、山田彦右衛門なる人物が普請奉行をつとめ丸山城から石材、木材を移し、丸山城の麓にあった市場も地黄城に移し城下の町割りについても整備していった。石垣は丹波国印南村の村民が従事したようで「印南積」と呼ばれている。能勢頼次が印南村民の願いを聞き入れた礼だと伝わっている。元和元年(1615年)秋地黄城は完成する。
能勢頼次は元和7年(1621年)に隠居したが、その間も領民に善政を布き、用水の開墾や道路の改修、また日蓮宗に深く帰依し、領内の各宗の改宗も行っており、能勢氏中興の祖と言われている。しかし、その能勢頼次も寛永3年1月18日(1626年2月14日)江戸で没した。弓術に長けて知勇に優れ、徳川幕府の旗本として活躍した。65歳であった。徳川幕府は遺言によってその子孫に分与した。長男能勢頼重に3,000石、次男能勢頼高に1,500石、三男能勢頼之に1,000石、四男能勢頼永に846石、五男能勢頼平300石をそれぞれに与えた。地黄城は能勢頼重が引き継ぎ後の11代目能勢頼富まで続いた。明治2年12月(1870年1月)に上知し、地黄城は会議所に充てられ1879年(明治12年)3月には能勢郡役所庁舎となり1880年(明治13年)まで使用されていた。

大手門跡(食違虎口)

能勢氏古城址の石碑

地黄城跡の案内板

清普寺 (大阪府能勢町地黄815)
清普寺山門

清普寺本堂(地黄城大広間の遺構)

清普寺由緒

能勢氏代々の五輪塔・墓石

能勢頼次の墓

この他に頼次の妻、三女福(近江の局)、 能勢頼永、 能勢頼庸等の墓があります。
地黄城跡へのアクセス
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