安芸城跡

所在地:高知県安芸市土居
別名: 安芸(安喜)土居
築城年:伝・1308年
築城主:伝・安芸親氏
廃城年:明治時代初期
主な城主:安芸氏、長宗我部氏、五藤氏
遺構:石垣、土塁、堀、石碑、説明板
指定文化財:なし
訪城日:2017年7月21日(木)晴
所要時間:麓から約10分弱
駐車場:なし

鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)安芸親氏がこの地に城を構えたと伝えられている。以後、安芸氏の居城となった。安芸氏は土佐国東部の安芸郡を支配し、戦国時代には勢力を伸張し土佐七雄の一人となりました。
安芸国虎の時代になり、西部に隣接する長宗我部元親との対立が繰り返され、元親の居城である岡豊城をしばしば攻撃した。永禄12年(1569年)7月、国虎は妻の兄である土佐国西部を支配する一条兼定と結び、八流の戦い(八流崩れ)と呼ばれる長宗我部氏討伐の合戦を起こした。しかし、総崩れとなり逆に安芸城を攻められる結果となった。安芸城での籠城は24日間に及んだが、やがて食糧も尽き、長宗我部側に内通した横山民部が井戸に毒を入れ倒れるものが続出したこともあり、城内の士気は著しく低下した。落城を覚悟した国虎は自害を条件に元親に残存する兵士と領民の助命を願い出た。8月11日、国虎は菩提寺の浄貞寺に入り自決し安芸城は落城した。
落城後は元親の弟香宗我部親泰が安芸城に入城し、阿波進攻の拠点となった。長宗我部氏は「安芸」を「安喜」と改め、明治時代初期までこの字が当てられた。元親の死後、家督を継いだ長宗我部盛親は関ヶ原の戦いにおいて西軍に所属したため改易となった。
江戸時代になり山内氏が土佐一国を与えられると、重臣の五藤為重に1,100石を与え安喜郡周辺に配した。為重は居留地として安喜城を選んだが、元和元年(1615年)の一国一城令により城ではなく「土居」と称した。すでに存在していた内堀と土塁の内側に屋敷を構え、石垣を築いて枡形と櫓門を整備し、土塁の上に塀を築くなどの改修を行った。以後、明治時代に至るまで「安芸(安喜)土居」として五藤氏が居住した。土居の周囲には家臣団の武家屋敷が整えられ、現在も土居廓中として現存している。
『日本城郭大系15より抜粋』


枡形虎口



説明板

五藤屋敷

五藤屋敷

説明板

毒井戸

説明板



石垣



二の段

虎口

詰の段

土塁

景観

北の段

石積

北の段景観

土居廓中武家屋敷

説明板

武家屋敷


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