鳥羽城跡

所在地:三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1
別名:鳥羽の浮城・錦城・二色城
築城年:文禄3年(1594年)
築城主:九鬼嘉隆
廃城年:明治4年(1871年)
主な城主:九鬼家・内藤家・土井家・稲垣家など
遺構:石垣・説明板
指定文化財:県指定史跡
訪城日:2019年4月28日(日)晴
駐車場:三の丸広場に数台分・鳥羽幼稚園下に10台程度

概要
この地は、保元年間(1156~59年)から橘氏の所領となり居館があり鳥羽殿と呼ばれていました。永正年間(1504~1521年)橘次郎忠宗の時に伊勢国司北畠材親が鳥羽を攻略し宗忠は降伏し、志摩二郡を与えられ取手山砦に居城を移したという。
鳥羽城は文禄3年(1694年)九鬼嘉隆によって築かれた。九鬼嘉隆は、波切城九鬼定隆の次男として生まれ九鬼家を継ぐと志摩を手中に収めようとしたが志摩七党の反撃を受けて船で安濃津へ逃れたこともあったが、織田信長に誼を通じ信長の力を借りて
永禄11年(1568年)には、小浜城主小浜久太郎と共に嘉隆に対した橘宗忠は娘を人質にして降伏。元亀元年(1570年)には和具、答志、越賀などを支配下に入れます。
嘉隆はその後信長に従い転戦、信長が本能寺で横死すると秀吉に従い水軍の将として活躍します。慶長2年(1597年)嘉隆は家督を守隆に譲り隠居し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では、嘉隆は西軍の石田三成に味方し、守隆は東軍に属し父子敵味方に分かれた。守隆は徳川家康に父嘉隆の助命を嘆願して許されたが、嘉隆は自害して果てた。関ヶ原合戦の功によって加増を受けた守隆は五万五千石を所領となった。寛永9年(1623年)に守隆が死去すると、家督争いが起こり、藩内は久隆派と隆季派に二分された。幕府の命令によって守隆の遺言どおり弟の久隆が跡を継いだが、2万石を削られたうえ摂津三田に移封されることとなった。一方、兄の隆季には家光の命により丹波に新たに2万石が与えられ、丹波綾部藩となった。その後、鳥羽城は、内藤家3代、天領、土井家1代、大給(松平)家1代、板倉家1代、戸田(松平)1代と目まぐるしく城主が代わり、享保10年(1725年)以降に稲垣家8代で漸く定着した。安政元年(1854年)に地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま、明治4年(1871年)に度会県が置県され同年に払い下げられ破却された。


三の丸















本丸跡



景観





本丸石垣

石垣説明板

天守跡

天守跡説明板

景観

本丸御殿跡

井戸跡

家臣団屋敷跡




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