佐用城跡
所在地:兵庫県佐用郡佐用町字福原
別名:福原城
築城年:建武年間(1334年 - 1338年)
築城主:佐用範家
廃城年:天正5年(1577年)
主な城主:佐用範家、福原則尚
遺構:曲輪、石垣、土塁、空堀、説明版
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし
元弘3年(1331年)に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年~1338年)に築城した。その後、赤松氏36人衆のうちの福原隼人がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる。
戦国時代末期、東西勢力が拮抗する中で、東の利神城、西の上月城、南の高倉城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉が黒田孝高、竹中重治らの諸将に攻めさせ、城主の福原則尚は城に自ら火を放ち菩提寺の円福寺にて自刃して城は落城した。

空堀

主郭


佐用城説明版

福原霊社

土塁





佐用城跡へのアクセス
別名:福原城
築城年:建武年間(1334年 - 1338年)
築城主:佐用範家
廃城年:天正5年(1577年)
主な城主:佐用範家、福原則尚
遺構:曲輪、石垣、土塁、空堀、説明版
指定文化財:なし
訪城日:2019年5月3日(金)晴
駐車場:なし
元弘3年(1331年)に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年~1338年)に築城した。その後、赤松氏36人衆のうちの福原隼人がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる。
戦国時代末期、東西勢力が拮抗する中で、東の利神城、西の上月城、南の高倉城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉が黒田孝高、竹中重治らの諸将に攻めさせ、城主の福原則尚は城に自ら火を放ち菩提寺の円福寺にて自刃して城は落城した。

空堀

主郭


佐用城説明版

福原霊社

土塁





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このエントリーのカテゴリ : 宍粟市・佐用郡