丸山城跡

所在地:大阪府能勢町地黄
別名:地黄古城、天王丸、城山城、能勢城
築城主:能勢頼国
築城年:長元年間(1028~36年)
廃城年:1602年(地黄城築城に伴い廃城)
訪城日:2014年3月21日

摂津国能勢郡の丸山城は、地黄の北西に突き出した尾根先端の標高278メートル、比高約40メートルの丸山という残丘上に位置する。
ここは、摂津から丹波国へと通じる街道に面した交通の要衝で耕作地も広く、長元年間(1028年-1036年)にこの地に入部した豪族能勢氏の本拠地となった。能勢氏は、近在で産出した銀や銅の流通を把握して勢力を拡大し、周辺武士団の惣領として武威を振るったという。
丸山にはすでに平安時代末には城館が営まれたとみられ、大手登り口付近には多くの平坦地を確認している。能勢氏はその平坦地に居館をおいたと考えられる。
なお、鎌倉時代の石造九重層塔や南北朝時代の石造宝篋印塔が現在も残っている。

能勢頼道と丸山城
1578年(天正6年)、それまで織田信長に出仕していた有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重は突然信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが起こった。このとき、丸山城の21代城主であった能勢頼道は、高槻城(高槻市)の城主高山右近、茨木城(茨木市)の城主中川清秀と同調し、荒木村重に従った。しかし、その後高山右近、中川清秀はともに信長方の説得に応じて開城している。翌天正7年(1579年)4月、有岡城の攻城中に織田信忠、津田信澄を両大将に、筒井順慶、丹羽長秀、蜂屋頼隆、原胤広、金森長近、中川清秀ら1万5,000の兵が能勢に出軍してきた。このとき、能勢郡の西郷の諸城は次々に落城し、織田信長の支配下へ入っていったが、東郷の丸山城については不明である。『能勢町史』によると「能勢頼道はあくまでも反信長の態度を維持することができたのか、その動きを知りうる史料はない」として、この間の能勢頼道の動きを不明としている。
1579年(天正7年)、第二次黒井城の戦いで丹波国を平定した信長は、中国攻めのための補給線上にあるとして丸山城を重要視し、山下城(兵庫県川西市)の城主で信長方の塩川国満を通じて織田氏に帰属するように勧めたが、能勢頼道は、これに応じなかった。翌天正8年(1580年)9月17日、塩川国満は能勢頼道を山下城に招きいれ、殺害してしまった。
能勢頼道の弟能勢頼次は、頼道が謀殺されたとき19歳であったが、塩川氏打倒の兵を挙げ、大槌峠で戦闘となり塩川国満軍を破った。しかし、天正8年9月19日、明智光秀軍に属していた河原宣勝隊が大軍を率いて丸山城周辺に迫ってきた。これに危機感を覚えた能勢頼次は、翌1581年(天正9年)丸山城を捨てて能勢妙見堂に為楽山城を築き、織田信長軍の備えとした。しかしその後、明智光秀の交渉に応じて連携し、兄である能勢頼長に兵500をつけその幕下となった。翌1582年(天正10年)、本能寺の変の際、明智光秀に味方したため、羽柴秀吉軍に攻められ再び丸山城は落城した。為楽山城にいた能勢頼次は城を退去し落ち延びることとなった。


石造九重塔/丸山城の大手登り口付近に建つ

石造九重塔説明板

登城口

登城口すぐにある丸山城跡の標木

二の丸跡にある丸山神社

堀切跡

本丸跡


丸山城跡へのアクセス
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