鶴居城跡
所在地:兵庫県神崎郡市川町鶴居
別名:城山城・稲荷山城
築城年:南北朝時代後半
築城主:永良三郎則綱
城主:永良氏
廃城年:永禄年間(1558~70)
遺構:
訪城日:2014年11月12日
稲荷山城は標高433メートル稲荷山山頂にあり、東西14メートル南北31メートル周囲約85メートル。その北側、南側にはいくつもの平坦地、石積跡・土留めなども見られます。古老の話では井戸もあったそうです。
城は南北朝後半、赤松則村(円心)の孫、永良三郎則綱がここに城を築き居城としたのが始まりで、その子・孫と受け継ぎ播磨の北の要地とされていました。
赤松氏は嘉吉の乱(1441)のあと但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長久二年(1488)赤松政則が播磨をとりかえすまでの45年の間、山名氏の支配のもとにおかれました。
その後、赤松政則は応仁の乱中に失地を回復し守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていましたが、永禄三年(1560)討死したと言われています。
同じく谷城は、永禄のころ(1558~1570)戦火により消失廃城とあり、両城とも同じ運命を辿ったと考えられます。
『鶴居城跡案内板』より
登城口(南コース)

曲輪


曲輪

石垣1

石垣2

主郭

主郭には何故かブランコがあります。

主郭からの展望

鶴居城跡へのアクセス
登山道は、南コースと北コースの2箇所あります。距離は少し長いですが北コースの方が楽そうです。
別名:城山城・稲荷山城
築城年:南北朝時代後半
築城主:永良三郎則綱
城主:永良氏
廃城年:永禄年間(1558~70)
遺構:
訪城日:2014年11月12日
稲荷山城は標高433メートル稲荷山山頂にあり、東西14メートル南北31メートル周囲約85メートル。その北側、南側にはいくつもの平坦地、石積跡・土留めなども見られます。古老の話では井戸もあったそうです。
城は南北朝後半、赤松則村(円心)の孫、永良三郎則綱がここに城を築き居城としたのが始まりで、その子・孫と受け継ぎ播磨の北の要地とされていました。
赤松氏は嘉吉の乱(1441)のあと但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長久二年(1488)赤松政則が播磨をとりかえすまでの45年の間、山名氏の支配のもとにおかれました。
その後、赤松政則は応仁の乱中に失地を回復し守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていましたが、永禄三年(1560)討死したと言われています。
同じく谷城は、永禄のころ(1558~1570)戦火により消失廃城とあり、両城とも同じ運命を辿ったと考えられます。
『鶴居城跡案内板』より
登城口(南コース)

曲輪


曲輪

石垣1

石垣2

主郭

主郭には何故かブランコがあります。

主郭からの展望

鶴居城跡へのアクセス
登山道は、南コースと北コースの2箇所あります。距離は少し長いですが北コースの方が楽そうです。
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