米田城跡
所在地:兵庫県佐用郡佐用町米田
別名:熊見城
築城年:文治年間(1185~90年)
築城主:山田伊豆守則景
廃城年:1567年(永禄10年)
主な城主:山田氏ー宇野氏ー赤松氏ー得平氏
遺構:曲輪、土塁
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月10日(土)晴
駐車場:頂上付近
この城は、山田伊豆守則景が築城したと言われていますが、『佐用郡誌』には、山田伊豆守則景の弟宇野新太夫将則(または為助)が、『赤松家播備作城記』には佐用三郎左衛門範家が初めて築き、建武年間(1334-38年)この城に居たとある。一方得平謙三氏は『熊見城址』で、山田伊豆守則景が初めて築城したが、高倉山城を築いて移った為宇野為助がこれを完成させたと述べています。いずれにせよこの城は、宇野一族によって引き継がれたようです。嘉吉の乱の時山名教清によって落城し、その後赤松氏再興によって赤松一族の居城になったが文明6年((1474年)山名政豊に攻略されその後、得平源三が居城したが、赤松義村と争って落城した。また、天文7年(1538年)能登守祐清が城主の時、尼子晴久に敗れて尼子氏に従属した。永禄10年(1567年)尼子氏の上月城が毛利氏に攻められ落城したため祐清は米田城を放棄して宍粟市の篠の丸城へ逃げ廃城になった。
郭跡にある施設

土塁




削平地

米田城へのアクセス
別名:熊見城
築城年:文治年間(1185~90年)
築城主:山田伊豆守則景
廃城年:1567年(永禄10年)
主な城主:山田氏ー宇野氏ー赤松氏ー得平氏
遺構:曲輪、土塁
指定文化財:なし
訪城日:2020年5月10日(土)晴
駐車場:頂上付近
この城は、山田伊豆守則景が築城したと言われていますが、『佐用郡誌』には、山田伊豆守則景の弟宇野新太夫将則(または為助)が、『赤松家播備作城記』には佐用三郎左衛門範家が初めて築き、建武年間(1334-38年)この城に居たとある。一方得平謙三氏は『熊見城址』で、山田伊豆守則景が初めて築城したが、高倉山城を築いて移った為宇野為助がこれを完成させたと述べています。いずれにせよこの城は、宇野一族によって引き継がれたようです。嘉吉の乱の時山名教清によって落城し、その後赤松氏再興によって赤松一族の居城になったが文明6年((1474年)山名政豊に攻略されその後、得平源三が居城したが、赤松義村と争って落城した。また、天文7年(1538年)能登守祐清が城主の時、尼子晴久に敗れて尼子氏に従属した。永禄10年(1567年)尼子氏の上月城が毛利氏に攻められ落城したため祐清は米田城を放棄して宍粟市の篠の丸城へ逃げ廃城になった。
郭跡にある施設

土塁




削平地

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このエントリーのカテゴリ : 宍粟市・佐用郡